第三話「ジャージ」
深夜の青白い光の中。
スマートフォンの画面に浮かび上がる「朱嶋先輩」の文字が、不思議と胸の奥を温める。
「おはよう」
「お疲れ様」
「宿題は終わった?」
何気ない言葉のやり取りが、小さな宝石のように輝きを放つ。先輩からの返信を目にするたびに、この世界に救いの光が差し込むような気がした。
こんな些細なことで心が満たされていく自分は、随分と単純なのだろう。
しかし頭の片隅には、あのゾンビの一件が影のようにまとわりついて離れない。常識で考えれば荒唐無稽な話だ。けれど先輩があれほど真剣な眼差しでそう告げたのなら、そこには何か深い理由が隠されているのかもしれない。
穏やかな日々がしばらく続いた時、先輩から思いがけないメッセージが届いた。
「週末に出かけない?」
僕にとって、初めての「デート」らしきものになる約束。
その三文字を心の中で反芻するだけで、喜びが込み上げてくる。
「定番の恋愛映画」などをネットで幾度も検索し、流行りのスポットを丹念に選び抜いて、完璧なプランを組み立てた。前日など興奮して、うまく寝付けなかったほどだ。
ーーそして記念すべき日がやってきた。
しかし、待ち合わせ場所に現れた先輩の姿は、僕の期待をことごとく裏切るものだった。
上下とも学校指定のジャージ。グレーの生地に校章のワッペンが縫い付けられた、あまりにも素っ気ない装い。
「ゾンビにおしゃれなんて無意味だから」
僕が驚きに言葉を失う中、彼女は当然のように告げる。
気を取り直して向かった映画館で、先輩は思いがけない行動をとった。巨大なポップコーンを抱え込むと、ものすごいスピードで黙々と口に運び始めた。
スクリーンには甘い恋物語が流れる。彼女の右手は止まることなく動き続け、物語が中盤に差し掛かる頃には空になり、その後、満足したかのように深い眠りへと落ちていった。
僕は笑いを押し殺しながら、彼女の眠る姿に横目を向ける。しかし先輩はエンドロールが流れる間も、かすかな寝息を立ていた。
次のデートプランである、ネットでレビューが高かった人気のカフェへ足を運ぶ。
しかし先輩は、華やかなケーキの写真が貼られているメニューを開いた瞬間、こう言った。
「私って、ゾンビだから、甘いものは苦手なの……」
小さい声には、どこか申し訳なさが混じっていた。
話しを聞いてみると彼女は、流行りのものすべてに違和感を抱いているらしい。
休日の楽しみは図書館で過ごす孤独な時間だと言う。好きな本を聞いてみると、どれも聞いたことのないホラーやサスペンスばかり。
「幻滅した……? こんなのぜんぜん女の子らしくないでしょ?」
ブラックコーヒーを飲みながら、彼女は指でテーブルに文字を書いている。
「そんなことないですよ。そういうの、ギャップ萌えっていうんです」
「なにそれ……」
先輩は心底興味なさそうに言ったあと、店内にいる楽しそうな女性客たちを観察するように眺めていた。
今回のデートは失敗だったのかもしれない……。そう思い悩んでいるとき、ある閃きを口に出してみた。
「そうだ! 先輩の行きたいところに、行きませんか?」
そうして僕を待ち受けていたのは、山の裏手に佇む、人気のない公園だった。うっそうと生い茂る木々が空をさえぎり、遊具がぽつんと置かれただけの、時間が忘れ去ったような場所。
古びたブランコに腰を下ろした先輩は、退屈そうに地面に足を擦りつけながら、ゆっくりと漕ぎ始めた。錆びついた鎖が奏でるきしみが、風に乗って響いていく。
隣のブランコに座りながら、僕は不思議な感覚に包まれる。
「子どもの頃って、何も考えなくてよかったよね。楽しかったなあ……」
先輩が不意に空を仰ぎ、どこか遠い場所を見つめるように呟いた。
細い脚を投げ出したまま、わずかに体を揺らしている姿に、なぜか懐かしい感じがした。
「今だって僕たち、子供みたいなものですよ」
僕もギコギコとブランコを揺らしながら言ってみた。
「違う……私は子供じゃない。もうゾンビになっちゃったんだから」
ブランコの揺れが止まった。
ジャージ姿の先輩は鎖を握ったまま、黙り込んでしまった。
映画もカフェも空振りに終わったけれど、今この瞬間、彼女の心の中で何が揺れているのかを知りたかった。笑顔を取り戻してもらうために、僕には何ができるのだろう。
ーーそのとき目の前で、一つの影が動いた。
痩せこけた野良猫が、不意に草むらから姿を現す。
先輩が優しく手を伸ばそうとするも、猫はすぐに茂みの闇へと消えていった。
「あ……」
先輩のかすかな吐息が、夕暮れの空気に溶けていった。
僕がその表情を覗き込んだとき、一瞬だけだったが、彼女が睨んでいるように見えた。なぜだか分からないが、胸の奥に不穏な予感が広がる。
彼女の横顔に、僕は狂気を感じてしまった。
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