第八話「ゾンビ」

 彼女をなだめつつ、その吐瀉物を掃除していた。


 壁の向こうからは相変わらず鈍い声が響く。そのたびに先輩は身を縮めるようにうつむき、恐怖を飲み込むかのように唇を噛む。


 これほどの態度を見せるということは、相当に根深い確執があるのだろう。


 僕は意を決し、音のする部屋へと足を向ける。ドアノブに手をかけた瞬間、腐敗を思わせる悪臭が鼻をついた。


 思い切って開くとそこは、戦場の瓦礫のようなゴミを集積させた室内が視界に広がった。今までの穢れなど問題にならないほどの混沌がそこにある。


 その奥の小さなパソコンデスクの前で、巨体をはみ出し椅子に座っている男の姿があった。突き出た腹部に、皺だらけの服に身を包んだ身体。脂汗が滲む顔から、ねっとりした眼差しを向けてくる。体重はゆうに百キロを超えているだろう。


 男は不機嫌そうに眉間に深い皺を刻み、唾液を飛ばしながら言葉を吐いた。


「誰だ? てめえは」


 そう言われて僕は戸惑った。


 僕は先輩のなんだろう。本当の恋人と呼べるのか分からないが、形の上では間違いないはずだ。


「先輩とお付き合いを、させてもらっています……」


 すると男は不気味な笑みを浮かべ、耳を疑うようなことを言った。


「てめえが理音の彼氏? 笑えるねえ。残念だったな。あいつの処女は俺のものなんだよ」


 最初は、男が何を言っているのか理解ができなかった。


 この家にいるということは、家族かなにかだろう。


 それが今、何を言った? あいつの処女?


「すみません……。どういうことですか?」


 男は愉快そうに唇をゆがめる。


「あー、おまえ。理音からなんも聞いてねーのか? あいつは俺に、犯されたんだよ。つまりな、おまえは中古の女と付き合ってるってことになるんだ。ははっ!」


 吐き捨てるような笑い声に、頭の中が沸騰しそうになる。


 その瞬間、すべての謎が氷解した。


 目の前の男こそが、彼女を追い詰め、ゾンビという闇へと追いやった、張本人なのだと。


 自分でも驚くほど荒い息遣いのまま、気がつけば怒鳴り声をあげていた。理性を失ったまま拳を振り上げ突進したが、男の巨体に跳ね返され、あっけなくゴミの山に体を埋める。


 痛みすら認識する前に、再び体を起こして身体ごとぶつかった。男はパソコンデスクに覆い被さったあと床に転がり落ちた。


 僕は一瞬の隙を見逃さなかった。足元に転がっていた椅子を掴み上げ、渾身の力で男へと叩きつける。


 フレームが不吉な音を立て、男の悲鳴が狭い部屋に響く。


「痛え! やめろ! 警察を呼ぶぞ!」


「呼べばいい! お前の罪が、許されると、思っているのか!」


 今の僕にはそんな脅しの言葉など何の意味も持たない。


 先輩をあそこまで追い込んでおきながら、よくもそんな戯言を。


 何度も振り下ろすうちに、男は言葉にならない金切り声のような声を上げる。


 視界に飛び散る血の色さえも、僕は認識できていなかった。


 彼女が抱え込んできた苦痛を思えば、これぐらいの報いでは足りない。理性の歯止はとうに壊れている。



ーーその時ふいに、背後から、擦り切れた声が聞こえた。



「もう……やめて」


 振り返ると、彼女が立ちすくんでいた。


「そいつだって……昔は、私の憧れだった。だから、もう、止めて、あげて……」


 その声と共に、一瞬で僕の力が抜けた。


 振り上げていた椅子を、そのまま床に落とした。


 ようやく我に返って、あたりを見る。もともとゴミで溢れていたこの部屋だったが、さらに酷い有様になっていた。大きく息を吐いて、自分を落ち着かせた。


 そのときなって男が人形のように動かないことに気づく。不吉な予感がした。


「おい……」


 さすってみるが、何の反応もない。


 浜辺に打ち上げられた鯨の死骸のように横たわったままだった。


 僕は息を呑み、おずおずと脈に触れる。しかし指先に伝わってくるのは、完全な静止だけ。


 分厚い胸に耳を当ててみると、心臓の鼓動さえ、もう感じられない。


「し……死んでる……?」


 僕が呟くと、先輩は糸が切れた操り人形のように、膝をついた。


 僕も崩れるように座り込み、頭部から流れて溜まっている血の痕跡を凝視して、悪寒が全身を震わせる。


 目の前の光景を、どう受け止めればいいのか、現実感さえ失われていく。


 いつからこんな狂気に足を踏み入れてしまったのか、もう僕には分からなかった。




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