第3話 幻のラーメン屋の店主
「旨い」
俺がぼそっとつぶやいた瞬間――何かが、壊れた。
まるで、俺の心の奥底に張り巡らされていた見えない壁が崩れ落ちたような感覚。そして、そこから何か――冷たくて粘り気のある「異質なもの」が流れ込んできた。それは、俺にとってまったく理解できない感覚だった。
気がつけば、周囲の景色が一変していた。さっきまで普通のラーメン屋だった空間が、今では完全に異常な空間へと変わり果てていた。
店内は、暗闇の中に歪んだ明かりが灯り、テーブルや椅子はどこまでも伸びているように見える。俺の目の前のラーメンが、急に異様な気配を放ち始めた。麺が、器の中でゆっくりとうごめいている。スープは、まるで底知れぬ深海を覗き込んでいるかのような暗さだった。
「なんだ、これは……?」
背筋に寒気が走った。その時だった。
店内の奥から、静かに、だが確実に現れるものがあった――人だ。
いや、正確には「人だったもの」。その姿は、どれもやつれ果て、目はうつろ。彼らは一心不乱に目の前のラーメンをすすり続けている。まるでそれ以外の行動を忘れてしまったかのように。
「……あいつら、なんだ?」
口に出しても、答えるものはいない。ただ、異様な空気だけが俺を包み込む。
彼らの姿をじっと見ていると、徐々にその中の一人の顔に見覚えがあることに気がついた。
「え……お前……?」
俺が知っている、近所の酒屋の店主だ。数か月前に失踪していた。しかし、俺が知っている彼とは完全に別人のようだった。痩せこけた顔、ぼろぼろの服――そして、異常なまでに夢中になってラーメンをすすり続けている。
ほかの連中も同じだ。町で聞いた行方不明者の顔が次々と浮かぶ。あの人も、この人も、そして依頼人の息子も――この異常な空間の中に閉じ込められていたのか。
店主が、ふっと笑った。
「君も気づいたようだね。」
その声に、俺ははっと我に返る。
「どういうことだ、これは? こいつら、何なんだ?」
店主はにっこりと微笑んだまま、手に持ったおたまを静かにかき混ぜるような仕草をした。
「彼らは『選ばれた人々』だよ。ラーメンを愛し、ラーメンを欲し、ラーメンと共に生きることを運命づけられた者たちだ。」
「……ふざけるな!」
俺は叫んだ。しかし、彼の表情はまったく変わらない。むしろ、その笑顔はどこか無邪気で、かえって恐ろしさを感じさせた。
「ここでラーメンを食べるということはね、この世界と繋がることを意味するんだよ。そして、一度繋がったら最後――彼らはもう戻れない。永遠にラーメンを食べ続ける運命なんだ。」
「そんな馬鹿な話があるか!」
怒りと恐怖が入り混じり、俺は手に持ったラーメンの器を投げ捨てようとした。しかし――できなかった。
俺の手は、自分の意思に反して動かなくなっていた。ラーメンを掴む指が震えながらも、器を手放そうとはしない。いや、むしろ口元に運ぼうとしている。
「くそっ、なんだこれは……!」
「君も、彼らと同じ運命さ。」
店主は静かにそう言うと、ラーメンの湯気が立ち上る器を俺に向けた。
その湯気の中に――無数の人影が浮かび上がる。さっき目にした「彼ら」だ。ラーメンをすすり続ける彼らの姿が、湯気の中で蠢いている。
「彼らはもう、『永遠の客』なんだ。君もその一人になるよ。」
その瞬間、俺の脳裏に強烈な映像が流れ込んだ。
無限に続くラーメンの麺。それを追いかける無数の手と口。終わりのない食事の地獄。喉が焼けるようなスープの味が、脳内を支配する。
俺は叫びながら目を閉じた。店主の言葉が耳元で響く中、俺は必死に考えた。ここから逃げる方法を――この悪夢から抜け出す手段を。
しかし、視界の隅で、ラーメンをすすり続ける「彼ら」のうつろな目が俺を見つめているのを、俺は確かに感じていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます