プロローグ 貴族の男
「――リーゼはこっちにいる?」
そのまま同僚の少女と他愛のない雑談を交わしながら洗濯物を片づけていると、同じ班の先輩女官が焦った様子で顔を覗かせた。
洗濯籠を抱えたリーゼを見つけてほっとしたように胸に手を当てる。よほど急いで来たのだろうか、彼女の息は少し上がっていた。
「女官長がお呼びよ。ここは代わるから、貴女は女官長室に早く行って」
やけに急き立てられて、それほど急ぎの用事なのかと首を捻りながらリーゼは先輩女官に洗濯籠を預けた。
よく分からないまま女官長室に向かい、いつも通り扉を二回、のち三回叩いて名乗る。「どうぞ、お入りなさい」という声が返ってくるのを待って、扉を押し開けて片手でスカートを持ち上げた。
「リーゼが参りました。お呼びでしょうか、女官長」
中に入ると、リーゼの直属の上司である女官長コルベラが待っていた。
ひとつの頷きでリーゼを出迎えたこの女官長は、リーゼが下級女官として城に上がったときと前後して東宮の女官長の座に就いた女性で、春の宮の近くを通りかかるたびに足を止める悪癖を毎日のように叱責されているリーゼは最近彼女と顔を合わせるのが少し億劫だった。
今日のお説教は何かしら、と心の中で思っているのが顔に出たのか、コルベラは眉をきりりと吊り上げて厳しく「リーゼ」と名を呼んだ。それからその視線をすっと横に逸らす。
釣られてそちらに目をやったリーゼは、そこで初めて女官長室に自分の他に先客がいたことに気がついた。
その先客は明らかに高位貴族であろうと分かる風体の男だった。
夜空で染めたような漆黒の長髪、すっと通った高い鼻梁、深い紫水晶を長い睫毛で縁取った切れ長の双眸、太陽の下の労働を知らない白い肌――
高位貴族特有の“貴き血”が生み出した端整な顔立ちが、上等な衣服に包まれた上背のある体躯の上に載っている。
女官長室で女官長を差し置いて最も上等な肘掛け椅子に腰かけ、横柄に長い脚を組んで不躾にこちらを眺める冷淡な視線に、リーゼは内心うんざりしながらも顔を伏せて形ばかりの礼を取った。
貴族に目をつけられたくはなかったからだ。
「……クレーエン女官長、これが?」
貴族の男はリーゼの拝礼を静かに一瞥して、胡乱げにコルベラへと問う。
コルベラが頷くとようやく腰を上げ、にこりともしない顔をさらに顰めてリーゼを上から下までじろじろ見下ろし、それからリーゼの顎を掴んでぐいと上向かせた。
「なっ、ナッハトラウム卿……!」
コルベラが慌てたような声を上げるのを他所に、男は至近距離からリーゼの顔を覗き込んだ。
不埒な振る舞いに顔を顰めそうになるのを堪えてリーゼが怜悧な美貌を見返すと、視線が絡んだ瞬間に、男が微かに目を瞠る。
「……東宮付き下級女官、リーゼ。……家名は、何という」
「家名などございません。平民にございますゆえ」
「紹介状には、リーゼ・エルツとあるが」
「家名を持たぬ平民は家名の代わりに出身地の名を名乗るのでございます」
エルツの町で王都での住み込み女中の働き口を紹介され、そこでの勤労態度や職務能力が評価されて王城勤めの女官の紹介状を手に入れた。
斡旋屋が「少しでも良い待遇で雇われるように」と家名持ちの平民のように書くのだが、リーゼは王城に上がる際にその旨もきちんと説明している。今さら高位貴族直々にけちをつけられる筋合いはない――
と言いたいところだが、この国において貴族は平民に特権的な立場を有する。
もう一年以上前のことであっても貴族が目をつけたら、リーゼは身分を詐称する虚偽の紹介状によって王城にもぐり込んだと罰されるだろう。
旗色が悪いだろうかと背筋に嫌な汗を掻きながらも、努めて落ち着き払った態度でリーゼは直立した。
ここで慌てふためくようなところを見せれば、途端に怪しまれて尋問にかけられる。
リーゼは王城に上がる過程でずるをした覚えはないが、まったくの潔白だと言いきることもできない程度には隠し事を持つ身でもある。
貴族に尋問用の祈術で問いただされてしまえば、抗うすべも持たないリーゼが口を割ったが最後、このまま東宮付きの下級女官の仕事を続けることはできなくなってしまうだろう。
「……他に、名を持っているのではないか」
男の静かな問いに、リーゼはやはり虚偽申告の嫌疑をかけられていたのだと苦い気持ちになる。
自分の実績作りばかり気にしてリーゼの言葉を聞き入れなかった斡旋屋を恨みながら、生唾を飲み込んで口を開いた。
「いいえ、わたくしはエルツの町のリーゼでございます。貴方様と、約定と真理の神の名に誓って、偽りの位階を名乗ったことはございません」
無骨に顎を掴まれたまま文句も言わずにじっとしているリーゼを、男は怪訝な双眸で眺め回していた。
リーゼは目を逸らさず男を見つめ返す。
リーゼの名はリーゼ、それは嘘偽りではない。
今のリーゼには『リーゼ』と名乗る以外の名は存在しないのだから。
「…………そうか」
男はふっと長い睫毛を伏せた。深い紫水晶の瞳に影が差す。
顎を掴んでいた手が離され、リーゼが何を思う間もなく、男はリーゼに手のひらを翳した。
「、――――っ!?」
リーゼが疑問を持つのと、ぐらりと視界が揺れるのはほとんど同時のことだった。
手足から力が抜け、すぐに立っていられなくなるリーゼを男の腕が抱き留めた。
重たくなっていく瞼の合間に、佇んでこちらを見ているコルベラの姿が見えた。
どうして、と尋ねたくても唇すら動かない。視界が霞んで人影が歪んでいく。
遠のく意識に抗いきれず、リーゼの記憶はそこで途切れた。
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