第72話 客船の幽霊(前編)
1.
魔術倶楽部でチェスを指していた橘と河村に声を掛けてきたのは、橘の学習院時代の同期・真木だった。
「義父の件では世話になったな」
真木は二人に頭を下げてから、隣に腰を下ろした。
「俺に声を掛けてくるってことは、また困りごとか?」
橘がチェスの手を止め、真木の方を向いた。盤面は河村の勝ち寸前である。
「ちょっと、橘さん……」
憮然とする河村をよそに、橘は真木との会話を続けた。
「実は、知り合いの海運業者が豪華客船を建造したんだが、処女航海で妙な噂が立ってね」
そこまで話したとき、倶楽部の扉が開き、帝国教授の伊達が入ってきた。外は小雨らしく、外套には水滴が付いている。
「妙な噂か。続けてくれ」
興味を引く話に、橘は伊達を無視して身を乗り出した。
「夜中に首のない美女の幽霊が出るって話だ。目撃者も何人もいる」
「首がないのに、どうして美人だと分かるんだ」
伊達が外套をハンガーに掛けながら、呆れたように言った。
「確かに、おかしな話ですね。船の人気を落とすための作り事かもしれません」
河村の言葉に、橘は顔をしかめた。
「うわ、リアリストは嫌だねぇ。豪華客船に美女の幽霊なんて、これ以上ないくらいの浪漫だ。頼まれなくても行くレベルだよ、河村くん」
伊達がチェス盤を覗き込み、小さくつぶやく。
「――d5のクイーン」
その一言に橘の目が見開かれる。
「……おお、そうか!」
橘は慌てて駒を握り直し、追い詰められていた局面を切り返す。
「ちょ、伊達さん! それ反則ですよ!」
河村が抗議するが、伊達はしれっと椅子に腰掛けた。
「はい、河村の負け。豪華客船二泊の旅に付き合うこと」
「……そんな約束していませんが」
河村はため息をつき、恨めしげに伊達を見やった。
「伊達さんのせいですからね。責任取って、付き合ってもらいますよ」
――かくして三人は、週末を使って横浜湾をめぐる小航海に出かけ、幽霊探しを引き受けることになった。
2.
金曜日の夜、三人は横浜の埠頭にある待合室にいた。
「部屋は……内側の三人部屋か。渋いな」
橘が部屋割り表を見てつぶやいた。
「海が見える部屋にしろとは言わんが、せっかくいい出会いがあっても、これじゃ花が咲かん」
伊達と河村は橘の軽口を聞き流し、黙々と資料に目を通している。
「野村海運。江戸時代から続く老舗ですね」 「さすが河村、詳しいな」
海軍の軍医である河村の言葉に、伊達が感心したように頷いた。
「おい、無視せずに俺も混ぜろよ」
橘が拗ねた口調で割り込む。
「横須賀で造られた新造船……。中古船ならともかく、そこに女性の幽霊ですか」
河村はあやしいなといった顔で頭を軽くかいた。
「資料によれば、幽霊が出るのは真夜中のダンスホール付近。赤いドレスの女だそうだ」
伊達が船内図のダンスホールに万年筆で丸をつける。
「美女なんだろ? 楽しみだな」
弾んだ調子で言う橘に、二人は同時にため息をついた。
その時、係員が乗船開始を告げた。待合室にいた人々は、それぞれ荷物を手に乗船口へと向かっていく。すでに上等客室の乗客は先に乗り込んでおり、三人は後から続く形となった。
船は十八時に港を離れ、二日後の日曜の昼過ぎに横浜へ戻る予定だ。寄港地はなく、ただ相模灘をめぐるだけの短い航海である。
タラップを上がると、ロビーには小ぶりなシャンデリアが輝き、漆塗りの机の上には品よく生け花が飾られていた。
係員が順に部屋へ案内しており、待つあいだ周囲を見渡すと、日本人に混じって西洋人の姿も見える。
今年の流行りなのか、赤いドレスに身を包んだ女性の姿も少なくなかった。
「これでは生者か死者か、実にややこしい」 河村の独り言に、橘がすかさず言葉を返す。
「医者だろ? それくらい見分けろよ」
河村が何か言いかけたとき、係員が三人に声をかけてきた。
「話の続きは部屋に入ってからにしろ」
伊達にそう言われ、河村と橘は黙って荷物をカートに載せた。
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