猫転送装置 〜扉を開けたら見知らぬ家族がいた話1〜

天鳥カナン

第1話

猫転送装置 〜扉を開けたら見知らぬ家族がいる話1〜


                      

 仕事帰り。今日も疲れたな、と思いながら俺はマンションのエレベーターを四階で降りて自宅の扉を開ける。だいたい部長のやつ文句言いすぎなんだ、新しく納入したトイレットペーパーの品質が悪いって、そりゃコストを下げれば当たり前の話じゃないか。総務はコスト下げるのが仕事なんだ小さなことにも手を抜くなって威張ってたのはどこのどいつだよ、ったく。頭の中でブツブツ言いながら靴を脱ぎ、正面にあるダイニングキッチンのドアを開けると。

「おかえりー」

 女性二人の声がした。が、椅子に座ってる若い娘もIHコンロに向かってる中年の女性もテーブルに寝そべっている大きな黒猫も……見たことない。黒猫は黄色い瞳で俺を見やり、『誰だ?』という顔をした。

「あ、失礼」

 脳内文句を言ってたせいで家を間違えたか、と玄関にとって返して外の表札を見る。


 小宮山一朗、と書かれたそれは、俺の名前だ。

 しかし家には見知らぬ女性たちがいる。

 あ、お客さんか。

 妻が友達を家に呼んで、みんなで夕食の準備でもしていたのか。

 そう納得してまた室内に戻ると。

「なーにお父さん、どうしたの、うろうろして」

 まだ高校生くらいに見える若い娘が不審そうに言う。

 続いてちょっとふっくらした、ゆるめのカールの髪の中年女性が

「ご飯できてるけどすぐ食べる?」

 と俺に訊く。明らかに家族扱いだ。

 ちょっとパニックになった俺は、「タバコ買い忘れた。コンビニ行ってくる」と、とりあえずその場を抜け出した。


 家のマンションから一分のところにあるコンビニには広めの駐車場があり、外には吸い殻入れも置いてある。助かる。駅前にある別のコンビニは先月から吸い殻入れを撤去してしまった。みんなあそこで仕事に行く前の一服をしていたからタバコの売上は落ちるだろうが、それに目をつぶるほどの圧力がどこかからきたんだろう。

 おっと、コンビニの店主なんかに同情してるヒマはない、そんなことより自分のことだ。

 コンビニでタバコとライターを買い、火をつける。慣れた香りと苦みを吸い込むと、ようやく気分が落ち着いてきた。

 俺は俺の家に帰ってきたつもりだったが、そこは「俺の家」ではない。俺の妻はあの部屋にいた女性ではないし、俺の子どもは息子一人だ。ついでにいえば俺の飼い猫のリリは白猫で、あの無愛想な黒猫に比べたら、ずっと繊細で可愛らしい。


 さてどうしたものか。

 煙をふうと吐き出しながら考える。

 まず、あの部屋にいるのは誰なんだ?

 これがテレビの中ならば、不運なタレントがドッキリで騙されている間抜けなシーンに違いない。でも、ごく普通のサラリーマンの俺にドッキリを仕掛けても何のメリットもない、と思う。こんな黒縁メガネに少しくたびれたスーツを着ている四十男を大きな画面で見たい人間なんかいるはずない。

 あの家の女性二人は俺を家族扱いしていたけれど。今はレンタル家族もあるという。こないだ読んだミステリーでもアリバイ作りに一役買っていた。俺は頼んだ記憶はないが、まさか妻や息子が頼んだとか? いったい何のために?

 それより、俺の本当の妻子はどこへ行ったんだ? まさか、何かの犯罪に巻き込まれでもして、それで家にいないのだろうか?

 思いついて携帯で妻に電話する。

『おかけになった電話番号は電波が届かないところにあるか、電源が入っていないためお繋ぎできません』

 息子にかけても同様だ。

 考えるほどによくない想像がわいてくるが、こんなことで警察に訴えるわけにもいかない。帰宅したら妻と息子がいないんです、代わりに知らない女性たちがいるんです、そしてその女性たちは自分を家族だと思っているようで……なんて言ったら。

 どう聞いても頭がおかしいのは俺のほうに思われるだろう。あなた記憶は大丈夫ですか、酒は飲んでいませんよね? 春先はおかしなことを言ってくる人が多いんですよ、と警官に笑われるのがオチだ。


 まさか本当に、俺の記憶がおかしいなんてことはあるのか?

 そりゃ最近は人の名前がすぐ出てこなくて、何でもアレで済ますことは多くなったが、さすがに自分の家族を忘れたりはしないだろう。

 けさだって、リリが珍しく出かける俺の足下にじゃれついてエレベーターに一緒に乗りそうになったじゃないか(幸い、その手前で離れて、開けておいた家の扉に戻ったのは見た)。

 そして、そうだ! あの黒猫。

 女性たちはともあれ、あの黒猫だけは俺を「よそ者」として見た。だから、俺は「ここは俺の家じゃない」と気づいたんだ。

 うん、あの家の「小宮山一朗」はたぶん俺じゃない。同姓同名で、見た目も似たようなものかもしれないが、俺じゃない。仮に俺を小宮山一朗Aとするなら、そいつは小宮山一朗Bだ。

 ……………………。

 でもそれを、まわりに説明するのは難しいな。 

 とりあえず今晩をどうしよう?

 もちろん、何が起きているのかわからない家に戻りたくなければ、ビジネスホテルなりネットカフェなりに行くことはできる。だけどそれは最終手段だ。家に戻っても、俺が小宮山一朗Bのふりをしていれば、女性たちから危害を加えられることはなさそうだ、黒猫は別として。そう自分に言い聞かせて、もう一度ドアを開けた。


 元の自分の家に戻っている、という淡い期待は数秒で破られた。

「うわっタバコ臭っ」

 若い娘は俺を見るなりそう言って顔をしかめた。

「あなた、タバコは止めたんじゃなかったんですか」

 と中年女性も咎めるような口調で言う。まずい、小宮山一朗Bは禁煙しているのか。黒猫までもさげすむような目で俺を見る。

(俺はおまえのご主人様じゃあないけどさ。そんなゴミを見るような目で俺を見るなよ)

 心の中で愚痴りながら「ほら、これ」と、猫を手なずけるためにコンビニで買ってきたチュルチュルおやつを差し出す。猫はそれには目もくれず、ぽんとテーブルからおりて俺の足下の匂いをフンフンと嗅ぎ出した。ああそうか、俺の家では白いメス猫を飼っているから、まとわりついてたその猫の匂いが気になるのだろう。

「あー間違ってる! なんでマグロ味買うかな? タクトはビーフ味しか食べないのに。今日のお父さん、やっぱ変だよ」

 若い娘が呆れた口調でそう言った。



 翌朝、週末にも関わらず「仕事が残ってる」と俺は早々に家を出た。

 小宮山一朗Bの家に居づらいのもあるが、何より仕事の場が無事なのかを確かめたかったのだ。できるなら人が少ないときに。

 最寄り駅から電車に乗り、いつもの駅で降りて見覚えのあるビルに自分の会社があるのを確認した。休日出勤の俺を見る守衛さんの目がいつもと違う感じがして緊張したが、社員証のバーコードをかざし出勤できたときは心の底からホッとした。少なくともこれで仕事は続けられる。それにこのバーコードの勤怠管理システムを導入した責任者は総務課長の俺だったから、出勤できなければこんな皮肉なことはないと思っていたのだ。

 総務部のあるフロアで自分の机を見て納得する。

 机の上に置かれたフレームには、あの家の女性二人の真ん中に、大きな黒猫を抱えた俺に似た男がいる写真が入っていた。

 どうやら俺、小宮山一朗Aと、小宮山一朗Bは入れ替わってしまったようだ。それとも俺らだけじゃなく、小宮山一朗ABCD…と順繰りにズレてしまったのだろうか?

 そのとき、携帯メールの着信音がして、俺は手が震えた。

 俺の本当の妻や息子からか?

 それとも見知らぬ相手からだったらどうしよう?

 チャットではなくEメールとして送られてきたそれの差出人は、そのどれでもなく「自分」だった。


『前略

 このメールを見た君が、小宮山一朗であるなら、君のパソコンのアドレスに返信してくれ。草々』


 紙ではない手紙に前略・草々はどうよ? ともう一人の俺にツッコミを入れたくなったが、知ってるような知らないような相手にどう呼びかけたものか迷ったんだろうな、と苦笑いする。俺の携帯は自宅パソコンのアドレスに送られてきたメールも受信する設定になっている。同じ番号同士でチャットするのは無理でも、違うアドレスへのメールなら届くかも、と必死に考えたんだろう。


『小宮山一朗だ。俺の妻と息子と白猫は無事か? あとこっちの奥さんと娘さんの名前はなんていうんだ? いまさら聞けないから困っている』

『妻はゆきえ、娘は絵里だ。わかっているとは思うが二人に変なことはするなよ。猫は黒猫だから本当は某運輸会社の名にしたかったんだが登録商標は人様のでも大事だからな、タクトだ。君の妻子は無事だ。名前はマイナンバーカードで確認させてもらった。直美さんはスポーツクラブに出かけたし、彰君はサッカーの部活に行った。活動的だな、君の家は』

『そりゃどうも。お互いの家族に手出ししないのは当然だろう。猫のリリにはマグロのチュルチュルをやってくれ。好物なんだ。タクトにはビーフのおやつを買う予定だ。お互い、この状況から脱出する方法を見つけるまで、時々連絡を取り合うしかないな。あと、俺は禁煙はしてない。ベランダでなら喫煙可能だ。こっちでは仕方ないから外で吸うよ』

『了解した』


 ともあれ俺の家族は無事とわかった。ホッとした俺は、会社を出ていまどき少ないタバコの吸えるカフェへ行き、つかの間コーヒーとタバコを楽しんだ。

 これで俺、小宮山一朗Aと小宮山一朗Bの入れ替わりは確定した。しかし問題は。

どうやって元に戻るかだよなあ…



 慣れてくると、小宮山B家の居心地はそう悪くはなかった。奥さんの料理は美味かったし、スーツに消臭剤を振りかけマメに歯を磨くようにしたら、娘さんもしかめっ面をしなくなった。俺の妻はダイエットが趣味のようなものだから食べないが、一般に女性はスイーツが好きだという。なので試みに得意先へ贈ることの多い有名店の菓子を買って帰ったら二人にかなり喜ばれた。

 忙しいからと惣菜とサラダで食事を済ますことの多い俺の妻と、家にいるときは自室にこもってほとんど口もきかない息子に囲まれ、小宮山一朗Bは今頃苦労しているかもしれない、とちょっと済まない気持ちになった。

 ただ俺も、猫では苦労している。

 黒猫タクトは俺がビーフ味の高級猫缶をおごっても、いつもじろりと俺を見てから(まあ、食べてやるか…)とのっそりと餌の小皿の前にやってくるだけだ。シャーッと威嚇されないだけマシだが威嚇するほどの値打ちもない、と言われているようで少々ムカつく。

 小宮山一朗Bはこんなふてぶてしい猫のどこが可愛くて飼っているのだろうとメールで聞いてみた。


『黒猫が俺になつかないで困ってる。家族に不審に思われないうちになんとかしたいんだが』

『タクトは元は野良猫なんだ。近所の公園で見かけてたまにエサをやってたら、あるとき怪我をしてうずくまってた。雨の日で寒くてね。置いていけなくて獣医に連れてったら「お宅の猫ですか?」って聞かれて「はい」って答えちまった』


 そういう理由ならあの無愛想な猫もなつくだろう、恩人だものな。

 うちのリリは妻が友人宅で生まれた子猫の中からもらってきた。小さいときから家にいるから、家族の誰にもなついている。ああ、リリに会いたい。あの柔らかい白い毛を撫でたい。


『リリは元気か?』 

『元気だ。チュルチュルをやろうとしたら、開けた先から器用にペロペロなめるんで驚いたよ。ついでに俺の手もなめてくれる』

『可愛いだろう?』

『可愛い。白猫も悪くないな。でも俺としては、家に俺以外にも男がいてほしいからタクトがいると助かるのさ。二対一じゃ分が悪いからな。ところで、タクトは時々外へ出たがる。玄関の靴入れに猫用リードがしまってある。たいていは拾った公園のところに行くから、連れて行くと君の評価が上がるんじゃないかな』

『わかった。やってみる』


 犬ならばリードを見せただけで喜んで散歩に行くのだろうが、猫は気まぐれなのかそうもいかない。何度か誘いをかけても黒猫は全くそれに乗ってこない。

 俺とタクトとの関係は改善されないまま、こちらに来て十日くらいが経った頃。


「あなた、最近お仕事大変なんですか?」

 そろそろ眠ろうか、という時間に、突然小宮山Bの奥さんにそう切り出されて驚いた。

「いやまあ、もうじき期末だから…そうだなあ」

 俺は口を濁した。小宮山Bの奥さんは続けた。

「止めてたタバコをまた吸ってるでしょう、それに私や娘と顔を合わせるの避けてない? あんなに可愛がってたタクトだって近寄せないで、家にいても携帯ばかり見てるし。何か仕事か家庭に不満でもあるのかしらって…」

 じつは、女性陣を避けてるのには理由がある。

 先日奥さんが上半身スリップ姿で俺の前に来るから何事かと思ったら、ワンピースの背中のファスナーを上げてくれと頼まれた。そのとき豊かな胸に二個のほくろがあるのが見えて(ちょっと色っぽいな…)と思った俺は反応しちまったのだ。もちろんやり過ごしたが、ゆるいカールの髪を上げたうなじにいい香りがして、俺の腰が奥さんに触れないようにしながらファスナーを上げるのにけっこう苦労した。

 以来、小宮山一朗Bとの約束もあるし、無防備な格好をして家をうろうろする彼女たちをあまり視界に入れないようにしている。なんと言っても俺には他人なのだから仕方ない。


 それよりも、俺は彼女を見直した。

 俺と小宮山一朗Bが入れ替わっても、黒猫以外は気づきもしないのか…とやや自暴自棄な気分になっていたからだ。

 元の世界へ戻る方法は見つからないままだ。このまま、俺の妻じゃない人を妻と呼んで、いたことのなかった娘と暮らすか。それはそれで、悪くなさそうではある。

 だが、だったら俺が今までやってきたことには何の意味があったんだろう。人間なんかどうせちっぽけだ。誰と机を並べて学ぼうが、働こうが、いつかはみんな消えていく。たまたま残った数人だけが家族や友人になって、俺の人生を構成する…はずだった。

 俺が俺なりに必死になって選び、守ったつもりのものが、俺でなくていいというなら。俺も小宮山一朗Bも、存在意義はないことになる。

 でも、小宮山一朗Bの奥さんは気づいた。少なくとも、俺が彼女の知ってる夫と違うことに。なあ、小宮山一朗B、アンタ幸せ者だよ、いい奥さんもらったな。 

「不満なんかないよ。…ちょっと疲れてたんだ。タバコはもうしばらく見逃してくれないかな」

 このくらいは許されるか、と泣きそうになってる彼女の背に手をやってそっと叩き、おやすみ、と言うとうなずいた。



『猫転送装置って聞いたことあるか?』

 こっちは色々大変なのに、何のんきなことを言ってるんだ、小宮山一朗Bは。


『なんだそれ?』

『平面に丸とか四角とか閉じた空間を作ると、そこに猫が現れる。まあジョークだがYouTubeとかで人気があるんだ。それの実物があるのを彰君に教わってさ』

『あいつ、そんな話するんだ』

 俺とはろくに顔を合わせもしないのに。

『いっしょに朝ジョギングしたら教えてくれた。俺がタクトを拾った公園な、あそこに誰が作ったんだかちょうど猫が入るくらいの丸い輪っかが埋め込んである。よくそこに猫がいるから、みんなでそう呼んでるんだそうだ。で、俺は見たんだよ。こないだの夜、この世界に来る前の日に』

『何を』

『そこから猫が転送されるのを。タクトはあそこの主だから介添人みたいな形で装置のそばにいたんだが、たしかに色んな猫が行ったり来たりして変な感じだった。そのとき俺は急に家に戻らないといけなくなって、タクトを捕まえに行って装置を踏んだ。滅茶苦茶な話だとは思うが……もし、猫転送装置の上に俺たちが同時に乗ったらどうなる?』

『こういうのを「藁にもすがる」って言うんだろうな。でも、やってみる価値はありそうだ』


 その機会は意外に早くやってきた。

 二日後家に帰ると、珍しいことに黒猫がその太った体を俺の足下にこすりつけ、早く行こうというようにズボンの裾をくわえて玄関のほうへ引っ張る。

「あれ? タクト、外に出たいみたいだね、お父さん」

 と娘の絵里さんが言う。

「そうか。じゃあちょっと行ってくるよ」

 思わず声がひっくり返りそうになるのを抑えて、何でもなさそうな顔をして黒猫にリードを付け、散歩に出た。

 猫とどう歩けばいいんだ? という心配は無用だった。タクトは俺に先立って悠々と歩いて行く。一つ二つ角を曲がると、さほど広くない公園に出た。

 そしてなんでタクトが今夜散歩に出たがったかわかった。猫がうじゃうじゃいるのだ。おまけに満月だ。集会かー。

 黒猫が俺を見上げ、クイと首を曲げた。リードを外せ、と言ってるらしい。言われるままに外してやる。公園育ちのコイツはここの主だと小宮山一朗Bも言っていた。その顔は立ててやらねば。

 猫たちはお互いの鼻をくっつけ合った後、公園のある一角を取り巻いて円を作った。その中には誰が埋めたかわからないが、銀色に光る丸い輪っかがある。

 あれが猫転送装置か。

 タクトが輪っかの脇に仁王立ちになる。と、その中に三毛猫がヒョイと入り…

 あれ?

 さっきたしかに三毛猫が入ったように思うのに、その輪っかから今出てきたのは縞猫だ。その次はサビ猫とシャムが入れ替わったように見えた。俺はメガネをかけ直してそこをじっと見つめてから、小宮山一朗Bに「急いで公園に来い」とメールした。

 猫たちの集会は小一時間も続いただろうか。

 段々に一匹、また一匹と去って行き、最後に俺とタクトが残った。


『じゃあやるか。二十一時ジャストになったら装置に乗ってくれ』

『OK』


 タクトは神妙な顔で装置の脇にいる。この機会を逃すかと、俺と小宮山一朗Bは同時刻に装置を踏んだ。

 二十一時から一分経ち、二分経った。

『ダメだな』

 俺がつぶやくと。

『ああ。猫用は、やはり猫用だな』

 と返信がきた。  

 しかたない。俺はタクトに再びリードをつけマンションへ戻るために歩き出した。



 翌朝仕事に出かけようとすると、なぜかタクトがまた俺の足下に絡んでくる。

 昨日、集会へ連れて行ったことで、コイツの中で俺の評価が上がったのだろうか。

 まだしばらくはこちらの世界にいるしかない。いや、下手したら俺は一生ここにいるしかないのかもしれないから、黒猫になつかれるのは大事なことだ。

 後でタクトが家に戻るのを確認してくれよな、と奥さんに頼んでから黒猫といっしょに家を出る。

 エレベーターのところに来ると黒猫は立ち止まり、招き猫に似たポーズを取って左手を上げた。でっぷり太ったその体でそうすると、本当に招き猫のように見える。そうして一瞬、無愛想な顔に笑みを浮かべたような気がした。

 タクトもやっと俺に気を許してきたのかな。ちょっとは可愛いところもあるじゃないか。

 会社はいつものように忙しく(これはどちらの世界でも変わらない)、帰りにコンビニで一服してビーフ味の猫用おやつを買い、今日も疲れたな…と思いながら俺はマンションの扉を開ける。

 すると何か柔らかいものが足下に絡みついてきて。

「え? おまえリリ、リリじゃないか!」

 思わず抱き上げて、白い毛並みに顔を埋める。リリはニャアと鳴いて俺の顔をなめてくれた。

 リリを片手に抱いたまま靴を脱ごうとすると、乱雑に脱がれたデカいスニーカーが目に入った。何回注意しても治らないその癖は、息子のやつだ。

 まっすぐ進み、ダイニングキッチンのドアを開けた。

 リリと持っていたコンビニの袋をテーブルの上に置くと。

「やだ。またビーフのチュルチュル買ってきたの? 最近リリがそれ気に入ってるからって、ちょっと甘やかしすぎじゃない?」

 悪態つく声さえ懐かしくて、『俺の妻』を抱きしめてから言った。

「ただいま…」



   了

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