第10話 集結、そして再会

「キッショ!キッショいニャー!」

 ロマが髪や尻尾、耳の和毛にこげを総毛立たせて叫んだ。

 隙なく両手に銀の短剣を持ち構えてはいるが、その表情に余裕はない。

 妖精王が手ずから育て鍛えたファミリア使い魔であり、恐らく常若の国でもトップクラスの手練であっても───否、手練であるからこそ、現状の危機を鋭敏に肌で感じている。

 何よりロマも戦い通しであり、さらには空間を行き来もしている。

 消耗していないはずがない。

「……ロゼッタ、お姫さま、ロマがコイツらを引きつけるから、その隙を見つけたら、二人で逃げるニャン」

 唇を動かさず、ロマは二人にだけ聞こえるように囁いた。

 ロゼッタはかぶりを振る。

「迷ってる暇はないニャ!」

 言いながらロマは跳躍ちょうやくし、睨み合ったいなごたちの中に躍り出た。

「ロマはロマの役目を果たすニャ!」

 ロマは音のような速さで、異形の蝗を長い尻尾を用いて撹乱し、打擲ちょうちゃくした。

 怯んだところを的確に短剣で急所を突いて一体にとどめを刺すと、跳ねるように次の群れに身を踊らせる。

 左の短剣を投げ一体の額を割れば、空いた手の先に光る爪でまた別の一体の喉笛を切り裂く。

 さらに右手に残る短剣はまた別の一体の胸を深々と突く────目にも止まらぬ素早さで、ロマは次々と蝗を片付けていく。

 蝗たちは次々と仲間を葬るロマに敵意を集中させ、やがて群がった。

 —……ロマさんの頑張りを……無駄にしてはいけない……!

 ロゼッタはエフォリアの手を強く握ると、群れの隙間をすり抜ける。

「ギニャッ!」

 しかし、その悲鳴が響いたら、足は止まる。

 それ以上は行けなくなる。

「ロマさん!」

 ロマが尻尾を掴まれていた。

 掴んだそれに、蝗の歯がかかる。

 ロゼッタは真っ青になり、次いで頭に血が上った。

 猫になると決めたロゼッタだったから、それが猫にとってどのような苦痛と屈辱であるか知っている。

 尻尾は急所だ。

 ロマのそれを掴み、汚い歯で齧りつくなど許さない。

「やめなさい!!」

 思わず知らず、ロゼッタは叫んでいた。

 残る片羽が細やかに振動する。

「ロマさんから離れて!!離れなさい!!離れなさい!!離れなさい────!!」

 無我夢中で叫んで、叫んで────喉も裂けよとばかりに叫び、ロゼッタは最後の声を放った時、目眩を覚えた。

 鱗粉が舞い散って、同時に空気が変わる。

「……ニャ?」

 唐突に尻尾を離されたロマが、乾いた音と共に草の上にへたり込んだ。

 すべての蝗たちが、機械仕掛けの人形のように一斉に後退し、そこで動きを止めている。

 ロゼッタの言葉に、従順に従うように。

 ロマは素早くロゼッタたちの元に駆け寄った。

「ロゼッタは...精神に影響を与える…強い感応力を持っているのニャ...」

 キュロットのポケットから小瓶を取り出し、封を開けて尻尾にかけながら、ロマが呟く。

 清々しい水の香りから、それが聖別されたものであることが分かる。

「無我夢中で……何がなにやらわかりませんが、とにかく今のうち、ですね」

 改めて三人で駆け出すが、ロゼッタはうまく足に力が入らない。

 耳鳴りがして、一瞬────目が見えなくなった。

「ロゼッタさん」

 よろめいたところに、エフォリアがロゼッタの脇に手を入れ、肩を貸してくれた。

「あ、ありがとうございます、エフォリアさま...」

 言いながら、ゆるゆると戻る視力を確かなものにしようと、ロゼッタは何度も瞬きをする。

 エフォリアがロゼッタに顔を寄せ、首を左右した気配がした。

 やっと回復した目の先には、いつにないエフォリアの厳しい表情があった。

「ロゼッタさん、もうこれ以上、魔力を行使してはいけません」

 エフォリアは、ロゼッタに囁いた。

 それは話としてだけ聞いたことのある、神託のように犯し難い声音だった。

「ロゼッタさんは、力の源である羽根を片方失い、肉体にも傷を負って、あらゆる意味で消耗しています。それでも動けるのは、妖精王が肉体の傷だけは治癒してくださったから...。 けれど、力の要である羽根が回復しない以上、一時凌ぎです。これ以上の魔力の放出は、ロゼッタさんの身体維持の限界を超えます」

 最後には、エフォリアの双眸は潤んでいた。

「もう、何があっても、力を使わないでくださいませ」

 自分でもわからないことを、しかしエフォリアは正確に感じ取っているのだろう。

 本当に心配で言ってくれていることが伝わってきて、ロゼッタは胸が熱くなる。

「わかりました」

 素直に頷いて見せると、エフォリアは安心したように表情を緩めた。

「全部片付いたら、またお茶会しましょう!ロマさんもお招きして!」

 励ますためのロゼッタの言葉に、ロマがニャー!と同意する。

「ぜひお招きしたいですわ。ロマさん、とてもお可愛らしいのですもの」

「キングもクィーンも誘うニャ!」

「ナイスアイデアです!次はアフタヌーンティーにしましょう!私もジャムを作ります!」

 未来への希望は力になる。

 やがて三人は、円形にひらけた場所に出た。

 中央に、石舞台がある。

 月の美しい晩に妖精たちが集い、本能のままに輪になり楽しく踊り過ごす、憩いの場所のひとつだ。

「…楽しいお茶会のために、まずはココを切り抜けないとニャ」

 食い散らかされた痕が哀しい木立に囲まれた円の野原は、巨大化した二足歩行の蝗の群れが周囲の木々を食い荒らしていた。

 野原は妖精たちに愛された場所だから、オーク、ヒース、ニワトコ、ハシバミといった、妖精が好み、また、妖精に力を与える木々に囲まれている。

 妖精たちが愛しんで守ってきたそれらを、蝗らは無残に食い漁っている。

 木々の悲痛な声なき声が、ロゼッタの身を震わせた。

 三人の気配を察し、意地汚く顎から咀嚼したものを散らかしながら、蝗らはすべてこちらに向き直る。

 背後には先程、ロゼッタが動きを封じた一群が正気に返って追ってきていた。

 —……悲しんでる場合じゃないわ…。

 力は使わないと約束したロゼッタは、近くに落ちていた木の棒を拾い上げた。

 食いちぎられたらしい尖った切っ先が、木の怒りを感じさせる。

「楽しいお茶会のために、ですね!」

 言葉の内容とは裏腹に、周囲を敵に囲まれた状況は悲壮だ。

 絶体絶命なのは、その場にいた誰もがわかっていた。

 —……黒曜さまが迎えに来て下さるのだから……!

 ロマとロゼッタでエフォリアを背に隠し、蝗らを気丈に睨め付ける。

 ジリジリとその距離は狭まって行った。


「そのお茶会、私も招待して貰えるのかしら?」


 と、頭上から愛らしい声が降りて来て、緊張が破られる。

 刹那、花の香りの突風が三人を包んだ。

 風は周囲に落ちた木の枝を、小石を、巻き上げ、さらにロゼッタの手からも木の棒を奪う。

 あ、と思った時には、それらはロゼッタたちを囲む蝗たちへと風の加速で襲いかかった。

 回転も加えられたそれらは、小さくても大きなダメージとなって蝗たちを打ち倒す。

「参ります」

「はいな!」

 さらに二つの声が上空から降りて来て、風の速さで前後に別れた。

 前方の一群は不意に地中から現れた茨のつるに巻き取られてみるみるうちに干からび、後方の一群は光に切り裂かれ、蒸発するように消えた。

「いっちょあがりデスの!」

 あっという間の出来事の中、マゼンタ色の髪と同色の透ける羽を持つ少女の姿が確認できた。

「プリムニャン!」

「はいな!プリムラちゃんデスの!ロマニャんお久しぶりデスのよ!」

 プリムラと名乗った少女が指を鳴らすと、ツルが地中にするすると消えていく。

 後方からは、輝く剣をよどみない所作で鞘に収めながら、癖のない淡いラベンダー色の髪をなびかせ、凛然とした面持ちのウォーエルフがこちらに向かって来た。

「プリムラの姉、シャルロットです。フロリンダさまにお仕えしています」

 言われて見れば、プリムラもシャルロットも、同じ銀朱ぎんしゅ色の輝く瞳をしていた。

「私はまだ眠いのよ」

 ハッとして頭上の声を見上げたロゼッタたちが見たのは、丸く渦巻く風の中、見えない椅子に腰掛けるように組んだ足に頬杖をつく、フロリンダの姿だった。

 温もりのある生成色のゆったりしたブラウスとドロワーズの上下衣装は、明らかに寝巻き。

 片手でウサギのぬいぐるみを抱いている。

 柔らかなレースが襟、袖、ドロワーズ裾にふんだんに使われた寝巻きは愛らしいが、豊かに波打つ銀の髪は無造作に広がって、寝起きのままであることを物語っていた。

「ロマニャん、お疲れさまデスの!」

「プリムニャん、助かったニャン!ありがとニャ!」

 プリムラとロマは旧知らしく、猫ポーズで挨拶を交わしている。

 そうしてる間に、耳障りな音を立てて新たな蝗らが集まってくる。

「私が寝てる間に、なに勝手に人の故郷食い荒らして、巨大化してんの、アイツら」

 まだ開き切ってないまなこで、フロリンダは顔を周囲に巡らせ、愛らしい唇をへの字に歪めた。

「フロリンダさまは、寝起きが悪いんデスの〜」

 コソッとプリムラが囁く。

 すぅっと大気がフロリンダに向かって吸い上げられるように動いた。

「いけない!皆様、聴覚を保護してください!」

 シャルロットの鋭い指示に驚きながらも、咄嗟に皆、耳を守る。

 それでも足りぬとシャルロットが結界を張った瞬間、フロリンダの小さな唇から恐ろしいほどの声が放たれた。


「ふざけんなゴルァ!!」


 声────音、というよりも、それは風を媒質に圧となり、周囲に広がる。

 フロリンダを中心にリング状にそれは広がり、木々をしならせ、大地を震わせ、広範囲に影響を及ぼした。

 聴覚を保護し、さらに結界にいてもなお脳を揺らすような大声に、皆、本能的に耳を手で塞いだ。

 聴覚の良いケット・シーのロマは、伏せ耳でもなお目を回した様子で、プリムラに支えられている。

「ロマニャん、しっかりするデスの〜!」

 バタバタと重たいものが落ちる気配がして、ロゼッタたちの近くにも巨大蝗が幾つか落下してきた。

 口から泡を吹いて絶命している。

「フロリンダさまの音波は、邪悪なものの鼓膜から脳を破壊します。一応、味方に対しては『すごい大声』で済むのですが……それでもノーダメージにはならなくて……」

「寝起きの悪さプラス、この状況でかなりご立腹デスのデシて……」

 側近二人の苦しい事訳を、ロゼッタたちはビックリまなこのまま聞いた。

「感情のまま力を放っても、攻撃対象を自動選別しているのは、さすがですわ…」

 エフォリアが震える声で苦しいフォローを入れたところで、葉擦れの音と共に、木立の間から何者かが近づく気配がした。

 咄嗟に皆、身構えたが、必要なかった。

 フロリンダの怒声とは正反対の、甘く響く優しい歌声。

 その場に漂うよどみが、甘さと清涼を二つながらに孕んだ香りで払拭される。

「大きな声を頼りに来てみれば……フロリンダったら。ナイトウェアをみだりに人目にさらすのは、レディの振る舞いに反していてよ?」

 荒れた木々、踏みにじられた草花、そこここに異形の死骸が転がる殺伐とした景色に不似合いな、一組の美麗な男女。

 妖精王オベロンと女王ティタニアであった。

 二人の歩む周囲から、草花は蘇り、木々は生気を取り戻して生き生きと枝を伸ばす。

「ティタニアさま!」

 宙に浮いていたフロリンダの半開きのまなこが、こぼれ落ちんばかりに見張られる。

 花の香りを渦巻かせ、彼女はくるりと爪先立ちで一回転すると、軽やかに地上に降りた時にはいつもの小洒落こじゃれた出で立ちになっていた。

 艶のあるパールホワイトのブラウスに、ピオニー色のジャンパースカート。

 パニエをたっぷり仕込んだそれは、パラソルのように広がって、ベージュ色のショートブーツを履いたフロリンダの長い脚をより美しく見せている。

 エフォリアが「やっぱりお似合いですわ...」とうっとり独りごちたので、すべて彼女の手製なのだろう。

 フロリンダは王と女王に駆け寄ると、レディらしく膝を折って礼をした。

「わたくしがあげたウサギちゃん、まだ大事にしてくれているのね」

 女王の言葉に、フロリンダは顔を上げてまさにウサギのように跳ねて細い首筋にしがみつく。

「もちろんです!お師匠さま!」

 女王も愛しげにフロリンダを抱きとめる。

「わたくしの愛弟子は今日も最高に愛らしいわ」

 二人の意外な関係に驚いた傍に、新しい声が割って入った。

「うっるせえぇえええぇえええんだよ!耳がバカになったじゃねーか!このバカ!」

 火花と共に姿を現したのは、浅黒い肌の青年。

 火の司守、アルスだとわかった。

 女王から体を離して、フロリンダがそちらに顔を向けて鼻を鳴らす。

「本体がおバカだから、耳がバカになったとこで大差はないわ。ってか、アルス。何でアンタがここに居るのよ、不法入国ですか?ヤダー」

 女王に見せた甘えた表情とは打って変わった澄まし顔で、フロリンダは言葉を返す。

「許可とってあるから居るんだろ、この緊急事態だぞ、それくらいすぐわかんねーのかよ、頭の中まで綿菓子か?」

「火の領地のトラブルは片付けたの?半端な仕事してんじゃないでしょうね?単細胞」

「誰に向かって言ってんだ?有能だぞ俺は。キッチリ片付けて来たに決まってんだろ」

「早々に片付いたのは、そこの可愛いロゼッタが夢見で警告してくれたから、危険の想定ができて黒曜が手を打っていたからです〜!二人にお礼しなさいよね、単細胞」

 グヌヌ、と苦虫を噛み潰したような顔をアルスに向けられ、ロゼッタは身をすくませる。

 しかしアルスの表情は、すぐに険しさが掻き消えた。

「めちゃくちゃケガしてんじゃねぇか……」

 言われてロゼッタは、両手を前に出して沈みそうな空気を払うように振った。

「傷は妖精王さまが治してくださったから、平気です!」

 アルスはさらに何か言いかけたが、唇を引き結んだ。

 ロゼッタはそんな彼に、どこか不安を覚える。

 アルスは、一連の災厄の引き金を引いた人物だ。

 今目の前にいる彼は、その責任の全てを背負い込もうと、並々ならぬ覚悟を秘めているように見える。

 そして、それは少し危うい感じがした。

 微妙になった場の空気を、甘さを含んだ軽やかな笑いが払拭する。

「ふふふ、フロリンダったら、火の坊やと、とっても仲良しなのねぇ」

 扇を揺らしながら小首を傾げて笑う女王の横で、妖精王がうんうんと頷く。

「「違う!」」

 フロリンダとアルス、同時に叫んだところで顔を見合せ、フン!とこれまた同時にそっぽを向いた。

 すっかり毒気を抜かれたところに、新たな気配がその場に現れる。

 ロゼッタはハッと気配に顔を向けた。

「綿菓子頭のバカ声でジャミングがいっとき掻き消えた。位置特定が正確にとれるようになったから—―来たな」

 アルスの言葉と同時に、ロゼッタが求めて止まない人が、エフォリアの夫君と連れ立って現れた。

 ロゼッタは歓びのままにその名を呼ぶ。

「黒曜さま!」

 黒曜はロゼッタに目を止めると、真っ直ぐに向かってきた。

「ロゼッタ!」

 ロゼッタも駆け出そうとして、しかし足が上手く動かずにもつれた。

 エフォリアが手を貸してくれたが、支えきれず、一緒にへたり込んでしまう。

 黒曜はそんなロゼッタを、軽々と抱き上げた。

 隣で龍王がエフォリアの手を取り、立ち上がらせていた。

「黒曜さま、大丈夫です、立てます」

 羞恥にかられて訴えると、黒曜はそっと腕からロゼッタを下ろした。

「黒曜さま、ロゼッタさんは、わたくしを庇ってたくさんの傷を負ってしまいました。お詫びのしようもありません」

 傍らのエフォリアが言って、龍族の作法で胸の前で手を重ね、深く頭を垂れた。

「そんな!私もエフォリアさまに、たくさん助けていただきました!」

 ロゼッタはエフォリアの細い両肩に手を置いて顔を覗き込む。

「私たち、お友達ですもの。力を合わせるのは当然です」

 言って、ロゼッタは得意げに笑って見せた。

 エフォリアの瞳が潤んできらめく。

 ロゼッタは黒曜に向き直り、両手を広げて胸を張った。

「私たち、頑張ってたくさん危険を乗り越えてきたんです!あちらのロマさんも助けてくれて、ロマさんはとっても強いんですよ!

 私もロマさんのような立派な猫に......」

 最後まで言葉は続かなかった。

 ロゼッタは、黒曜に抱きすくめられていた。

「立派な猫にならなくてもいい。危険を察知したら真っ先に逃げる、臆病な普通の猫でいてくれ」

 驚きと羞恥とかい交ぜになって、ロゼッタは軽い眩暈を覚える。

 黒曜が心から自分を案じ、胸を痛めていたことがひしひしと伝わってくる。

 とてもとても心配してくれたのだ────大好きなこの人は。

「はい、無茶なことはしません。約束します」

 ロゼッタが胸の中で囁いて、やっと黒曜は腕を離した。

 改めてロゼッタを見やり、黒曜は辛そうに眉を寄せる。

「ひどい姿だ」

「傷は妖精王が治してくださいました」

 ロゼッタは血や泥で汚れた姿を黒曜に晒していることが、急に恥ずかしくなった。

 そこに清々しい緑と花の香りを纏って、妖精王が女王と共に歩み寄る。

「想い合う者同士の会話に割って入る無粋、申し訳ない」

 王と女王、黒曜と龍王それぞれが各々の所作に従い礼を交わした。

「ロゼッタの羽根は、悪しきものに直接傷つけられたので、邪気が残留しており、すぐには治癒ができぬ厄介な状態だ。ポーンに噛まれるくらいの穢れとは訳が違う。

 だが、必ず癒してみせよう。妖精王オベロンの名に誓って」

「頼みます」

 女王がロゼッタに歩み寄り手を伸ばし、そっと頬を撫でた。

 爽やかな香りの霧がロゼッタを取り巻き、肌から衣服からよごれを清め、乱れた髪がきちんと整う。

 目を丸くするロゼッタに、女王は顔を寄せて扇で隠しながら囁いた。

「恋しい方にくたびれた姿を見られるのは、恥ずかしいわよね、可愛い子猫ちゃん」

「あ…ありがとうございます」

 ロゼッタは赤面しながらも、小声で礼を述べた。

 クスクスと笑いながら、女王は妖精王に顔を向け、優しい視線を結んだ。

「取り込み中に悪りぃんだけどさ」

 アルスが、無遠慮に少し離れた場所から声を上げる。

「でかくなった蝗たち、一斉にここに集まってきてるぞ。奴らにとっての一番の邪魔が集合してるんだから、まあ、そうなるわな」

「ふむ、もっともだ」

 妖精王がゆったりと天を仰ぎ、サラリと髪を揺らして耳飾りに触れながら応えた。

 澄み切った冬の空気のような張り詰めた気が辺りに満ちて、王が感知を国中に広げたことがわかる。

 その圧倒的な力の前に、ロゼッタは自ずと背筋を伸ばした。

「ああ、張り切ってポーンがこちらに向かっている。だいぶ数は削られているが......。あちこちに地の君の力の痕跡があるね。だいぶ激しく、かなりの群れを片付けてくれたのだな」

 言って妖精王は黒曜に、意味深な笑みを含んだ流し目をした。

「普段は穏やかでありながら、ここぞという時には情熱を迸らせる。そのギャップ、実に魅力的だ」

 黒曜が咳払いすると、妖精王は何食わぬ顔で話を戻した。

「招かれざる客の出現地点は国の中央付近だったことから、国の端に襲撃が届くまでには猶予があった。

 それにより、辺境に暮らす民草の方が、妨害なく王城までのポータルを利用して避難できたのは不幸中の幸い。気骨のある者は迎撃態勢を整える時間も稼げたので、重畳とも言える」

 常若の国には集落ごとに、向かいたい場所に直結する魔法の扉があるが、蝗らが放つ妨害波動により、転送魔法同様にそちらも機能障害が発生していた。

「避難は完了したようだ」

 チリン、と澄んだ音が妖精王の耳飾りから響く。

「そっか。じゃあ、蝗の新手を補充されないうちに、本体を叩く」

 アルスは手にした、黒いカードのようなものを見ながら言った。

「本体を潰さない限り、いくら片付けても蝗は湧いて出る。奴らは本体がエナジーを得るための媒体だ。削ればそれだけ、奴は弱体化する」

 アルスの手から、黒いカードが宙に浮く。

 それは音もなく空中にオレンジ色の光の線を伸ばし、真っ直ぐ天に向かって伸びた。

「それ、なによ」

 フロリンダの問いに、アルスは宙を仰ぎながら答える。

「アイツをこっちに招く鍵になった本を、再構成したもんだ」

「アレはもう、用済みで意味の無いものになったんじゃないの?」

「通常はそうだな」

 アルスはフロリンダに視線を戻して言を継ぐ。

「だけど俺は火の司守だ。火は活性を司る。残留した奴の気を活性化させて、探知に利用できるようにした」

 フロリンダは目を丸くした。

「アンタ、やればできる子だったのね!」

「それ、褒めてねぇな?」

「して、本体が潜んでいるのは天、ということか?」

 放っておくと、再び楽しく角付つのつき合わせかねない気配を察し、龍王が割って入った。

 アルスはカードを掌に戻して頷いて見せる。

「ああ。そもそも、単身乗り込んでくるような奴だ。あっちの力が強まって扉の封印が緩む周期とはいえ、違う次元のテメェのテリトリーと、こっちを繋ぐ力、独自の空間を構築する力、どれもえらく高度だ。魔王の一人ってのは伊達じゃねえ。こっちで言ったら神格レベルだろ。

 俺ら単体でぶつかっても、勝ち目は薄い。アンタなら互角にいけるかもしれないが、あっちは手段を選ばねぇからな。良くて相打ちじゃないか」

「龍王相手に、言ってくれる」

 龍王は口元に笑みを刷いたが、眼差しには剣呑な光が瞬いた。

 その腕に、エフォリアがそっと触れる。

「分析は、要素の一つ。まずは火の君の話を伺いましょう」

 エフォリアの言葉に、龍王の感情的なオーラが鎮まり、アルスは片眉を上げた。

「水の司守ってのは、水みてぇにもっと冷静なのかと思ってたけど、血の気が多いのな」

「よけいなこと言ってないで、さっさと話しなさい」

 フロリンダに小突かれ、アルスは渋い顔で肩を竦めた。

「お前は、空がおかしいとは思わなかったのか?」

「さっきまで眠かったもん、私」

「故郷だろ?気づけよ。カードが示した場所に奴は潜んでる。奴は国全体に、空に見える幻視結界を構築したんだな。そこに隠れて高見の見物しながら、蝗を通じてエナジーを吸い上げてんだ。

 蝗の妨害波動で撹乱されていたから探れなかったが、お前の大声でジャミングが消えた隙に探知が働いた」

「やだ!私、お手柄ね!」

 嬉々と跳ねるフロリンダを無視して、アルスは皆に向き直った。

「俺、ちょっと奴をブッ飛ばしてくるから。集中できるように蝗は任せた」

「私に雑魚狩りをさせる、と?」

 龍王が再び口を開く。

「あまり舐めた口をきいてもらっては困る。敵が風と熱とを主な糧にすることは知れている。ならば私こそが本体を討つに適任であろう」

「譲れねぇな」

 アルスは真っ直ぐに龍王を見据えた。

「奴をこっちに引き入れるきっかけを作っちまったのは俺だ。尻拭いはテメェでやる」

 龍王とアルスの間に緊張が走る。

 そこに、低く落ち着いた黒曜の声が間に入った。

「策があるのか?アルス」

 アルスは居丈高に顎を逸らす。

「俺の力を美味い餌だなんて思ってる奴の口に、入り切らないくらいくらいにガツンとねじ込んで、内側からもろとも破裂させてやる」

「ちょっと!」

 フロリンダが声を上げる。

「アンタってば、やっぱり単細胞!アッチの方が強いのに、吸い取られてしおしおのパーになるのがオチじゃない!バカなのかな?」

「うるせー綿菓子頭!お前は少し黙ってろ!しおしおのパーって何だよ?!」

 やり取りにハラハラするばかりのロゼッタの隣で、その手を握りながら静かに成り行きを見守っていた黒曜が改めて口を開いた。

「水蓮」

 兄に呼ばれ、龍王は素早く向き直る。

「アルスにはアルスの矜持がある。本体を探り当てたのは彼だ。ここは任せよう」

「そーゆーこった!んじゃ、おい、フロリンダ。ここ一体に張った結界を解け。俺は行くぜ!」

 言われてフロリンダは、憮然ぶぜんとした表情で、パチリと指を鳴らした。

 空気の密度が変わり、待ちかねたアルスは地を蹴って、光のような速さで天に向かう。

 同時に、不穏な重たい羽音が地鳴りのように周囲に取り巻いていることをロゼッタは知った。

 それに気づかずにいたのは、いつの間にやら構築された、フロリンダの結界に守られていたからだったのだ。

 苛立ち紛れに叫んだりしても、フロリンダの行き届いた魔力の行使には感服するしかない。

 龍王は短い息をつき、腕に添えられたエフォリアの手に己の手を重ねる。

「ここは兄者の顔を立てるとしよう」

 エフォリアは微笑して頷いた。

 ふふふ、と甘やかな忍び笑いが女王の唇から漏れて皆の視線を誘う。

「では、後はお片付けの時間ね」

 女王は優雅に扇子を顔の前で軽くそよがせると、その手を挙げ、片手をその上に添えた。

 扇子は白いロングボウになり、素早く女王はたおやかな腕で弦を引く。

 指先が離れた時、一筋の光が勢いよく放たれ、宙で五本に別れて迫り来る蝗を正確に射抜いた。

 急所を突かれたそれらは、爆発して周りを巻き込みながら落下し、塵になって消えていく。

「フロリンダ、久しぶりに踊りましょう」

 ロングボウをくるりと回して扇子に戻し、それを畳みドレスの袖に仕舞うと、にこやかに女王は愛弟子に顔を振り向けた。

 フロリンダの顔に喜悦きえつが広がる。

 女王はするりと長いドレスの裾を、優雅な仕草で持ち上げた。

 シルクの編み上げ靴下を履いた魅惑的な曲線が垣間見え、レースの靴下止めから、女王は素早く何かを取り出す。

 金色の留め具のようなそれは、女王がつまんだ指先からみるみる伸びてひと振りの細身の剣になった。

 柄は細やかな装飾を施され、刀身も金色を帯びているが半ば透けて、金粉のような輝きを辺りに放っている。

 続いてフロリンダも胸のリボンタイからネクタイピンを外し、真上に放り投げた。

 それがフロリンダの手に戻った時には、女王の持つ剣と同じ装飾でありながら、色味は銀のそれが握られていた。

 やれやれ、と妖精王が仕方ないといった態で、竪琴を掻き鳴らす。

「私は争いは好まないのだがね」

 ふふ、と女王はフロリンダと笑いを重ねる。

「あら、舞踏会の始まりでしてよ」

その言葉と共に、大きな水縹みずはなだ色の蝶型の羽が女王の背に顕現した。

「伴奏をお願いね?」

「お任せあれ、我が女王」

 言って妖精王はお辞儀をすると、石舞台の上にひらりと飛び乗り、優雅に足を組んで腰かけ、竪琴を構えた。

※※※

「しばらくじっとしているのだぞ。敵からはそなた達の姿も見えず、声も届かぬ。強固な守りゆえ繊細で、あまり動けば崩れる」

 黒曜と共に結界を仕上げながら、龍王が念を押す。

 ロゼッタはエフォリアと共に、野原の片隅、蝗の被害が少ないオークの木の陰に隠れた。

「これで仕上がった。では、私たちは役目に戻る」

 やっと会えた黒曜が離れていくことに、ロゼッタはたちまち心細くなった。

 蝗たちの駆逐に向かおうとする黒曜の衣装の裾を、つい摘んでしまう。

「どうした?」

「いいえ、あの」

 離れたくないと正直には言えず、ロゼッタは俯いた。

「黒曜さまと、早く地の宮に帰りたいです...」

 こんな時に、駄々をこねる子供のようなことしか言えない自分がもどかしい。

 向き直って黒曜はロゼッタの手を取り、水晶の髪飾りを置いた。

「これは!」

 片方はまだマシだが、もう片方はヒビが入っていたり、割れたりと無惨な有様だ。

「片方は龍宮にあり、片方は先程見つけた。この壊れ方、肝が冷えたぞ」

 黒曜に貰った、大切な大切な宝物の一つ。

 髪飾りを愛しみを込めた両手で握り、ロゼッタはうつむいた。

「大事にすると約束したのに...こんな風になってしまって、ごめんなさい...」

「謝ることなどない。この飾りのおかげで、お前たちの居場所が特定できた。地の宮に帰ったら、補修してもらおう」

「はい」

「行ってくる」

 最後に優しい笑みを残して、黒曜は身を翻した。

 隣では、龍王とエフォリアがしっかりと互いを抱きしめあっている。

「ご武運を」

「案ずるな、すぐに片付く」

 体を離して見つめ合う二人から確かな絆が伝わってきて、ロゼッタは羨ましくも微笑ましく感じた。

 ロゼッタとエフォリアは、互いに愛しい人から離れた手を、どちらからともなく繋いだ。

 ひんやりしたエフォリアの手は、火照ったロゼッタには心地良い。

 戦いに不向きな二人は、そうして愛しい人が危険に身を晒しながら奮闘する姿を見守るしかないのだった。

「美しいですね...女王さまとフロリンダさんの剣舞......」

 エフォリアがため息混じりに呟いた。

 ロゼッタは強い同意を込めて、何度も頷く。

 女王の長いドレスの裾は彼女の動きに従い絶え間なくひらめいているが、しかし決してはしたなくは見えず、むしろ時に爽やかな流線のように、あでやかに花開く薔薇のように美しく見える。

 揺れる金の巻き毛も光を放ち、まるで周囲に祝福を与えているようだ。

 水縹色の大きな羽は香る鱗粉を辺りに振りまき、味方は鼓舞され、蝗たちは感覚を狂わせる。

 背中合わせで剣を振るうフロリンダのしなやかながら俊敏な動きも、麗しく可憐だ。

 羽根は虹色の煌めきを放ち邪気を払い、なびく柔らかく波打つ銀の髪は、動きに合わせて歌うように朗らかである。

 幾重にもパニエを重ねたジャンパースカートから伸びる足は瑞々しく、躍動的で美しい。

 踵の高いショートブーツで軽快に動きながら、しかし、足元の草花を傷つけてはいない。

 それは女王も同様で、赤い皮のハイヒールは、敵以外の何も傷つけない。

 それぞれの手にある剣からは、動く度に金と銀の輝きが軌跡を描き、それに触れるだけでも敵は深手を負った。

 妖精王の竪琴を伴奏に、金銀に煌めく輪舞を至高の美しさを見せる妖精が披露している。

 二人を見ていると、殺伐とした場もただただ眼福だった。

 もちろん、ロマやフロリンダの従者たちも負けてはいない。

 次々に来襲する蝗らを、プリムラの操る茨の蔓で捕えては、素早く的確に次々片づけていく。

 弾むように跳んだり跳ねたりするロマも、光を用いて切り伏せるシャルロットの戦術も卓越した技芸のようで、場違いなことに心が弾む。

 妖精王の奏でる音色は、不思議とその場に居る誰ものリズムに合っていた。

 —―否、妖精王の調べに、自ずと動きが沿っていくのだ。

 湾曲した片刃の、水と雷を纏う大剣を振るう龍王や、黒いリング状の武器を操る黒曜の姿も、たくましい演舞のように見える。

「妖精王さまの演奏は、皆の力を上昇、強化させていますね…さらに加護も…素晴らしいお力ですわ」

 エフォリアの言葉に、ロゼッタはなるほど、と小さく頷いた。

 その繊細な指から奏でる美しい楽の音は、戦う者たちの心身を鼓舞し、高め、守る祝福が込められているのだった。

 黒曜が戦う姿を見るのは初めてだが、無駄も隙もない動きで、凛々しい容貌がいつもより映えて不謹慎にもロゼッタは胸がときめく。

 黒曜は戦いながらも周りを良く見ており、味方に危険がありそうな時は、時に土を隆起させ、時に礫を雨のように生み出し、素早く庇っていた。

 皆が戦っているこの時に、滾るように黒曜が恋しいことに小さな罪悪感を覚えたが、隣のエフォリアも熱っぽい吐息をもらしていた。

 そっと伺うと、エフォリアは上気した頬で夫君を熱く見つめている。

 双子であれど、容姿は黒曜の方が男性的なのに対し、龍王は凛々しい顔立ちをしているが、グラデーションを織りなす長い髪や形の良い細い顎が相俟って、いささか女性的な風情がある。

 だが、戦い方は豪快で、誰よりも力強く男性的だ。

 引き締まった腕で、身の丈ほどもある大ぶりの剣を振るい、水と雷も武器にしながら一撃で複数体を蹴散らしている。

 龍族の伝統意匠の長い袖がひるがえるたびに、縫いつけられた金糸銀糸の刺繡が煌めいた。

 きっとエフォリアが、夫君に似合うようにあつらえたのだろう。

 龍王の静と動どちらにも映える素晴らしい衣装だ。

 確かに美丈夫な夫君だが、やはりロゼッタには黒曜が一番素敵に見えるのは内緒の話。

 後は、とロゼッタは天を仰いだ。

 人の子が見たならば、上空の豆粒のようにしか見えないそれ。

 けれど人ならぬロゼッタの目は、アルスの姿を的確にとらえる。

 いつもの青空に見えて、偽りのそれは時折、砂嵐のようにブレて見えた。

「苦戦してますね...」

 エフォリアも天を仰いで、微かに眉宇を寄せる。

 アルスは敵の力量を正しく見抜き、勝ち目は少ないとわかっていながらも自ら直接対峙を決めた。

 それは、彼の誇り高さであれど、その捨て身の方法は蛮勇で危うい。

 —……まさか...アルスさまは…自らを犠牲にするおつもりでは…...。

「大丈夫ですわ」

 ロゼッタの不安を見透かして、エフォリアが柔らかく微笑んだ。

「追い風が吹きます」

 エフォリアに言葉にハッとした時、ロゼッタは逆行する流星のごとく、銀の光が一筋天に向かって行くのを見た。

※※※

 アルスの額に、脂汗がにじむ。

 パズズが創造した本を元にしたカードは、アルスの狙い通り、幻視結界に同質と認知された。

 果たして、カードを用いて幻視結界に穴を穿つことができたのだ。

 そこから膨張して破裂するまで火炎を放出する策だったが、吸い取られるばかりの手ごたえしかない。

 龍王相手に啖呵たんかを切ってはみたものの、容易なことではないとは承知していた。

 結界の向こうから、パズズの高笑いが聞こえるようだ。

 宙に浮いていること自体、アルスにとっては魔力を消耗する。

 パズズと違い、補充源がない。

 明らかに分が悪いが、やはり、これは誰の手も借りずに己が成すべきことだと歯を食いしばる。

 司守は、四人全員の属性は違えど、力はほぼ均等である。

 パワーバランスが整っている状態は、世の均衡の要であるからだ。

 何らかの原因でそれが崩れた時、一度全員が解任され、次代が選出される。

 新規に交じって前任者が再選出され、二期続けて司守となることもままあったが、それはかなり長く強い力を保ち続けている稀有な者の例だ。

 自分がもしここで塵になったなら、司守は神の号令の下に再編成されるだろう。

 きっと他の三人は再選出され、火の司守だけが新規選出されるに違いない。

 黒曜も水蓮も、フロリンダも力に溢れ、まだまだ引退に値しない。

 自分の代わりは、探せばいる。

 口惜しいが、それが現実だ。

 だが、とアルスは結界にかざした手に力を込める。

 今、この忌まわしい幻視結界を破ることができるのは、自分しかいない。

 他の誰に任せるわけにはいかない。

 浅慮のまま荒れ、闇雲に行動し、八つ当たりをし—―挙句まんまと敵の策略に踊らされたままでは終われない。

 今対峙しているのは、アルスにとって、過去の自分自身なのだった。

「クソがよ…!!」

 苦く毒づいた瞬間、体が軽くなった。

 宙で自身を支えていた力の負担が不意になくなり、アルスは目を瞠る。

 大気の渦が幾重にも渦巻き、球体となって自身を包んでいた。

「意地張っちゃってさ」

 からかうような声に、アルスは振り向く。

 そこには銀の髪をきらめかせた小憎たらしい花顔かがんがあった。

 アルスは、フロリンダが形成した風の渦が自分を宙で支えていることを知った。

「何来てんだよ、お前、蝗狩りしてろよ」

「ひとしきり踊ったし、黒曜や水蓮もいるし、優秀な部下もいるし、もう十分。それより、あっち見なさいよ」

 言ってフロリンダが指差した方を見遣る。

 強固な結界で守られる、クリーム色と純白のレンガを組み、萌黄色の尖塔を持つ妖精王の城。

 優雅な威容を見せるその外回廊に、何人もの小さな人影があった。

 凹凸状の胸壁の隙間から、上から、それぞれが身を乗り出すようにして外を見ている。

 その多くが未熟な妖精—―幼児たち。

「結界が強すぎて、アンタには声が聞こえないでしょ?アンタ、ちびっ子たちを助けたのね。小さい子たちの情報伝達は早い上に、内容は特盛されるわ」

 フロリンダは含み笑いをしながら肩をすくめた。

「アンタ、英雄扱いされてるわよ。炎の騎士さまですって」

 語尾でとうとうププッと吹き出したフロリンダを、アルスは睨みつける。

「まだこの私を睨む元気はあるのね。可愛いちびっ子の期待は裏切れないわねぇ」

 そう言うとフロリンダは、城の方へ向き直った。

 よくよく見れば、城の窓にも多くの顔があり、幼児たちの背後には、成人した妖精らが付き添っている。

 幼児らかあまり身を乗り出さないように制しつつ、祈るようにこちらを見ていた。

 窓から眺める者たちも、祈りの形に手を握りしめて外を見ている。

「さ~て、皆さまお立合い!」

 大道芸の口上よろしく、フロリンダが声を上げた。

「炎の騎士さまは悪の結界を打ち破り、世界に平和を取り戻せるでしょうか!?乞うご期待!!」

 幼児たちの顔に、波のように期待が広がる。

「お前、ふざけてんじゃねーぞ!!そーゆう状況じゃねーだろッ!!」

 たまりかねてアルスが怒鳴りつけた瞬間、彼の中の力が躍動した。

「その調子よ。殊勝なアンタじゃ役不足なのよ」

 力を吸い取られるばかりだった結界に差し向けた掌から、炎が揺らめき立つ。

 フロリンダの羽根が虹色のきらめきを放って震え、風がアルスの内側に流れ込んでくる。

「出力、上げてさしあげるわ。私だって、羽根を齧られた借りがあるのよ」

 虹色のきらめきを放つ羽根を広げ、宙に悠然と留まりながらフロリンダは腕を組む。

「跳ね上がった魔力の放出に、アンタの身体が耐えられるかは知らないけどね!」

 風は火を煽る。

 煽り、燃え上がらせる。

 フロリンダはアルスに魔力を注ぎ、その親和性で彼の力を増大させた。

 フロリンダの生み出す風は、アルスの掌の炎を煽り、みるみる膨れ上がらせる。

 全身に力が漲り、掌の炎はより広がっていく。

 やがてそれは火柱となり、幻視が揺れて空の歪みが著しくなっていく。

 しかし頑丈さには自信があるが、経験したことのない魔力の放出に、アルスの腕の血管が痛いほど脈打ち、筋肉が悲鳴を上げた。

「結界がグラついてきたわね。あと一歩よ。さらに出力上げるわ。いける?」

「ったりめーだろ!!」

 やせ我慢だろうが、引くわけにはいかない。

 遠慮なくフロリンダはさらに風の力を流し込み、アルスの心臓が踊るように激しく脈打つ。

 今度は腕だけでなく、全身の血管が膨張し、内側から己が弾けそうな苦痛に見舞われた。

 脂汗が目に入り、嚙み締めた奥歯が軋む。

 跳びそうになる意識に、小さな顔がいくつも浮かんでは揺れる。

 期待、信頼、憧れ—―フロリンダに言われるまでもなく、純粋に向けられたそれらは裏切れない。

 裏切りたくない。

「火のおにいさまー!がんばってー!!」

 幼児たちの熱い期待が結界を超えたのか、はたまた幻聴か……。

 その呼び声は、アルスに懐かしい顔を思い起こさせる。

 自分より柔らかな小麦色の肌、母によく似た面差し。

 絶対の信頼と尊敬がそこにあった、懐かしい日々の記憶。

 硬質なものにヒビが入るような音と共に、空に亀裂が入った。

「っしゃああああああ!」

 こめかみの血管が破れんばかりの勢いで叫びながら、アルスは気力をかき集めて押しの一手に集中する。

 ガラスを引っ搔くような耳障りな音を派手に上げ、偽りの空が一瞬、炎の朱に染まった。

 霞む視界に、本物の空—―陰鬱いんうつとした曇天が見える。

 抗いきれない脱力感の中、しかし鋭く察した危険に、全身が泡立った。

 —……カウンターが来る!

 刹那、アルスは首根っこを捕まれ、凄まじい突風によってその場から投げ飛ばされた。

 息もできない速さで空を切り、地面に叩きつけられるのかと思いきや、一瞬ふわりと身体が浮いてゆるりと落ちる。

 菓子のような甘ったるい匂いと、いくつもの柔らかな手が全身に触れた。

 複数の幼児の顔、どこかで見た乙女の顔が押し寄せて自分をのぞき込む中、先ほど遠目に眺めた、妖精王の城に飛ばされたのだと知った。

 開けた外回廊のそこで、アルスはもう起き上がる力もない。

 それでも、霞む視界に抵抗しながら何とか動こうともがく。

 偽りの空の景色が鋭利な硝子の破片のように降り注ぎ、妖精たちの国に破壊の雨となって降り注ごうとしている。

 銀の妖精が、空中でそれに飲み込まれていく。

 それを許したら、何にもならない。

 だが無情にも、アルスの意識は引きずり込まれるように混濁した海に飲まれた。

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