星影ふたつ
紫紺の帷が降りた夜空。まばらに輝く星々の中、一際強い光を放つ一等星が浮かぶ。
虎道はその星に右手を翳した。しかし、その輝きは指の隙間から除くだけで触れることさえ叶わない。
「星に手が届かないのは、恥ずかしいことじゃないんだって」
彼の隣にいた少女━━卯衣が口を開く。虎道が視線を向ける前には、卯衣はその目を捉えていた。
子供に童話を読み聞かせるよう、柔らかく彼女の声が響く。
「でもね、目指す星がないのは寂しいことなんだって」
ここでいう星とは、きっと夢や目標のことなのだろう。
彼女は虎道の瞳を見つめたまま、微笑みながら続けた。
「おばあちゃんの受け売りだけど、ってよく言ってたよ」
「俺が、か?」
「うん。元はアメリカの学者さんの言葉らしいけど。だから受け売りの、受け売りの、受け売りかな?」
「遠いな」
「遠いねぇ」
そんなことを言って、おかしそうに卯衣が笑う。
おさげに結ばれた髪が夜風に揺れながら光を反射し、どこか懐かしさを感じさせる。その髪型が、彼女らしい控えめで優しい性格をそのまま表しているように思えた。
彼女の整った容姿は否応なく目を引く。日中の喧騒の中で、すれ違う人々が思わず振り返るのも無理はないだろう。
この春休みを終えると虎道と卯衣は中学三年生になる。男子の平均より身長が高い虎道に比べると、女子の平均身長ほどの卯衣はだいぶ背が低い。顔立ちもまだあどけない幼さの残るものではあるが、近い将来、確実に美しい女性へと成長するだろう。
彼女の纏う柔らかな雰囲気と相まって、私服姿だと年齢より大人びた印象を与える。
けれど、と虎道は思う。月明かりを受けて輝く髪も、透き通るような肌も、夜空に浮かぶ星々と調和していた。それは、静寂の中で際立つ美しさのように思えてならない。
そんな美しい少女の、星の欠片を閉じ込めたような輝きを宿した大きな瞳は、常に虎道の姿を映しているようだった。
小さなブランコに二人並んで腰を下ろしている。人一人いなくなるような時間帯ではまだないはずだが。この寂れた公園にも、家を出てここに来るまでの道のりにも、自分たち以外の人影はなかった。
夜の静けさが耳を満たし、ブランコのチェーンが軋む音だけがやけに大きく響いている。
「世界にふたりだけしかいないみたい」
卯衣の声が静寂を切り裂くように響いた。その言葉に、虎道は微かに息を呑む。
同じことを考えていた。
浮世から隔離された場所に、自分たち二人だけが閉じ込められてしまったかのような不思議な感覚。
ふいに、ぶらりと下がった虎道の右手に、卯衣が静かに左手を重ねた。その手は冷たく、それでも指先が触れ合うたびに、じんわりと熱が広がっていく。
「まだまだ寒いねぇ」
卯衣は困ったように、けれどどこかうれしそうに笑う。その笑顔は春の夜には似つかわしくないほど眩しい。
虎道は短く息を吐き、躊躇いがちに彼女の手を握り返した。
柔らかく、そして温かかい少女の手のひら。記憶のものより成長して尚、虎道より随分と小さい。
締め付けらるような胸の苦しみは果たして、本当はあるはずのないまぼろしなのだろうか。
まるで夢を見ているようだった。
今この瞬間だけのことではない。
あの病室で目を覚ましてから。
あるいはその前から、ずっと。
抗うことの出来ない、甘い夢を見続けている。
「どうしたの、お兄ちゃん?」
━━それでも、夢ならいつか覚めるだろう。
妹の問いかけに一瞬言葉を探すが、「なんでもない」と短く吐き捨てる。
「帰ろうか。あまり遅くなると
そう言いながら、虎道は無意識に首元へ手を伸ばした。
革紐の感触が指先に触れる。それは、退院するときに卯衣から渡された手作りのお守りだった。指先で革の小袋を軽くなぞる。
『お兄ちゃんがいつも無事でいてくれますように』
お守りを虎道の首にかけ、卯衣が微笑んだ時の記憶が、風に揺れる桜のように淡く蘇る。
虎道が一瞬、紐を掴む手を強く握ると、卯衣が「うん」と頷いた。
その顔がほんの少し残念そうに映ったのは、きっと都合のいい解釈なのだろう。
☆
春休みを迎えたばかりの日、
奇跡的に目立った外傷こそなかったが、頭の打ち所が悪かったようで日常の記憶を失ってしまった。
自分のこと。
友人のこと。
家族のことも、そのほとんどを忘れてしまっていた。
けれど、その中でたったひとつ忘れることの出来なかったものがあった。
病室で目覚めると、自分の家族だという人たちの姿があった。
母親らしき人物と、それに四人の女の子。二人は中学生で、もう二人はまだ小学生にも満たないほど幼い。聞くとその全員が自分の妹で━━その少し後になってわかるのだが、その全員が自分とは血が繋がっていなかった。
その場にいた家族のことを聞いたとき、自分の胸に燻りのようなものがあるのを感じた。だが、その正体はすぐにはわからない。
検査を受けた後、妹のひとりである灯未が『お姉、もうすぐ来るって』と伝えてくれる。
『お姉? 俺には姉もいるのか?』
『ううん。兄ちゃんにとっては同い年だけど、私たちと同じ義理の妹。誕生日、一日しか違わないんだって。今ここにはいないけどさ、兄ちゃんが入院してからほとんどつきっきりでここにいたんだよ。だからちょっと家で休ませてたんだ』
ほどなくして病室の扉が開かれる。
そこにいたのは父親らしき男性と、泣き腫らした顔の女の子だった。
『お兄ちゃん!』
泣き顔の彼女を見て、その声を聞いた刹那━━
眠っていた間、幼い頃の夢を見ていたことを思い出していた。
与えられたおやつを“はんぶんこ”したこと。
桜の舞う景色を手を繋いで歩いたこと。
そして雨が降り続く中、彼女と出会ったあの日のことを。
☆
アスファルトで舗装された道が、街灯の控えめな光の下で鈍く反射している。
近くの建物はほとんどの窓が暗く、たまに漏れる明かりも柔らかいカーテン越しに淡い影を作っていた。どこからか犬の鳴き声がかすかに聞こえ、その短い音が夜の空気に溶け込んでいく。
卯衣が「えへへ」と、くすぐったそうな表情をする。
そんな彼女を見て、虎道は「……何だよ」と訝しむ。
「みんなには悪いけどさ。お兄ちゃんがわたしのこと、憶えててくれてうれしかったな」
「いつまでその話するんだ」
「ふたりっきりのときはずっとするよ」
冬の名残のある空気が一層冷たく感じられるよう。
虎道は自分の耳が熱くなっているのを悟るのだった。
『星を見に行ってくる』
外出する前、虎道はリビングでテレビを観ていた三人の妹たちにそう声をかけた。
言った直後、自分で少し気取った台詞だったのではないかと後悔する。
けれど、彼女たちは特に気にする様子もなく、絵馬は『気をつけてね』と明るく笑い、灯未も『いってらっしゃい』と淡々と送り出してくれた。
『わたしも準備するね。ちょっと待っててもらえるかな』
卯衣がそう言いながら手を拭き、軽やかにエプロンを外すと、虎道のそばを通り抜けて部屋を出ていった。
そうして、当たり前のように卯衣は虎道の隣にいた。
彼女がそこにいるのがあまりにも自然で、むしろそうでなければ落ち着かないような気さえするほどだった。
「……俺なんかとばかり一緒にいないで彼氏でも作れ。お前ならひとりやふたりぐらいすぐに出来るだろ」
「ふたりいてもいいの?」
「言葉の綾だからな?」
「わかってますよ。でも、いいかな。わたしにはお兄ちゃんがいれば、それで」
「…………」
頬を撫でる風がどこか少し湿っぽい。夜桜の香りに混じって、今は降ってないはずの春の雨の匂いが届いた。
虎道が答えに詰まる間、桜の花びらがふわりと舞い降りてくる。
ほとんど無意識だった。虎道がポケットに手を伸ばすと、小型のデジタルカメラが指先に触れる。
「ストップ」
「うん?」
「いいから」
突然の言葉に卯衣は目を丸くしながら、言われた通り立ち止まる。
カメラの電源を入れる。レンズが音を立てて開くと、無言でカメラを卯衣の方へ構える。
胸の奥に小さな棘が引っかかったような感覚。
━━そうだ。いつも自分はこうやって彼女を━━。
ファインダー越しの彼女と視線がぶつかると、指が自然にシャッターボタンを押していた。
「何撮ってるんですかぁ……」
卯衣が大袈裟に頬を膨らませながら文句を言う。
不満げとも、楽しそうとも取れるような声色で。
「わたし以外の人を、断りもなく撮影しちゃダメだよ」
人差し指を突き出しながら、わざとらしく怒っている風にそんなことを言ってくる。
虎道はその仕草に一瞬目を細め、軽く肩をすくめた。
「卯衣はいいのか?」
「卯衣はいいのです」
その即答に、虎道は思わず吹き出してしまう。普段なら言わないであろう軽口が自然と口をついて出てくる。
「
「いくら気心知れた幼馴染でもダメ。親しき仲にも礼儀あり、だよ。というか、りゅーくんはともかく、みーちゃん絶対怒るよ」
友人らを代表してと見舞いに来てくれた二人の名前を出してみたがバッサリ。
「絵馬や灯未も?
「たとえ妹でも。わたし以外やったら勝手にやったらダメなのです」
「なら、卯衣以外にはしない」
虎道の言葉に、卯衣は「ふふ」と笑いながら満足そうに頷く。
そのやり取りがどこか軽やかで、それでいて特別なものだと虎道自身も薄々感じていた。
「じゃあ、いいよ」
卯衣が微笑みながら、カメラを覗き込むような仕草をする。
「いい写真、撮れましたか?」
「ああ。被写体がいいからな」
「あらあら」
画面には、舞い散る花びらと、星空を背にした卯衣の姿がある。
彼女の表情は微笑みの途中で途切れたような曖昧さを湛え、瞳に宿していたはずの虎道の姿など確認出来るはずもなく、ただ夜の静けさだけを映しているようだった。
夜桜の薄紅が頬に淡く溶け込み、遥か彼方に浮かぶ星空の光が彼女が消えてしまわないように照らし出しているようだった。その姿は現実と夢の狭間に揺れているように見えた。
その一瞬の美しさには、形容しがたい不確かさがありながらも、なぜか強く心を惹きつけるものがあった。
街路樹に咲く桜が花びらを惜しげもなく風に託すたび、隣の少女の存在感が強く、大きくなる。
手の中に残る卯衣の温かさが、先ほど撮った写真と、在りし日の記憶とそっと重なるようだった。
どこまでも広がる夜空には、星々が寄り添うように輝き続けている。
その光を自分たちだけのものだと思いたくなるほど、静かで穏やかな時間が流れていた。
帰路につく間、二人の手はずっと繋がれたままだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます