赤き花の咲く場所で
稲石いろ
プロローグ 下級女官の少女
森羅万象を司る神々と、聖なる七大樹の加護によって繁栄する、聖大陸レトゥラ。
大陸の各地を守護する【聖樹】の頂には【済世の七柱】が君臨すると謂われている。
七柱の神々は自らの力の一端を持つに相応しい【王】をひとりずつ選び、祝福を与え、聖樹を通じてその地と人をよく治めるための力を授ける。
王は民と天上の媒介者として敬虔なる祈りを捧げ、地を統べ人を導き、聖樹を豊かな祈りで満たす。
聖樹の根差す地は王と民の祈りによって潤い、祈りに満ちた地が聖樹の加護によって命を育む。
聖樹に祈りが満ちたとき、その頂には大輪の花が咲き誇るという。
済世の七柱が一柱、軍神イヴリスを国の守護神として戴き、その象徴たる紅焔の聖樹を持つ国、大国ブロア。
その王城の一角で、ひとりの少女が高く聳える尖塔の最上階を見上げている。
年のころは十四、十五といったところだろうか。
ブロア王城の下級女官に支給される仕着せを身にまとい、暗い褐色の髪をきっちりと帽子に収めた格好で、長めに伸ばされた前髪が作る影の下に大きな瞳を揺らめかせている。
古びたロケットペンダントを首から下げていて、鎖部分がところどころ錆びついたそれを手のひらに大切そうに握り込んでいた。
少女の名はリーゼ。
彼女の母がつけた元々の名はもっと長いが、八年前のある日から二度と呼ばれることのなくなったその名をリーゼが思い出すことはもうない。
だから自分ではもっぱらただのリーゼとだけ名乗っている。
王族居住区画である内宮の東の一角、第二王子ユスブレヒトの住まう通称『春の宮』の下で、リーゼがこうして足を止めて最上階にある一室を一心に見上げるのは、毎日のリーゼの日課のようなものになっていた。
第二王子が唐突に公の場に姿を見せなくなって、もう一年が経とうとしている。
王家は当初「第二王子が季節病で体調を崩した」とだけ公表したが、ただの季節病にしては自室療養が長引いていることに、宮廷ではさまざまな憶測が飛び交っていた。
いわく、
「本当は重大なご病気なのではないか」
「病など方便で、何か人に知らせられぬことを企んでいるのではないか」
「実はもう亡くなっているのではないか」――
リーゼは宮内を歩くたびに耳が拾うその噂話を思い出しては、首を振って不安を振り払う。
ペンダントを胸に組み合わせた手の中に強く握り込んだ。
「……ユス。どうして、姿を見せないの」
ごく小さな呟きは吹き抜けた風に掻き消され、代わりに風に乗って自分の名を呼ぶ声が遠くから聞こえてきた。
リーゼはそこでようやく自分が女官長から洗濯物を干すよう指示を受けていたことを思い出して、慌ててシーツ類の入った洗濯籠を抱え上げる。仁王立ちで待っている同僚の少女の許に駆け出した。
「まったく、いつもいつもあそこで足を止めてしまうんだから。またコルベラに叱られるわよ。リーゼってば本当にユスブレヒト様にご執心ね」
大きなシーツをふたりがかりで竿に干しながら、同僚の少女が呆れたように言う。
「まあ、リーゼが気が気じゃないのも分かるわよ。あと半年で成人の儀を受けられたら、第一王子殿下を押さえて立太子されるだろうってもっぱらの噂だったのに、もうほとんど絶望的だって皆が手のひらを返し始めたんだもの。本当に残念ね」
「……ええ、そうね」
慰めの言葉に生返事をするリーゼを気にした様子もなく、少女は唇を尖らせた。
「でも、コルベラもあんなに言うんだったら、洗浄の祈術具のひとつでも入れてほしいわよね」
だいたいこーんなにいいシーツを毎日取り替えてるお貴族様がたは、祈術具すらなくっても、指先ひとつで祈術を使ってこのシーツを十枚も二十枚も一気に丸洗いしてしまうって言うじゃない。きっとあたしたちみたいなあかぎれとは無縁なんでしょうね。あーあ、あたしもお貴族様の家に生まれたかったなあ――
お喋りな同僚が冷たい水と石鹸で荒れた手を空にかざして愚痴を零すのを聞き流しながら、リーゼも乾燥してささくれ立った自分の手を見下ろした。
けっしてよく手入れされているとは言えない、すべらかさもきめ細かさも失った労働階級の手。
リーゼは微かに苦笑を浮かべて同僚に首をすくめた。
「祈術具だって祈力がないと動かないわよ。祈力は貴族しか持ってないんだから、下級女官の洗濯部屋に祈術具なんてあっても嵩張って邪魔なだけだわ」
「……リーゼったら変なところで現実的よね。夢見るくらいいいじゃないの。リーゼは憧れたりしないの? いつか素敵な王子様があたしを見初めてくれるかも――って」
「なに馬鹿なことを言っているのよ。ほら、次のシーツを干しちゃいましょ」
取り合わないリーゼに同僚がむくれたが、リーゼがシーツを広げ始めるとすぐに走り寄って端を掴み上げる。
背伸びしてなんとか背の高い物干し台にシーツを被せながら、リーゼは皮肉げに唇を歪めた。
王子様が見初めてくれるですって? ――そんなものに見初められたから、私たちはあんな思いをする羽目になったのに。
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