△ 【本宮花音】


「いで……っ!」


 ズキン、と鋭い痛みで目を覚ます。

 こめかみの傷がじくじくとうずいている。指先に違和感。スマホで照らすと、赤くなった爪に瘡蓋かさぶたが挟まっていた。寝ている間に掻いたのか。ガーゼが転がっていた。


「なんだよ、今の夢……」


 手探りでティッシュを探し当て、軽く傷口に押し当てながら、ぼやく。


 ──私のことは、もう忘れていいんだよ


 脳が次に進もうとしてる。

 傷口が勝手に塞がっていくように、ダメージを負った心も、僕の気持ちを無視して立ち直ろうとしている。

 やきもち焼きな本宮先輩が『忘れていい』なんて、いうはずがない。


「くそ……」


 佐伯がヘンなことを言ったからだ。

 彼の言葉が引き金となり、こんなおかしな夢を見てしまったんだ。


 ずりずりと押し入れを這い出た。

 近坂はすでに大学。

 居室は、太陽光に白く照らされていた。白っぽい家具が多いから、やたらと眩しい。


 ──ガチャコンッ


 低血圧気味な身体をひきずり、玄関でドアをガチャった。

 しかし、


「………………嘘だ」


 ──ガチャコンッ

 ──ガチャコンッ

 ──ガチャコンッ

 ──ガチャコンッ

 ──ガチャコンッ


 何の記憶も、感覚も、蘇ってこなかった。

 ふと思い立って、首から下げている合鍵をキーシリンダーに挿した。

 施錠、解錠、オープン。──ガチャコンッ


 ダメだ、何も浮かんで来やしない。

 施錠、解錠、オープン──作業を繰り返しつつ、頭の中でじわじわと焦りが湧く。

 懇親会で、星凛菜せりなと共有したあの『なんかイヤだ』が、ついに正体を現したのだ。


 バタン──ドアを閉めたタイミングで。


「なにしてんの、めい


 突然、背後から声を掛けられ、思わずぴんと背筋が伸びる。


「せ……りな先輩……? ……なぜ4階に?」

「学校行こうとしたんだけどさー、下がバッタンバッタンうるさくて。なんか気になっちゃって、ちょっと様子見に来たってわけ」

「そっすか……」

「そっすかってか、どした? 顔真っ白だけど。その割に、手はまっ黒じゃん」


 僕はそっとドアノブから手を下ろした。


「先輩、ちょっと尋いていいっすか?」

「え、あぁ……うん?」


「懇親会のときに話してたこと、覚えてますか? あの、『後ろ髪が引かれる』ってやつ」


 星凛菜が一瞬、息を飲んだ。


「『いやだね』って言ったじゃないっすか、二人して」

「……うん、言ったね」

「あれ、どういう意味っすか」


 すると星凛菜はじっと僕の目を見て、いった。


「マジな話のやつだね。ウチ来なよ、ちゃんと聞くから」

「え、でも大学は……」


 そういった時にはもう、星凛菜はエレベーターに向かって歩いていた。





「──『私のことは、もう忘れていい』って、言うんすよ。どう思います?」


 今朝見た夢のことを話した。


「あー、本宮なら言わないね」


 先輩は何かを思い出すように、くすくすと笑った。


「あの子ああ見えて独占欲強いから、言うとしたらコレかな」


 といって星凛菜は、本宮先輩の声真似をした。



「──『ぜーったい忘れちゃイヤだよ?』……こんな感じ?」



「あ、言いそう。ってか似てますね」


 深刻な話であるはずなのに、つられて笑ってしまう。


「あたしもさ、」


 星凛菜は立ち上がり、僕の後ろに座った。


 ベッドだ。

 僕はベッドの隅に腰をおろしているが、星凛菜はその後ろで足を伸ばし、僕の背中を足の裏で押した。ぐい、と。


「本宮のことは忘れちゃいないけど、少しずつ”当たり前”になってきてるんだ」


 ぐいぐいやられながら、そんな話を聞く。


「イヤだよね」

「……うん」


 僕は頷いた。


「あの時あたしが言ったのは、そういう意味」


 星凛菜がいった後、脱力したように背中から足がぼすんと落ちる。


「でも一つ、キミと決定的に違うことがあるんだけど」


「……なんですか」


 不吉な物言いだ。


「その前に、めいはさ。ジェットコースターすき?」

「は?」

「シートベルトってあれ、心理的な安心も買ってんだよね。ちょっとごめんよ」


 背後でごそりと音がしたあと、僕の両脇に、にゅっと白い腕が差し込まれた。

 バックハグされる。


「こんな感じ。どう安心した?」

「あったかいっす」


「じゃ、行くね。落とすよ」


「え? 落と……え?」


 かたわらで、ツバを飲む音が聞こえた。次に。



「本宮は死んだよね」



「──っ」

 全身がこわばり、息が止まる──


「あのね、鳴」


 ──


「あたしは本宮のことを、”思い出”として胸にしまってる。キミはどう?」


 ──


「頭の中で、生かしてるんじゃないの」


「──な、んで……」


 か細い声が出た。


「なんでそんなふうに言っちゃうんすか……仲間だと思ってたのに……」


 仲間。

 僕と星凛菜は、唯一同じ気持ちを分かち合える仲間──同志じゃなかったのか。


「ごめんね。そこは鳴と同じじゃないんだ。あたしは、本宮が、もうこの世にいないって、分かってる」


 どん、と突き飛ばされたような衝撃だった。


「お葬式をすっぽかしたよね」

「……っ!」

「あたしは多分、鳴と同じくらい本宮のことを大切に思ってるけど、一つ違うところはそこだよ。鳴は、本宮の遺影を見てないよね」


「そ、……そんなこと……」


 言葉が続かなかった。


「鳴は『あれから』一度でも、本宮に会いに行った?」


 呼吸が荒くなり、心臓が胸を打ちつけた。


「あたしが電話した日……本宮が死んじゃったって伝えたあの日からさ、鳴はどこかに消えちゃったじゃん」


 電話を切って、電車に乗った。

 マンションに帰り、閉じこもって、追い出され、天井裏に逃げ、今に至る。


「本宮のお墓の場所、鳴は知ってる?」


「……」


 僕は小さく首を横に振った。


「だからだよ……割り切れないのは」


 吐息のような微かな声だった。


「さっきあたし、本宮の口真似したじゃん? あれもさ、『もし本宮が生きてたら、こう言うよね』って意味だったのね」


「…………」


「でも、仮に幽霊がいるとして、本宮がキミの前に現れたらさ。そのときはたぶん、こう言うんじゃないかな」


 何を言われるのか、大体の想像がついてしまう。

 それは……ずっと考えないようにしてきたことだった。



「──鳴くん、どうして来てくれないんだろう、って」



 僕はがくりと項垂れた。

 そんな僕を、星凛菜は最後まで抱きしめてくれていた。


「お墓参り行こうよ、これから。あたしと一緒に」





「ジェットコースターというより、フリーフォールですよ。あんなの」


 僕が言うと、星凛菜はふふっと笑った。


「シートベルトがあるだけいいじゃん。あたしなんて、抱きしめてくれる人なんていなかったよ」




 墓地は、住宅街から離れた寺院の横にあった。


「一人で行っていいですか」

「うん。じゃぁ交代で。あたしが先に行くよ。キミは積もり積もった話があるだろうし」

「はは……。十分経っても戻ってこなかったら……先に帰っててください」


 星凛菜はおかしそうに笑った。

 けたけたと揺れる金髪が、陽の光に透けて眩しい。


 そうして笑ってもいいのか。

 そう思うと、少し安心した。


「お墓は洗っておくから、めいはお線香とお花だけやりな」


 バケツを手にして、星凛菜は砂利道を歩いて行った。

 これだけお墓があるのに、その足取りは迷いなく進んでいく。



「大体の場所はわかった?」


 10分ほどして戻ってきた星凛菜が、僕にそう尋ねた。


「うん。見てましたから」

「よーし。じゃ、行っといで! 本宮には『サプライズがあるよ』って言っといたから!」

「や、やめてくださいよ……なんか行きづらいじゃないっすか……」


 まるで本宮先輩が本当にあそこで待っているかのような、そんな会話だった。



「はぁ……」


 じゃり、じゃり──


 足元で、信じられないほど賑やかな音が響いている。

 もっと、土とかにしろよ。

 とぼとぼと歩みを進め、その先の角を曲がった瞬間、僕は目を見張った。


「…………」


 通路の中ほどにある一つの墓前が、色とりどりの花で鮮やかに彩られていた。


 うっ、と気持ちが込み上げる。


 人気者だったのだ。誰からも好かれる。

 みんなが来たのに、こなかったのは僕だけか。


 足を踏み出すのが怖かった。

 来た道を振り返ると、星凛菜の姿はなかった。

 僕は仕方なく足を進めた。


 じゃり、じゃり──


 『本宮』という字が目に入り、僕は目を伏せた。下には隣のお墓との境界ぎりぎりまで、花やお菓子、ジュースにお酒までが並べられている。


 目の前まで来たが、なかなか直視できなかった。

 そっと視線を上げる。



 ──本宮家之墓



「あぁ……」


 その場で僕は泣き崩れた。


「ごめんなさい……ごめんなさい……」


 彼女のいろんな表情が頭を巡る。


 初めて出会った時の柔和な表情。

 踊っている時の、エロい目つき。

 二人でいるときの、甘えた笑顔。

 たまに怒って、頬を膨らませる先輩。


「待たせて……っぐ……、来られなくて……ごめん……なさい……」


 大好きだった先輩。

 空港で送り出したこと、ずっと後悔していました。

 あのとき止めていれば、何かもうひとこと声を掛けていれば、未来は変わったんじゃないかって。

 胸も揉んでみたかった。エッチだってしたかった。ずっと楽しみに待っていたんです。もっとずっと一緒にいたかった。じいさんばあさんになっても手を繋いでいたかった。



「うわああああああああああああああああああっ!」



 ぼろぼろと涙が止めどなく溢れる。

 砂利の上でひざまずいて泣いた。





 どれだけ泣いたのか。

 顔を上げると、空にほんのり赤みが差していた。


 少し元気をなくした花を、ガーデニングスペースのようになりつつある墓前にそっと飾る。


「お線香……これ、めっちゃいいやつです」


 『特撰』と書かれた木箱から1本取り出し、くゆらせて立てた。

 手を合わせるものの、頭は空っぽだった。

 もう、ほとんどの言葉を出し尽くしてしまっていた。


 また絶対に来ます──

 心の中で先輩に誓い、立ち上がると、わずかにフラついた。




 それで、星凛菜せりな先輩はどこに行ったんだ。


「帰ったのか?」


 ポケットからスマホを取り出しつつ、バス停のようなトタン屋根のある休憩所に足を踏み入れたところで、星凛菜を発見した。


「おっそ! アルバム3周したんだけど」


 笑いながら、星凛菜は耳からイヤホンを外す。


「あはは、すみません」


 と、僕も自然と笑みが溢れた。


 少し歩き、住宅街のバス停で。


「鳴、あの部屋から引っ越したりすんの?」

「どうっすかね」


 一瞬、それもいいなと思った。

 全部終わらせる、それもアリだと。だが──


「もうちょっと考えます」


 具体的には、今週末くらいか。




 途中で投げ出せないことが、僕にはあった。

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