第11話 大丈夫ですよ

 崩壊した空が破片となり、不穏がそのまま描き出されたような曇天がその後ろに見えた。

 見上げるロゼッタたちの目の先で、破片は広がったり集まったりを繰り返し、噛みつかんばかりに頤を開ける獰猛どうもうな獣の顔になる。

 それは魔王本体の顔そのもので、ロゼッタはエフォリアと怖気立つ身を寄せ合った。

 巨大な口は、嬉々として中空にいるフロリンダに狙いを定めた。

 まるで、銀の星を飲み込もうとする暗黒のようだ。

 フロリンダは風を自身の周囲に強力に旋回させ、それを防いでいる。

 しかしじりじりと後退し、獣の顔と共にたっぷりエナジーを蓄えた破壊の雨が常若の国ティル・ナ・ノグに降り注ごうとしていた。

 こんなものが大地に降ってきたら、結界で強力に守られている場所は無事に済んでも、国全体としては壊滅的なダメージを受ける。

 悲鳴を上げることもできずにいるロゼッタたちの耳に、澄んだ竪琴の音がしゃらりと響いた。

 妖精王は金茶色のマントをひるがえして石舞台に立ち上がり、すっと片手を上部に挙げる。

 同時にすさまじい魔力の発動が起こり、その背に薄く透けるエメラルドグリーンの羽根が現れた。

 蜻蛉かげろう型のそれは、白銀色の翅脈しみゃくが輝いて、まるで装飾された宝石のごとき美しさだ。

 鈴の音の似た繊細な音を放ちながら羽根が震え、そこから生まれた力は妖精王の掌から放たれ、瞬く間に国土全体に広がる。

 そしてそれは、透けるエメラルドグリーンのドーム状の防御壁となった。

 強い力の放出に女王を除いた誰もが一瞬呆気にとられたが、真っ先に黒曜が動き、膝まづいて大地に手を当てる。

 妖精王の構築した結界を、さらに地の硬さで補強するために。

 女王が扇子を取り出して、上空に向かって、ふわりと招くように動かした。

 風に丸く包まれたフロリンダが上空から吸い込まれるように結界内に落ちてきて、女王の腕に抱きとめられる。

 刹那、凄まじい衝撃音が幾つも上空で響き渡った。

 パズズが繰り出したカウンターが、妖精王の結界にぶつかっては弾けて消えていく。

 妖精王は腕を降ろすと、優雅に笑って周囲を見まわした。

「私は争いは好まないが」

 言いながら、竪琴で短く一節をかき鳴らす。

「護ることは得意なのだ」

「頼もしい夫を持って、わたくしは幸せですわ」

 女王ののろけのような賞賛に、王は気取って一礼した。

 その白く柔らかな腕の中で、フロリンダはぐったりと力なく微笑んでいる。

「奴にも、単細胞にも、倍返ししてやったわ…」

 そう呟くと、安心したように意識を失った。

 女王は慈母の笑みを浮かべ、愛弟子の額にキスをする。

「よく頑張りましたね」

 女王に抱かれて眠るフロリンダは、子供のように安心しきって愛くるしい。

 いっときの和んだ空気の中、ロゼッタは片手に握りしめたままの髪飾りが痺れるのを感じた。

 驚いて手の中の水晶に目を落とす。

 踏みにじられて無残に割れた水晶が、何かと共鳴している。

 分かたれた欠片と呼び合うように。

 —……まさか…。

 ロゼッタは、優しい緑色に護られた上空を見上げた。

 けれど、あまりにも強固な護りに包まれている身では、かえって外部の反応が読めない。

 ただ一つ確信できたのは、この攻撃だけを防いで安心してはいけないということ—―。

 —……これもパズズの攪乱かくらんの一つ……!?

 皆、派手なカウンターを防げたことで気が緩んでいる。

 しかし、神格を持つ妖精王とて、国全体を強固な結界で長く守り続けることは困難なはず。

 空から降る破壊の雨は、もうすぐ止み、妖精王は結界を解くだろう。

 その瞬間だ。

 その瞬間を狙って、来る。

 ロゼッタは水晶を握りしめ、覚悟を決めた。

「ロゼッタさん?ご気分がお悪いのですか?」

 心配そうにこちらを見る、優しいエフォリアの小作りな顔にロゼッタは目を向ける。

 自分に、誰かを想うことの大切な根源に、気づかせてくれた人。

 あの時、エフォリアはロゼッタにとって、特別な友となった。

 大切な友との約束を破ってしまうだろうことだけが、哀しかった。

「大丈夫ですよ」

 —……そう、きっと大丈夫!

 ひときわ派手な衝突音が上がり、それを潮に、音は止んだ。

「地の君、ご助力かたじけない」

 丁寧な妖精王の言葉に、黒曜は軽くかぶりを振る。

 常の優雅な姿勢は崩れていないが、さすがの妖精王の額にも光る汗があった。

 自分が察していることを、あちらに気づかれるわけにいかない。

 どちらにとっても、一瞬の隙を突いて成されることだ。

 妖精王の結界が、端からとろけるようにゆるゆると解除される。

 砕けて凶器の雨となったパズズの幻視結界は、妖精王の護りに弾かれ、その破片はアメーバのようにうごめきながら、空を汚すように漂って徐々に消えていく。

 その気味悪い光景のまにまに、ロゼッタは水晶の共鳴のきらめきを見た。

 踏みつけられ、その爪先に食い込み、自分を害したモノはここだと訴える微かな反応。

「エフォリアさま!」

 ロゼッタは大切な友に、心からの笑顔を見せた。

「私、エフォリアさまが大好きです!」

 精一杯の心を込めて言ってロゼッタは、頬を染め目を丸くする友の手を離し、愛しい人が紡いでくれた結界を飛び出した。

 しなやかな猫のように、俊敏に。

 言葉を紡ぐ時間さえ惜しい。


『ロゼッタは...精神に影響を与える…強い感応力を持っているのニャ...』


 ロマがそう言った時、部屋の中でしまいっ放しだった小箱を見つけたように、ロゼッタは己の魔力の特性に気づいた。

 在るに気づけば、それは自分のもの。

 自在に揮えるものとなる。

 自分が気付いたことを、間を置かずに伝えたい。

 けれど、力が足りない—―ロゼッタは無意識のうちに、黒曜から贈られた首飾りに触れた。

 黒曜が自分のために探してくれたそれは、枯渇した魔力を僅かに引き上げる。

「ロゼッタ?」

 黒曜がこちらを振り向いた瞬間、ロゼッタは残る羽根を震わせ、脳裏の情報をその場にいた全員に送った。

 真っ先に動いたのは、最もロゼッタが心を寄せる黒曜だった。

 地上に降り降ろされたカウンターに隠れ、パズズは結界が解かれるその時を狙っていた。

 その場の誰もの気が緩む一瞬を。

 黒曜は水分を含んだ泥を魔力をまつらわせて空に放つ。

 それは、今まさに幻視結界の破片にまぎれて襲い掛かろうとしていたパズズの姿形を浮き上がらせた。

 妖精王が素早くそれを指さすと同時に、木々のあちこちから魔力を持った蜘蛛の糸がパズズに絡みつく。

「水蓮!!」

 黒曜が声をかけるが早いか、龍王は地を蹴って虚空に身を躍らせながら、剣を下段から上へと一閃させた。

 泥にまみれて宙で見顕わされ、糸に捕縛されたパズズは、雷を纏った鋭い水の一撃に、肢体を斜め切りに分断される。

「まだだ」

 呟いて黒曜が地を蹴り、分断された身体の、パズズの頭を右手で掴んだ。

「お前は地の恵みを屠り、妖精たちの—―ロゼッタの羽根を穢した」

 何やら言おうとパズズの顎が動いたが、黒曜が掴んだ場所からみるみる石化していく。

「塵となってあがなえ」

 刹那、黒曜の左掌から稲妻が迸り、とどろきとともに、頭部の部分も、分かたれて落ちていくパズズの身体も、もろとも打たれた。

 掴む頭部の掌に黒曜が僅かに力を籠めると、呆気なくそれはさらさらと空に散っていく。

 同時に、地に転がるいなごの死骸もみるみる塵となって消えていった。

 曇天に切れ目が生まれ、陽光の梯子が地上に降り注ぐ。

 戦いの終わりを、今度こそ誰もが確信した。

 終わったのだ。

 やっと。

 どこか遠い場所から、大勢の歓声が湧き上がる。

 ロゼッタはそれと同時に、自分を呼ぶ泣きそうな声を聞いた。

「ロゼッタさん!!」

 悲痛なエフォリアの声に振り向いて笑おうとしたが、できなかった。

 身体が動かない。

「ロゼッタ」

 黒曜が怪訝な面持ちで、こちらに向かって手を伸ばす。

 視界が暗い。

 空はみるみる暗雲がかき消えて、地上に光を届けているのに、ロゼッタにはそれが見えない。

「こくよう、さま…」

 呟いて、力を失ったロゼッタは膝から崩れ落ちた。 

※※※

「ロゼッタさん!約束したのに…!!」

 エフォリアが人目もはばからず、涙交じりの声を張り上げながら、ドレスの裾をからげて駆けてくる。

 そんな取り乱した姿は、初めて見るものだった。

 黒曜は突然くず折れたロゼッタの半身を抱き起こし、そしてエフォリアの平静を失った理由に気付く。

 触れたロゼッタには、もう魔力が残っていない—―ほぼ生気のない状態だった。

 固く護られた結界から飛び出してきて何事かと思うが早いか、ロゼッタは自らが感知した危険を、その場の全員に精神感応させた。

 改めて、複数の者に一瞬にして情報共有させるほどの力がロゼッタにあったことは、驚愕である。

 踏みつけた水晶の意趣返しか、細かな破片がパズズの足の爪に入り込み、その存在を本体との共鳴で知らしめたのだ。

 カウンターに隠れて攻撃を繰り出そうとした企みは、そうしてロゼッタの知るところとなり、味方に知れ渡った。

 果たして、単身乗り込んでさんざん災厄を振りまいた魔王は塵となったが—―。

「ロゼッタ!!」

 黒曜の呼び声に、ロゼッタは応えるように力なく手を宙に彷徨さまよわせた。

 その手を握り、冷たさに黒曜は背筋が凍る。

 パライバトルマリンの如き瞳は焦点が合わず、ロゼッタの視力が機能していないことを物語っていた。

「なんということだ」

 いつも泰然とした姿勢を崩さない妖精王が、傍らに寄って震える声で呟いた。

 ロゼッタの残った羽根が、色を失い、徐々にきらめきを残して消えていく。

 女王も青ざめた面持ちで傍らに寄り、王と共に真剣な表情で両手をロゼッタにかざした。

 羽根の消滅がいっとき、止まる。

「こくようさま…」

 微かな声が、その唇からこぼれた。

「ここにいる、ロゼッタ。お前のお陰でパズズは仕留めることができた。ありがとう。もう悪しき災厄は片付いた」

「ち、のみや、へ……」

「ああ、彩雅も待っている。共に帰ろう」

 黒曜は、ロゼッタの手を、引き留めるようにより強く握った。

 ロゼッタが微笑む。

「……こくようさまの、おそばに…」

「ああ、ずっと傍にいてくれ。ずっとだ」

 間に合わない、と女王が悲しげに呟いた言葉の意味を考えたくなくて、黒曜は強くロゼッタに繰り返し言った。

「ずっとだ」

 その言葉を抱きしめるように、ロゼッタは幸せな笑みを唇に刻んだまま、瞳を閉じた。

 ロゼッタの身体から力が抜けていく衝撃を、黒曜は受け入れることができない。

 信じることができない。

 認めたくない。

 黒曜の声なき慟哭どうこくは、悲鳴のような地鳴りとなって世界に広がった。

※※※

 響く大地の鳴動は、黒曜の果てのない嘆き。

 それは自分の悲しみに共鳴し、エフォリアの心を深く突き刺して揺さぶる。

 女王の腕でまどろんだフロリンダも目覚めて半身を起こし、信じられないといった眼差しで成り行きを見ていた。

 城に飛ばされたアルスも憔悴しょうすいした姿ではあるが現れ、沈痛な表情でロゼッタを胸に抱く黒曜を見ている。

 哀しみに場が浸される。

 その中で、逆にエフォリアは、冴えわたるように高揚してきた。

 覚悟を決める時が来たのだ。

 今しかない。

 エフォリアは、ぶつかるように夫に駆け寄った。

「お兄さま!」

 今や夫だが、兄と呼んでいた時間の方がまだ長い。

 気が緩んだ時、または感情が大きく揺れる時、エフォリアは夫をそう呼んでしまう。

 水蓮は、静かな哀しみをたたえた双眸で、自分を抱きとめた。

「お兄さまはわたくしを、守られてばかりで、友の命も犠牲にして素知らぬ顔をするような卑怯者に育ててはいませんわ!そうですわね!?」

 涙は止まらないが、決意をもって、エフォリアは水蓮に凛然と言った。

 水蓮はわかってくれる。

 エフォリアは確信していた。

 水蓮は表情を引き締める。

「一度解き放てば、後戻りはできぬぞ?」

「承知の上です」

 水蓮は小さく吐息をついた。

 優しい指先でエフォリアの溢れる涙を拭いながら、諦めたように口を開く。

「私はお前の涙には勝てぬ。良い。誰よりも王にふさわしい姉上や兄者を差し置き、神の声に甘んじて龍王の座に就いた時から決めていたことだ」

 言って水蓮は、常にエフォリアが着けていた、ごく細い白金の鎖に五芒星型の小さなサファイアが下がる額飾りに指をかける。

 特別な認識阻害がかけられているその装飾は、並大抵の者には見ることも触れることもできない。

「苦難の道とて、共に行こう。お前と在るならば、何がどうあろうとそこに私の至福がある」

 エフォリアの瞳に、喜びの涙が入り混じる。

 最上の殺し文句を刻みつけるように言いながら、水蓮は、額飾りをゆっくり外した。

 いついかなる時でも外れることのなかったそれがエフォリアから離れた瞬間、大気が動いた。

 大気だけではなく、水が、火が、大地が—―世界のあらゆるものが目を覚ましたように震えた。

 引き寄せられるように、すべての気がエフォリアに向かう。

 水蓮はエフォリアの手に、額飾りを置いた。

 エフォリアは、ロゼッタに向き直る。

 否—―世界のすべて、真の己に向き直る。

 エフォリアは星形のサファイアが掌に食い込むくらい強く、震える手を胸の前で握りしめる。

 妖精王と女王とが懸命に気を送り込んでいることにより、癒されぬまでもロゼッタの羽根は、まだすべて消え去ってはいない。

 しかし、穴の開いた器に水を注いでいるようなもの。

 気の注入が止まれば、ロゼッタは消えてしまう。

 羽根ばかりでなく、魔力を使い果たしたロゼッタの肉体は、ほどなくして大気に還る。

 それは抗うことのできない精和界の循環。

 —……今なら、まだ間に合う……。

 守られてばかりの自分だった。

 けれど、今ここから、己の宿命を受け入れて、守る側になるのだ。

 その尊さを、身を挺して友が教えてくれたのだから。

「大丈夫、ですよ」

 繋いだ手を離す直前にロゼッタが言った言葉を、エフォリアは真似る。

 友の勇気にあやかるために。

 ずっと自分の中にあった力、そして使命。

 それについては、自分を育ててくれた兄であり、夫である人からも、また、天から下された声からも知らされていた。

 そんなだいそれた力がなぜ自分に—―…そう、思っていた。

 荷が重い、そう怯えていた。

 そんな自分は、もう終わりにする。

 恐れず、逃げず、自らの内なる力を受け入れて守るために踏み出したロゼッタに、自分も続くのだ。

 エフォリアの手の中で、白い光が生まれた。

 両手を広げると、輝きに包まれた額飾りがふわりと浮いて、より光を強める。

 眩しく、けれど目を焼くような荒々しさのない丸い光の中で、額飾りは姿を変え、サファイアの五芒星を頭に、二重螺旋にじゅうらせんを描く蔓が巻きついた純白の杖となった。

 それは、創成の始まりに、神が混沌に植えた樹で作られたもの。

 混沌に根付いた瞬間、光と共に万物が生み出された、天地開闢かいびゃくの樹で作られた杖。

 自身とそれほど丈の変わらないそれを、エフォリアは大地に静かに降ろす。

 声なき歓喜がそこから湧き出て、みるみる常若の国ティル・ナ・ノグ全土に—―世界のすべてに広がっていく。

 エフォリアは一度深呼吸をし、目の前に置いた杖に語りかけるように唇を開いた。

 小さな果実のような唇から、歌が紡がれる。

 誰も知らない言の葉だが、誰もが知っているような不思議なそれ。

 小さい歌声を、杖が受けて身を揺らし大きく響かせ、波動として広がっていく。

「魔力が……!」

 すっかり消耗していたはずのアルスが、己の回復に真っ先に気づき瞠目した。

「……風が喜んでる」

 フロリンダが呆然と呟く。

 喜んでいるのは、風だけではない。

 大地が、水が、木々が、草花が—―全ての命が歓喜していた。

 杖の触れた場所から、みるみる草花が甦る。

 食い散らかされ、傷ついた木々も、たちまち癒えて新しい枝葉を伸ばし始めた。

 地脈の流れが整い、それを通じてエナジーが広がっていく。

 柔らかな通り雨が生まれ、あちこちを清めて天に虹を作る。

 すべての命が活性化し、力を得ていく。

 エフォリアの歌に、女王が声を重ねた。

 妖精王が、それに合わせて竪琴を奏でる。

 知らないけれど、知っている歌—―それは、原始に神が世界を造りし時の寿ぎ。

 教わらずとも、自然の、命の循環を司る妖精には、その歌が記憶されている。

 フロリンダも気が付けば意気揚々と宙を舞いながら、声を合わせて歌っていた。

 さらに、あちこちから声が重なる。

 避難した城から飛び出して、傷も穢れも癒えた妖精たちが、嬉々として飛びながら歌い出したのだ。

 それは盛大で麗しい合唱となり、より力をもって広がっていく。

 それを全身で受け止めながら、エフォリアはロゼッタを見つめた。

 皆が活力を取り戻し、表情を明るくしていく中で、黒曜だけが動かない。

 ロゼッタを胸に抱き、ただただ顔を伏せるその姿は、悲しい未練ですがりつくというよりも、尊い祈りの姿に見えた。

 ロゼッタの羽根がみるみる癒えていく。

 パズズにはぎ取られた部分さえも。

 その身に温もりが戻ったことを敏感に察して、やっと黒曜が顔を上げた。

 白く柔らかな頬に顔を寄せ、温もりを確かめる。

 邪悪な災いの使者の爪跡が癒えていく。

 皆が天に向かって顔を上げ、感謝の喜びを捧げる。

 やがて—―初めて天上の聖なる元素、エーテルの力を開放したエフォリアは、歌い終えた後に脱力して意識を手放した。

 その身を最愛の夫に抱き留められながら、力を尽くした成果が得られたことを願って。


 —―しかし、ロゼッタの目は、開かれることはなかった。

※※※

「すまない、私共の力不足だ」

 秋の和らいだ日差しを受けて白銀にきらめく巨大な繭が、サンザシの樹からぶら下がり揺れている。

 その中には、胎児のように身体を丸めたロゼッタが眠っている。

 サンザシが甘く濃厚な白い花を咲かせていた時から、黒曜は毎日、繭に包まれたロゼッタのもとへ通った。

 今、サンザシには紫がかった赤い実がたわわに実っている。

 悄然とした妖精王の謝罪に、黒曜は小さく首を左右した。

「誰のせいでもありません、いや」

 黒曜は力なく、言葉を切った。

「私の責任です。何かあったら私を呼べと、そして必ず守ると約束したのに果たせなかった。逆に、ロゼッタに守られる始末です。情けない限りだ」

 声に抑揚はなく、その端正な面には表情がない。

 妖精王は慰めの言葉を探すように少し唇を動かしたが、諦めたように小さく息を逃がした。

 ロゼッタを包む繭は、妖精たちが成長する過程で、力を安定させるために包まれて眠るもの。

 今、その一つからロゼッタが解放される。

 息を吹き返さないままに。

 封印を解かれたエフォリアのエーテルの力により、身体のすべては癒されたものの、ロゼッタは目覚めなかった。

 さりとて循環の法則に従い、肉体が大気に還ることもなく、妖精王の提案で成長の繭に託されたのだ。

 ロゼッタも本来なら、成長の兆しが——力の発現が見えたなら、繭に入っていたはず。

 パワーバランスを後回しに、一気に階段を数段飛ばしで駆け上るように心身共に伸びてしまったゆえに、全てが癒えても目を覚まさないのではないか—―妖精王はそう推測したのだった。

 しかし、季節が夏から秋に変わっても、意識を取り戻す気配がない。

 これ以上、繭に包まれていても変化はなかろうと、黒曜は妖精王にロゼッタの解放を願い出た。

 妖精王の城の中庭で、王のサンザシにぶら下がっていた特別あつらえの繭は、中に抱いていた妖精を花開くように半ば覗かせながらゆっくり下に降ろす。

 木の周辺には、たくさんの花や果実が置かれていた。

 ロゼッタが目を覚ました時に喜ぶようにと、朋輩が絶え間なく来ては祈りと共に置いていったものだ。

 黒曜は、降ろされたロゼッタを受け止めた。

 柔らかな繭が溶けるようにゆっくり消えていき、生まれたままの姿のロゼッタの肌が露になっていく。

 細い首で、パライバトルマリンの首飾りが陽光を跳ね返していた。

「これでくるんでさしあげて」

 女王が大判のモスリンを差し出した。

 薄桃色に染められたそれは、縁のレースが華やかで、ロゼッタが好みそうだ。

 黒曜は女王の厚意をありがたく受け取り、ロゼッタを外気にさらす前に、素早く包み込んだ。

 その様子を、白い猫を抱いた王と女王が見守る。

「こちらで預かって、面倒を見ていても良いのだよ?君にも役目があろう」

 黒曜は眠るロゼッタに視線を当てたまま、妖精王の厚意を、きっぱり断った。

「それには及びません。私はロゼッタに、必ず迎えに来ると約束した。せめてその約束だけでも守りたい。連れて帰ります」

 ニャア、と妖精王の腕の中で毛足の長い猫が寂しげに鳴いた。

 黒曜はぐったりとしたロゼッタの身体を、大切に抱き上げる。

 地の宮に帰りたいと、自分の傍にいたいと言ったロゼッタを、もう手離す気はなかった。

「いつ目を覚ますかわからないのだよ?」

「何百年でも、何千年でも、ロゼッタが目を覚ますその時を待ちます」

 妖精王は、細く美しい髪を揺らして、刻みつけるように頷いた。

「わたくし共で力になれることがあったら、何なりと相談してくださいね」

 いたわりに満ちた女王の言葉に目を伏せて会釈を返すと、黒曜は妖精の国を後にする。

 熟れたサンザシの実が、地脈に消えた黒曜の立っていた場所に、別れの挨拶のようにぽつりと一つ落ちた。


 残された中庭で、白猫のロマが嘆息する。

「ロゼッタ…苺のジャムを作ってくれる約束したニャン…」

 小さく人語で呟いたロマの背を、妖精王は優しく撫でた。

「後は、地の君次第だよ」

「そうですわね」

 女王はロマの顎の下に白く長い指を寄せてくすぐった。

 気持ちよさげにロマの喉が鳴る。

「少々物堅い彼が早く気付くと良いのだが」

 独りごちるように言って、妖精王は力ない笑みを見せる。

「あの娘には、多くのことを背負わせてしまった…。父親役の私自らが愛し子にそのような苦難を味あわせてしまったことが、とても悔やまれる」

「あの子を地の君に捧げるように言ったのは、わたくしですわ」

 女王はしょげた様子の夫君の頬に、キスをした。

「あの子は、例えわたくし共の働きかけがなくとも、いずれにせよ地の君の元へ行きました。大丈夫。愛を知った妖精は強くなるものですわ」

 女王は自身のふくよかな胸の真ん中に繊手を置いた。

「命を守り、育て、循環させる役目を負ったわたくしたちは、愛で造られているのですもの」

 ロマが同意するようにニャオと鳴いて、目を細める。

「……信じよう。して、我が女王。

 あの子…ロゼッタは—―女王の資質を持った逸材なのでは?」

 王の問いに、女王はふふ、と笑って少女のように肩をすくめた。

「もう、ロゼッタは自らの在り方を決めております。そこからまた、あの子の運命がどうなっていくかは、あの子自身が選択していく道。干渉はできませんわ。

 わたくしには手ずから磨き上げた可愛い可愛い愛弟子も居りますし、心配には及びません」

 どこからともなく孔雀の羽根の扇子を取り出し、女王は笑みを広げた。

「愛弟子の方も一筋縄ではいかなそうですが、大丈夫。すべてはより良い方へと向かいます。わたくしがそう信じているのですから」

「ごもっとも」

 妖精王が優美な笑顔を讃え、力強く頷いた時、穏やかな秋の風が中庭を吹き抜けた。

 サンザシの樹が君主夫妻に賛同するように、枝を揺らした。

※※※

 光を透かす水晶張りの天窓は、ロゼッタのために改築したもの。

 その部屋の寝台に、黒曜はロゼッタを静かに横たえた。

 緩い癖のある淡い金、額髪のひと房だけ薔薇色の髪が、光を映して艶めいている。

 まろやかな頬も、花びらを置いたような唇も、生気を帯びて瑞々しい。

 ただ、息をしていない。

 生きているようで、そうではない、誰にも説明ができない不可思議な狭間に、ロゼッタはいた。

「帰ってきたぞ、ロゼッタ…地の宮だ」

 柔らかな額髪を撫でながら、黒曜は囁く。

 温もりさえあるその感触に、胸が切り裂かれるように哀しく痛んだ。

 祈ることしかできない己の無知が、情けなかった。

 誰もがロゼッタの目覚めを祈っている。

 地の宮への帰還した時、彩雅を先頭に、宮に仕える者すべてが玄関口に集まっていた。

 役目を放り出しての出迎えを、しかし咎める気にはなれなかった。

 誰にでも分け隔てなく笑顔で接するロゼッタを可愛がる者は、宮中に多くいた。

 そこに、精神体を飛ばして危機に陥った己を助けた事実が広まり、さらに多くの好意が生まれたのだ。

 そしてそれは、宮仕えしている者だけには限らなかった。

 音瀧から語られた事実は、今や地の領地に知れ渡っている。

 さらに、災厄にとどめを刺すきっかけを作ったことは、司守全員がいた場所で成されたため、精和界の誰しもが知る功績となって賞賛されていた。

「…無事に帰って来いと言ってあったろう…」

 彩雅の低い呟きは、とても切なく黒曜の耳に響いた。

「実りの季節、ジャムにできる果実もあちこちに生っているゆえ、寝坊助のポンチョコリンも早々に目を覚ましましょう」

 気を取り直したように言った彩雅の後ろで、控えている者たちが何度も頷いた。


 それからは毎日、ロゼッタの部屋には新鮮な果実があちこちから篭で届けられた。

 黒曜は、毎日手ずから摘んだ花をロゼッタの枕辺に飾る。

 空いた時間のすべては、その傍らで過ごした。

 ロゼッタが瞼を開けた時、パライバトルマリンに似た美しい瞳を真っ先に見るのは自分でありたい。

 他の誰にもそれは譲れなかった。 

 初めてエーテルの力を全解放した直後、昏倒して七日間意識を失ったエフォリアも、目覚めてすぐにロゼッタの様子を尋ねたという。

 詳細を知ると意気消沈し、しかし「ロゼッタさんは必ず目を覚まします」と言い切った。

 好きだった衣装作りや調理には手を出さず、淡々と祈り、力をコントロールする鍛錬をしながら、災厄の爪跡を浄めている。

 あまりにも必死な姿で痛々しいと、音瀧から伝え聞いた。

 その音瀧も気丈な質であればこそ暗い顔を表には出さないが、ロゼッタを案じ、独自に色々と調べている。


「皆がお前の目覚めを待っている…」

 その日も役目のすべてを終え、就寝前にロゼッタの部屋に来た。

 放っておくと眠らずに一晩でもロゼッタの傍にいる己を、心配した彩雅が一定の時間になると声をかけてくる。

 それまでの間、黒曜はその日一日、外で見たこと、あったことをロゼッタに語って聞かせる。

 物言わぬ身となったロゼッタに、飽くことなく話しかける。

 どんな時も外さなかった首飾りだけが、時折、光を映して波打つような彩を見せる。

「秋桜が一面に咲いている場所があった。きっと気に入るだろう」

 額を撫でた手を頬に滑らせ、黒曜は長く伸びた金髪のひと房を掌に乗せた。

「目を覚ませ、ロゼッタ。お前に見せたいものがたくさんある。いや、共に見たいものがある」

 ロゼッタが目の前に現れるまで、黒曜にとって、すべては『只あるもの』だった。

 地の宮はただの住居で、花は花、役目は役目で、食事は滋養があれば良い。

 すべてに特に感想を持つようなことはなかった。

 淡々としたその世界に降ってわいた、ロゼッタは鮮やかな虹のような彩りだった。

 甘美な香りと豊かな感情を振り撒いて、黒曜の心を揺さぶり、視野を拓いていった。

 静かな地の底に造られた宮の中を賑やかにし、楽しみ、ささやかな喜びを見つけ出しては笑っていた小さな妖精。

 世界は雄大で優しく、時に厳しいがそこここに豊かな恵みあると、気づかせてくれた。

 日々の小さな喜びこそが、繋がって紡がれて、さらなる喜びになっていく。

 それをロゼッタと共に噛み締めたいと、黒曜は切に願った。

「お前の声が聴きたい。お前の笑った顔が見たい。ロゼッタ」

 想いのままに呟いて、黒曜は掴んだ髪に唇を寄せた。

 柔らかな毛の感触は、猫を思わせる。

 そろそろ彩雅に寝るように促される頃合いだろう。

 しかし離れがたくて、黒曜はロゼッタの唇に触れた。

 息が戻っていないかと確かめたくて、柔らかな桃色のそこに指を置いた。

 水晶の天井から、月光の淡い光が、黒曜の指を青白く浮かび上がらせる。

 清涼な光の中で、やはり呼気のない唇に、黒曜は狂おしい哀しみに駆られた。

 自身の熱を移したくて、黒曜はロゼッタの唇に自らのそれを重ねる。

 相手の許しも得ずに口づけるなど、これまでの自分からは想像もできなかったが、そうせずにいられなかった。

 何百年でも、何千年でも目覚めを待つと、言葉にできない熱意を伝えたかった。

 唇を離して、しばし……どこかで軽やかな鈴の音が響いた—―ような気がした。

 ハッとして周囲を確認する黒曜の耳に、また今度ははっきりと音が届く。

 それはロゼッタの唇から漏れ出ていた。

 目を剥く黒曜の前で、ロゼッタの全身が蛍のように淡い光に包まれ—―長い睫毛に縁どられた瞳が、ぱちりと開いた。

 パライバトルマリンの如き双眸が、幾度か瞬きを繰り返す。

「……こくようさま」

 確かにロゼッタが呟いた。

 桃色の唇が己を呼んだ。

「ロゼッタ……」

 ロゼッタはゆるゆると首を動かして室内を見渡す。

「…ここは…」

「地の宮の…お前の部屋だ」

 目を丸くしてロゼッタはこちらに顔を向けた。

「いつの間に帰ってきたのでしょう?そして、このとっても素敵な天窓は…、ああ、でも、それよりも」

 ロゼッタは笑みをたたえて半身を起こす。

「約束を守ってくださったのですね」

 喜びを抑えきれないといった様子のロゼッタを、黒曜は抱きしめた。

 初めて出会った時よりも、顔立ちも体つきも大人びて、背中の羽根も大きくなった。

 もう立派な淑女、一人前の妖精だ。

 羽根は香しい匂いを振りまき、薄闇の中できらきらと星屑のような鱗粉を振りまいている。

「黒曜さま…ん?あれ?」

 ロゼッタはそっと背に手を回したかと思うと、しばし言葉に詰まり、次いで悲鳴を上げた。

「キャーッ!私!裸です!!」

 黒曜は慌てて身体を離す。

 妖精の繭から出した後、女王の支度してくれたおくるみごと、寝台に寝かせていたのだ。

「何事!?」

 ロゼッタの悲鳴を聞きつけて、彩雅が飛び込んで来た。

「あっ!彩雅さま!ただいまです!でも待ってください、私、何も着ていなくて…」

 彩雅は棒立ちになり、呆気にとられ—―…しかしすぐに我に返り、つかつかと歩み寄ってきた。

「…この寝坊助のポンチョコリンめ…やっと目を覚ましおったか……」

 震えを帯びた彩雅の声に、ロゼッタはキョトンとした顔で黒曜と彩雅を交互に見た。

「私、すごく寝てました?丸一日くらい?」

「今は秋の実りの季節じゃ!四月よつき近く、半分死んでおって、このうつけのポンチョコリン!!」

「えッ!私、死んでますか!?生きてます!!」

「誰もがそう信じておったわ!心配かけおって…」

 語尾が弱々しく濁り、彩雅は誤魔化すように身をひるがえして壁にある衣装箱を探る。

「着るものはどこじゃ、まったく」

 呟かれる小さい繰り言は、湿り気を帯びていた。

 ロゼッタが、ブランケットを引き寄せながらおずおずと視線をよこす。

「私…とてもご心配をおかけしました…?」

「いいのだ」

 黒曜はその息吹を確かめるように、ロゼッタの頬に手を当てて微笑んだ。

「お前は最善を尽くした。お陰で災厄は払われた。誰も怒ってはいない。ただ、皆待っていただけだ。誰よりも…」

 黒曜は胸に迫る想いを抑えながら、言を継いだ。

「私が待っていた。お前が目を覚ますその時を。帰ってきてほしかった。会いたかった」

 こらえ切れず、会いたかったと繰り返して黒曜は俯いた。

 頬に添えた掌に、ロゼッタの温かい手が重ねられる。

「黒曜さまのもとに、私は必ず帰ります」

 顔を上げると、大人びた面差しになったロゼッタの、慈しみに満ちた笑みがあった。

「黒曜さまのいない世界に、私はいません」

 その言葉に、何がロゼッタの目覚めのきっかけになったのか、黒曜は悟った。

 己の力の波動から生まれた妖精。

 循環の理に還ろうとする肉体を修復し、魂をエフォリアが繋ぎ止め、妖精の繭が心身と魔力の均衡を隅々まで整えた。

 完璧な治癒であったが、根源的なものが足りなかったのだ。

 世界に目覚めた時と同じ気に触れる——注入する。

 黄泉の世界へも行かず、さりとて現世にも戻らず漂うロゼッタの魂を、肉体にしっかり繋げるための鍵は、黒曜だったのだ。

「ほれ、衣装を身に着けよ」

 彩雅が柔らかな素材の簡素なドレスを、ロゼッタに渡した。

 それをいそいそとロゼッタが着こんでいる間、外した視線が、彩雅の意味あり気な表情と出会う。

 何もかもお見通しだと言わんばかりのまなざしが居心地悪くて、黒曜はさり気なく顔を背けた。

「そういうば、私はどうやって今この時に、目を覚ましたのでしょう?」

 ロゼッタの無邪気な問いに、彩雅の小鼻がぴくぴくと動く。

「陰陽の和合は、養生にもなってだな…肉体が繋がることが、気を回復させるという…」

「いやいやいやいや」

 したり顔で語り出した彩雅を、黒曜は慌てて止める。

 少女の姿をしていても、長い時を生きている彩雅の知識は膨大だ。

 頭の回転が恐ろしく速い側近は、当たらずとも遠からずとはいえ、先走った推測をしているらしい。

 ロゼッタは首をかしげていた。

「おや、違いますか?それしか考えられぬのだが…」

「そんなことを本人の同意なくすることはない」

「ふむ、誠実な我が君であれば、それもそうですな…では…」

 顎に手を当ててしばし思案顔をしていた彩雅は、思いついたように目を光らせた。

「口づけですな」

 正鵠せいこくを射抜かれて、黒曜はぐっと押し黙る。

 言い当てたことに気づいた彩雅は満足げに腕を組んで、笑みに緩まないよう、震える唇に力を入れていた。

「くちづけ」

 ぼんやり反芻はんすうして、ロゼッタはみるみる耳まで赤くなった。

「こ、黒曜さまったら…ひどいです!」

 頬を両手で抑えながら、ロゼッタが潤んだ目で黒曜を非難した。

 黒曜はたじろぎ、どう謝罪しようか思いめぐらせるが—―…、

「初めてのキスが記憶にないなんて!」

 続いたロゼッタの言葉に、思考が停止する。

「さて、牛の乳を温めてきてやるゆえ—―その後にまた、積もる話をするがよいぞ」

 彩雅は穏やかにそう言い残すと、そそくさと退室した。

 ロゼッタは薔薇色に染まった頬を両手で抑えながら、上目使いを黒曜に向けた。

「黒曜さま、あの、えっと…」

 もじもじと、はにかみながらも言を継ぐ姿が愛らしい。

「ちゃんと、記憶に残るように、やり直してください……ね?」

 たまらず黒曜はロゼッタを抱きしめた。

 果実と花を篭いっぱいに詰めたような香りが、黒曜を取り巻く。

 恋しかった香りに包まれて、黒曜は目を閉じて柔らかなロゼッタの頬の温もりに自分のそれを寄せる。

「ああ。その前に大切なことを伝えねばならぬ」

 身体を離し、ロゼッタの小さい顔を両手で挟み込んで、輝く瞳を覗き込む。

「愛している」

 ロゼッタの頬がさらに火照り、パライバトルマリンの色を讃えた双眸が潤んできらめきを放った。

「私もです。黒曜さまを誰よりも何よりも、愛しています」

 額を合わせ、はにかんだ笑みを交わす。

 そのまま重なった恋人たちの唇を、水晶の天窓から、満月だけが見ていた。

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