二杯目 幸せをもたらす夏いちごのガスパチョ⑧


「そうだよ。僕はただの臆病者だ」

「違うわ……私もヴィセンテのことならよく知っているもの。頭が良くて努力家なだけでなく、正義感も強くて頼りになる人だって。子どもの頃は、いじめっ子たちを追い払ってくれたこともあったわね。それも一度や二度じゃない。困ったことがあると、よく助けてもらったわ」

「誰にでもそうしていたわけじゃない」


 ヴィセンテはむすりとしたように言った。


「商売がうまくいってせっかく店が大きくなったのに、私と結婚してこの町に残ってもいいの?」

「家業は兄が継ぐことになっている。サラが心配することじゃない」

「まさか、一人娘の私に同情しているの? なかなか婿養子が見つからなくて困っていると思った?」

「同情だって? 馬鹿馬鹿しい。君のほうこそ、親の言いなりになって僕と結婚してもいいのか? 僕なんか、そもそも……ああ、もういい」


 執拗なサラの質問に、ヴィセンテは音を上げたように天を仰いだ。


「じゃあ、何だって言うの?」

「…………」

「言ってくれないと分からないわ」

「…………」


 ヴィセンテは、再び口を閉ざしてしまった。


「シーナ、そう言えば、麦の国には〝寡黙は信頼を得るが、沈黙は愛を失う〟という、古いことわざがあるんだ」


 我慢ならなくなったのか、アルバはいきなりそんなことを言い出した。

 ぎくりとしたように、ヴィセンテが調理場を振り返る。


「まあ! そんなことわざが!」


 シーナはわざと、大げさに言ってみせた。

 シーナとアルバは、そっとうなずき合う。


「やはり愛の言葉は口にしてこそ、ですものね。どんなに素敵な贈り物……たとえば、素晴らしい指輪をいただいたとしても、心のこもった愛の言葉にはかないません」


 シーナは、あくまでもアルバに向かってそう言った。


「えっ、指輪……? あ、ああ、そうだな」


 シーナの芝居に、アルバは戸惑いつつもなんとか合わせる。


「シーナさん……」


 芝居の意図を読み取ったサラは、シーナに向かって強くうなずいた。


 サラさん、私がついているから大丈夫……。


 シーナは励ましの意味で、サラへとうなずき返す。

 心を奮い立たせるかのように、サラは表情を引き締めると、ヴィセンテへと向き直った。


「私、あなたから指輪をもらって、涙がこぼれるほど嬉しかったの。とても大事な指輪だったから、ずっと指にはめたまま一度も外さずにいたわ。だけど、指輪だけじゃ、ヴィセンテの思いは分からない。ちゃんと聞かせてほしいの。あなたの気持ちを」

「一度も外さずに? まさか……僕が贈った言葉に、気付いていないのか?」


 ヴィセンテは唖然としている。


「ヴィセンテが贈った言葉?」

「……そうか、そういうことか。ここに呼ばれた理由がやっと分かったよ」


 サラの目の前で、ヴィセンテは手のひらを上に向けて広げた。


「サラ、僕が贈った指輪を外してくれないか」

「えっ……そんな……」

「頼むから」

「……分かったわ」


 サラは悲しみを耐えるように口元を引き結び、渋々と指輪を外す。


「サラ、よく見てくれ」


 ヴィセンテは指輪をつまんで、内側が見えるようにサラに示した。


『プルクラ・エス、アミカ・メア』


「これは……?」


 指輪の内側に刻まれた異国語が読めずに、サラは不安げな表情になる。


「君は美しい、僕の愛する人、という意味だ」

「それが、ヴィセンテの本当の気持ちなの?」


 サラの切迫した表情を見て、覚悟を決めたように、ヴィセンテはごくりと息を呑んだ。


「ああ、本当だよ……僕はサラをずっと愛している……だけど、言葉にするのが怖かったんだ。僕は、他人と会話をするのが怖い。正しい発音か、言葉を間違っていないか、気がかりでしょうがないんだ。誰かの視線を感じるたび、笑われているんじゃないかといつも怯えている」

「そんな……知らなかったわ」


 ヴィセンテの思いがけない告白に、サラは驚きを隠せない。


「だから、僕は臆病者なんだよ。そのうえ、親の財力がなければ、君に結婚の申込みもできない情けない男だ。そんな僕が夫となることで、君まで奇異の目で見られるんじゃないかと思うと余計に怖くなる。だけど……それでも、君を愛する気持ちは本当だ」

「ヴィセンテ……」


 ヴィセンテの思いをしっかりと受け止めながら、サラは震える手をそっと胸元に当てた。


「ありがとう。私も同じ気持ちよ」

「まさか……本当に……?」

「あなただから、結婚を承諾したのよ」

「サラ……嬉しいよ……」

「もう、怖がる必要はないわ。今度は、私があなたを守るから」


 そこから先は、互いの思いを噛みしめるかのように、二人は黙り込むのだ。


 二人なら、大丈夫ね……。


 様子をうかがっていたシーナは、ほっと一息つく。

 プルクラ・エス、アミカ・メア――君は美しい、僕の愛する人。

 あの日、指輪に刻まれた愛の言葉に気付いたシーナは、言葉の意味は告げずに、もう一度二人で話をすべきだとサラに持ちかけた。


 愛の言葉は、本人から直接聞いたほうがいいはず……。


 しかし、拒絶されたらと思うと二人きりになるのが怖い、とサラは言う。そんなサラの気持ちを汲み取って、シーナは二人を店に招待することにしたのだ。


「二人のところへ、スープを運んできますね」


 シーナが告げると、アルバは無言でうなずく。


「冷たいとうもろこしのスープです。それから、くるみパンにあんずジャムを添えました」


 乾煎りしたくるみを混ぜて焼いたパンは、でこぼことした見た目をしていた。

 個性的な見た目ではあるが、くるみの香ばしい風味とこりこりとした食感がやみつきになる、おいしいパンに焼き上がっている。

 料理を載せた皿に飾ったのは、森の入口で摘んだチャイブの花だ。


「まあ、素敵! シーナさん、ありがとう」


 薄紫色の小さな花を見て、サラは嬉しそうにする。


「懐かしいな……子どもの頃に熱を出した時、すりつぶしたとうもろこしのスープを作ってもらったことがある。麦の国にも、体を労るスープがあるんだな」


 ヴィセンテの表情が、一段と柔らかくなった。


「いただこうか」


 ヴィセンテが言い、二人はそっと見つめ合って笑みを浮かべる。


「どうぞ、召し上がってください」


 それだけ言うと、シーナは静かに調理場へと戻っていった。


「うまくいったな。シーナのスープが最後のひと押しとなって、二人の心の鎧を剥ぎ取った」


 アルバの言葉に、シーナは「いいえ」と遠慮がちに返す。


「私はただ、私のスープを作っただけですから」


 それでも、二人のために、このスープを作って良かった……。


 言いようのない充実感が、シーナの中に広がっていった。


 これからも、人々を笑顔にできるスープを作りたい……。


 スープを口に含み、微笑み合う二人の姿が、シーナに未来への希望を与えてくれるようだった。

 再び、二人の話し声が聞こえはじめ、シーナとアルバは咄嗟に耳を澄ませた。


「だけど、ヴィセンテは誤解しているわ。町の人たちは恥ずかしがり屋ではあるけれど、よそ者だからというだけで、笑ったり避けたりする人ばかりじゃないと思うの」


 サラは切々と、ヴィセンテに語った。


「確かに……町の人たちには、僕たち家族も助けられてきたんだった……」


 ヴィセンテは深くうなずいている。


「あなたは、臆病者でもないし、情けなくもない。ヴィセンテが、家族と一丸になって必死に働いてきたのを、町の人たちはよく知っている。今となっては、あなたを笑う人なんてどこにもいないはずだわ」


 サラの言葉に、ヴィセンテは控えめながらも喜びを滲ませる。


「それから、私は無理なんかしていない。この町や町の人たちが好きなだけ。今の私は、好きな人たちと会って、楽しくおしゃべりがしたいだけなの。内気な女の子は、あれからずいぶんと成長したのよ」

「そうか……要するに、もっと僕が君と話をすべきだったんだな」


 サラはにっこりと微笑んだ。


「これからいくらでも語り合いましょう。旦那様」

「なっ…………ここのスープは本当においしい」


 サラから旦那様と呼ばれて照れくさくなったのか、ヴィセンテは白々しく話をそらす。

 そんな初々しい二人の様子に、シーナは優しく微笑んだ。


「いつまでも、自分から逃げてはいられないんだよな……」


 アルバがつぶやくように言う。


「アルバ……?」


 シーナは、アルバの顔を見上げた。


「あ、いや、だから……彼は臆病者なんかじゃないだろ。本当の自分を見せることは、とても勇気がいることだ」

「ええ、そうですね……」 

「その勇気が持てたのも、受け止めてくれる相手がいたからか……」


 しみじみと言うアルバに、シーナも感じ入る。


「サラさんとヴィセンテさんは、お互いがいたからこそ救われたんですね」


 本心を見せ合うことが、これほど二人の今を変えるなんて……。


 穏やかな空気の中で、楽しげに食事をする、サラとヴィセンテ。

 固く絆を結んだ二人のまばゆさに、シーナは目を細めるのだった。

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