第37話 毒(中編)

3.
 

 瀋陽は冬の寒さが街を包み込み、雪と氷があらゆるものを覆い尽くしていた。


 秋田県鹿角生まれの河村にとっては、久しぶりに感じる「冬らしい冬」だったが、瀬戸内育ちの二階堂にとっては地獄のような寒さだった。

「部屋から一歩も出たくない……。」

 
肩をすくめて震える二階堂を横目に、河村は白い息を吐きながら淡々と手術室へと向かう。


 赴任から3ヶ月、河村はすでに鈴村大尉と気の置けない間柄になっていた。互いに無駄な会話は少ないが、切断術を手際よく進める鈴村と、精密な手術を得意とする河村は、いつしか自然と息を合わせるようになっていた。


 医務局の責任者である佐々木中佐とも表面上は良好な関係を築き、外科の仕事を回す上では問題ない程度の信頼を得ていた。


 一方、二階堂も着実にその場に馴染みつつあった。手術の補助として器具出しのタイミングはイマイチであるものの、モルヒネを用いた疼痛管理の手腕は見事であり、さらに結核検診では中心となって動いていた。


「まだまだギプスは下手だな……。」

 ある日、二階堂の石膏固定を眺めながら鈴村がぼそりとつぶやく。

「す、すみません……」

「まぁいい、追加の石膏を練ってくれ。」

 二階堂は肩を落として石膏を練り直した。


 その日の午後、鈴村が何気なく言った。

「そういえば、もうすぐ旧正月だな。」

 その言葉を聞き、佐々木が軽くため息をついた。

「……参謀長主催の飲み会、今年もあるようだ。」

 

 春節が近づくと、市場には珍しい食材が出回る。この機会を楽しみにしている者も多いが、渡邊少将は特にその傾向が強く、毎年のように佐官以上を集めて宴会を開いていた。


「酒が好きなのは結構だが、俺はあまり得意じゃない……。」

 佐々木は渋い顔をしていたが、ふと何かを思いついたように河村を見た。

「まてよ……河村、お前少佐だったな?医者が全員酒を飲んでしまったら、緊急時に対応できる者がいなくなる。よし、俺が待機するから、お前が楽しんでこい。」


 河村は僅かに顔をしかめた。情報収集の機会とはいえ、陸軍の宴席に海軍の軍医が一人放り込まれるのは気が重い。そんな彼の様子を察したのか、二階堂が口を開いた。


「……へ、部屋に広島の酒があります。差し入れしてはどうでしょう?西条の甘めの濁り酒です。」


4.

 旧正月の夜、河村は二階堂から預かった西条の酒を持参し、渡邊少将主催の宴席へと赴いた。

 

 満州における陸軍勢力拡大の急先鋒である渡邊少将の周囲には、彼に追従する参謀や若い将校たちが集まり、威勢のいい声が響いていた。


 末席に座った河村は、黙って杯を傾けながら周囲を観察した。時折、海軍を揶揄する声が聞こえてきたが、それ以上の情報は得られなかった。


「これ、もらっていくぞ?」

 誰かが河村の持ち込んだ西条の酒に手を伸ばした。

「どうぞ。」

 静かにそう返すと、河村はまた杯を傾けた。

 宴がたけなわとなり、そろそろ潮時かと河村が立ち上がろうとしたその瞬間――


「ぐっ……!」

 

 渡邊少将が胸を押さえ、苦悶の表情を浮かべながら椅子から崩れ落ちた。


「少将!」

 

 場が一瞬にして静まり返る。周囲の者が駆け寄る中、河村も走り即座に渡邊の脈を取った。

 ――除脈。
明らかに脈が遅くなっている。


「すぐに佐々木中佐を呼んでください!」

 河村が大声で指示を出すと、兵が駆け出した。渡邊少将は嘔吐しながら激しい頭痛を訴えている。状況から察するに、単なる酒の飲み過ぎではない。


毒――もしくは強い薬物が作用している可能性があった。


 間もなく、佐々木が駆けつけ、渡邊は担架に乗せられて運ばれていった。河村も医務室へ向かおうとしたが、その背に冷たい視線が突き刺さった。


――酒瓶が、渡邊の席に残っている。河村が持ち込んだ西条の酒だ。

 

 誰かが、その瓶を指さした。言葉はないが、疑惑の空気がその場を支配していた。

 

 河村は無言で酒瓶を掴むと、一気に残りの酒を飲み干した。

「……何か言いたいことがありますか?」

 そう言い残し、河村は医務室へと向かった。



5.

 治療の甲斐もなく、渡邊少将は明け方に息を引き取った。
河村は、昨夜の酒がまだ残っているのか、頭の奥が鈍く痛んだ。日本酒を一気に飲んだせいか、それとも毒殺の疑いをかけられたせいか。どちらにせよ、気分は最悪だった。


「少し休め。」

 佐々木が静かに言う。

「いえ、証拠は時間とともに消えていきますから。」


 河村は顔を上げ、冷えた空気を吸い込んだ。今、無理にでも動かなければ、疑惑の渦に飲み込まれてしまう。


「一緒に検視をしましょう。」

 二人は渡邊の遺体を調べ始めた。医療用の灯りが、青白い顔を浮かび上がらせる。その皮膚に触れた瞬間、違和感が走った。

「……異常に剥離しているな。」

 

 指を滑らせると、まるで日焼け後のように皮膚がめくれた。だが、この寒さの中でそんなことが起こるはずがない。


6.

「昨晩の食材一覧を見せていただけますか?」

 佐々木が部下に指示を飛ばし、すぐに手書きのリストが持ち込まれる。


 筋子や数の子のほか、見慣れない珍味が並んでいる。高梁酒にカブトムシの幼虫、そしてアザラシ。

 

「だいたい分かりました。」

 河村は佐々木に向かって静かに言った。

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