第六話「家」

 次の日の放課後、生徒会室に行っても先輩の姿は無かった。


 昨日の公園での一件が影を落としているのか、そんな不安ばかりが頭を巡る。窓の外に目を向けると、グラウンドの片隅から部活動のかけ声が聞こえてくる。どこか別の世界のような、今の僕にとっては現実感が失われた風景を眺めていた。


 その日だけではなかった。翌日も、そしてその次の日も、先輩は学校から姿を消したままだった。


 幾度となく電話をかけメッセージを送り続けるが、返事は虚空へと流れ去り、手元には何も戻ってこない。無機質な呼び出し音と、既読の付かない画面が、じわりと心を締めつけていく。


 かつて誰の目にも鮮やかに輝いていた彼女が、一週間近くも姿を見せないなんて。


 先輩への思いを巡らせ廊下の片隅で空を見上げると、ふいにあの夏の記憶が、淡い光となって蘇ってきた。


――その年の夏は、観測史上に残るほどの異常な暑さが街を支配した。生まれつき僕は、陽に弱い特異体質を持っている。だから朝早くの登校を幼い頃から続けていた。


 その日は準備に手間取り、出発が遅れてしまった。


 真夏の容赦ない日差しは既にアスファルトを灼き尽くし、僕には耐え難い世界が広がっていた。視界が揺らぎ始めた。近くの電柱が落とす細い影へと逃げ込み、そのまま地面へと崩れ落ちた。


 呼吸さえ満足にできない。異様な冷汗と焦燥感、頭の中が白い光に塗り潰されようとしていた。活動が停止してしまう……。


 そう諦めかけたとき、誰かの気配が世界に差し込んでくる。それまで耳鳴りのように響いていた蝉の声が、ふいに遠ざかっていくのを感じた。


 朦朧とした意識のまま顔を上げると、眩しい光の向こうに、先輩の姿があった。


「……?」


 何か言葉をかけてくれているようだが、最初はその声が水中に潜っているかのように遠く感じられた。


 そして、彼女が鞄から出した小さなペットボトルが、こちらへと差し出される。


「大丈夫?」


 僕がかろうじて視線を合わせると、透明な声が届いた。


 震える指先でペットボトルを受け取り、一口含んだ水は、砂地に染み入るように体の隅々まで浸透していった。


「よかった……」


 先輩は瞳を優しく細め、呟いた。


 その微笑があまりにも印象的で、ああ、この記憶を僕は忘れることはないのだろうとなぜか思った。


「今日は暑いから、熱中症になっちゃったのかな?」


 僕はただ黙って頷くしかなかった。


 すると先輩は白い日傘を広げ、自然な仕草で「入る?」と誘いかける。


「恥ずかしく、ないんですか……?」


「キミが平気なら、私も平気」


 そういって、彼女は微笑んだ。


 雲一つない真夏の青空の下、僕たちは小さな日傘を分かち合いながら歩いていく。


「こんなに晴れた日の相合傘って、少しドキドキするね」と彼女は、はにかんだ。


 通り過ぎる生徒たちの好奇の眼差しを感じるけれど、それさえも夏の通り雨のように流れ去っていく。


 頭上の日傘が風に揺られ、漏れた光が彼女の美しい肌を照らし出す。彼女の存在そのものが光のようだと思った。僕はその影となり、ずっと側にいたかった。


――ああ、僕は恋に落ちてしまったのだ、甘美で切ない確信が芽生えた。そして僕は、なにがあっても彼女を守ると心に誓った。


 季節が巡り、僕が二年生になった頃、先輩が生徒会長に立候補することを知った。彼女のことを知りたい、追いつきたい、もっと近くへ。その想いだけが、副会長への立候補を後押しした原動力だった。


 先輩への気持ちを胸の奥深くに隠して、放課後の生徒会室で彼女の姿を追い続けた。がむしゃらに業務をこなし、資料を持ち帰って夜通し作り上げることさえあった。すべては先輩の側にいるための口実に過ぎなかったのかもしれない。


 あの頃の僕はまだ、彼女がこれほどまで別人のように変貌してしまうなど、想像すらできなかった。


 先輩のことを想うほど、抑えきれない焦燥感が限界を迎えていた。


 連絡を拒まれているのなら直接会うしかない。このまま手をこまねいていては、取り返しのつかない結末を迎えてしまうかもしれない。


 生徒会顧問の先生に何回も頭を下げ、個人情報だからとためらわれたが、ようやく先輩の住所を教えてもらった。


 その家は学校から電車とバスを乗り継いだ先の、都心から遠く離れた地区だった。


 星凪町という見知らぬバス停で降り立つと、人気のない通りを涼しい風が吹き抜けていった。地図アプリを頼りに歩いていくと、雑草の這い上がる細い路地が姿を現す。


 迷路のように幾重にも曲がり入る道を進み、奥へと続く古いブロック塀の連なりの果てに、目的の建物が潜んでいた。




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