第2話

猫転送装置 〜扉を開けたら見知らぬ家族がいた話2〜

                             


 JR線の駅で電車を降りた夏の夕暮れ。額から吹き出た汗が黒縁メガネを伝って耳の辺りから紙のマスクに流れ込む。大変に気色悪い。

 もう階段を上るのもおっくうになった俺はホームにあるエレベーターに乗った。数名の乗る人を待ってドアを閉める。傍から見れば障害者でも何でもないスーツ姿の四十男がエレベーターに乗るなんて、と非難されるかもしれない。だが費用がかかるから東京都の支援も受けてるらしいこのエレベーターに、納税者なんだからたまには乗せてくれよ、と思った。それくらい、今日も疲れたのだ。


 コロナ禍は総務部の仕事を一変させた。

 急激なテレワークの推進で出勤してくる社員が昨年に比べ半減したから、会社の水道光熱費が格段に減った。それ自体は歓迎すべきことだが予算の計算し直しが大変だった。浮いた分の予算で、顔認証の体温測定器設置などコロナ対策費を賄わないといけなくなったからだ。人の少ないオフィスで苦手なエクセルと格闘して一日を過ごしたのだ。ちょっとは楽したいし、癒やしだってほしいじゃないか。

 駅から十分ほどのマンションへ帰る途中、コンビニでアイスコーヒーを買い、外の喫煙所で一服する。この時間がささやかな俺の癒やしだ。そしてもう一つの俺の癒やし、飼い猫のリリのために猫おやつもコンビニで買った。

 

「え、リリがいない?」

 帰宅した俺はのんきにも、リリ、チュルチュルおやつ買ってきたぞー、と玄関から声をかけた。そうしたら白い猫でなくて青い顔した妻の直美が言った。

「そうなの、昼間気がついたらいなくて、もうずっと探してるの。仕事中に心配させても、と思ってあなたには知らせなかったけど」

 それ、ちょっと冷たくないか、と思ったがたしかに仕事中に知らされても俺に何ができるわけでもない。こういう妻の冷静さは、俺は評価している。

「マンションの周りは探したのか? リリはドア開けた隙にスルッと出てくことよくあるだろ」

「何回も探したわ。エレベーターも中庭の植え込みも。他の階の廊下もみんな見た。よそのおうちに入ってないかと思って、管理人さんに頼んで『飼い猫を探してます』って張り紙もエントランスに貼ってもらった」

「……俺、近くの公園行ってこようか?」

「それは彰が行ってるわ。あそこは時々猫の集会あるからしばらく見張ってるって」

 家出したリリを、一番熱心に探し回ったのは高校生の息子の彰だった。けれど彰もその日は意気消沈して帰ってきた。猫集会はあったようで、どこから来たのか首輪をしている猫もけっこういたが、その中にリリの姿はなかったと言った。


 ちょうど翌日から週末で、俺たちは手分けをして近所を探し回った。疲れるが、家にいてよくない想像をするよりマシだ。世の中には小さい命を残酷に扱う者がいる。さらわれて手足を切られたりした猫の画像をいくつも見た。そうでなくても、車に轢かれて回収される(ゴミとして処分されるのだ)、カラスに突かれて怪我をしてさまよう等々、もう、ろくでもない現実はいっぱいあるのだ。

 二日間、マンション中のお宅に声をかけたし、近くにある公園はすべて行ってみた。しかしリリは見つからない。手詰まりになった我々は猫探偵にも依頼してみた。調査期間三日でかなりの額を取られたが、大量に「猫探してます」のチラシをポスティングしても情報はなく、リリは見つからなかった。



 飼い猫が失踪しても日々は続く。俺は変わらず仕事を終えて電車に乗り、コンビニに寄る。そしてある日マンションのドアを開けると、以前は出迎えてくれたリリの代わりに難しい顔した息子がいた。

「アンタ、タバコ臭いな」

 俺のほうを向いて、ぶっきらぼうに言う。

「アンタがタバコ吸うから、リリは嫌がって出てったんだ」

「なんだと」

「一時は止めたのに、なんでまた吸ってるんだよ? 家族の迷惑考えないのか。猫の嗅覚は人間の数十万倍なんだぞ」


 俺が家でタバコが吸えないのは、小宮山一朗Bと俺が内心で呼んでいる男のせいである(この場合、小宮山一朗Aは俺)。

 俺はあるとき、多次元宇宙の中で隣の次元に行ってしまったらしい。なぜそうなったかは俺にもわからない。ある日開けたマンションの扉は、小宮山B家の扉だったのだ、としか言いようがない。

 そして外見的には俺そっくりの小宮山一朗Bが一時的に俺と入れ替わったことで、その時の〝俺〟は禁煙していたことになっている。だから奇跡的にあちらの世界から戻って来た俺は〝せっかくの禁煙を止めた俺〟になってしまい、事情を知らない家族と猫の批判を浴びることになったのだ。まあしかし、それはそれだ。


「俺は大人だ」

「だから何だよ」


 今となっては息子の方が背が高い。上から俺に向けて凄んでくる。だが、負けてなるものか。リリがいない寂しさの腹いせに親に絡んでくるなんて、まだまだ子どものすることだ。


「納税者で、家族を養うために働いてる。そのストレス解消にタバコを吸ってる。それの何が悪い」

「だけどリリは出てった。アンタのせいだ」


 息子がそう言いながら俺の顔にパンチを浴びせた。無論、ケンカ慣れしてないヘロヘロパンチだから大したことはないが、多少のためらいがあったのか、慣れないことをしたせいなのか、微妙にコースがずれて鼻に当たった。俺の鼻から液体が出る感覚があり、拭うと赤かった。それを見て怯む息子の頬にすかさず俺はビンタを張った。痛みに熱くなった息子が覆い被さってきて、二人して倒れ、もみ合いになった。互いに相手を組み敷こうとゴロゴロ転がっていると物音を聞いた妻が飛んできて、「何してんの! 止めて!」と息子を俺から引き剥がそうとした。

 そのとき、振り払うつもりの息子の手が彼女の腹に当たり、妻は尻餅をついた。それを見た息子は驚いて俺から離れるとバタン! と音を立てて自室に籠もった。

 妻は「いったい、どうしてこんなことになったの?」と言って泣きながら、俺の鼻血を拭いてくれた。

「さあな」と俺は言った。

「スーツを買い換える時期なのはわかったけどな」

 俺のスーツは肩の部分がほつれ、膝に穴が空いていた。アイツもずいぶん力が強くなったもんだ、と妙な感心をした。



 リリが家出して三か月ほど経った頃。

 温暖化のせいかいつまでも暑かった街に急に寒気がやって来た。通り過ぎる冷たい風が、新しく買ったスーツだけでは足りない、そろそろコートのいる時期だと俺に警告してくる。

 息子と揉めて以来、俺はタバコを吸い続けるのが馬鹿馬鹿しくなって、仕事帰りにコンビニに寄るのも止めてしまった。まあ元からタバコに課せられる重税にはうんざりしていた。たとえ私生活でも節約を心がけるのが総務課長たるものじゃないか、と自分を励ましつつも侘しかった。重たい足取りでエレベーターを四階で降り、ささやかな区切りに囲われた自室のドアを開ける。

 すると、奥から白い毛玉が現れて、俺の足元にまとわりついた。

 あっけにとられた俺はしばらくそのまま立っていたが、やがて仕事用のカバンを放り出してその柔らかい塊を抱き上げた。

「リリ…」

 にゃあん、と甘えるような声を出し、青い瞳が俺を見て、頬をチョロッと舐めてくれる。

 リリを抱っこしたままリビングのドアを開けると、妻と息子が「リリが帰ってきたの、どっかで子どもを産んだみたい」「マンションの入口でこの子を連れてたんだ」とうれしそうに言い、息子が抱いている子猫を見せてくれた。


 息子の手の中にいるのは黄色い瞳の黒猫だった。やんちゃそうで、骨格がしっかりしていて足が太い。将来はかなり大きくなりそうだ。そう、小宮山一朗B家の飼い猫・黒猫タクトのように。そういえばタクトは俺があちらにいたとき、俺のズボンの裾に付いたリリの匂いを熱心に嗅いでいたっけ。

 もしタクトがリリに出会ったら、恋をすることもあるんだろうか。

 俺は、うちと全く同じ間取りの小宮山B家に住むゆるいカール髪の奥さんと元気な娘さんを思い出し、そこに迷い込んだリリが子どもを産むところを妄想した。

 俺に抱っこされたリリは産後の疲れも見せず、毛並みはツヤツヤしている。誰かの献身的な世話を受けずに、三か月もこんなに元気でいられるものだろうか。

 いや、まさかな、と思いながら、しかし俺は黒い子猫を「タクト」と名付けた。



 了

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猫転送装置 〜扉を開けたら見知らぬ家族がいた話1〜 天鳥カナン @kanannamatori

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