第30話 仮面
1.
帝大教授の伊達政弘が東京魔術倶楽部の重厚な扉を押し開けると、中から賑やかな声が漏れ出した。部屋の中では会員たちがテーブルを囲んで熱心に何かを解いている様子だった。
田中が、伊達の姿に気づくやいなや近寄ってきた。
「先生も挑戦しませんか?」
そう言うと、田中は伊達に一枚の紙を差し出した。紙にはいくつかの枠が描かれており、その中には数字がちらほらと書き込まれている。
「縦、横、斜め、いずれの列も足した数が同じになるよう数字を入れるパズルです。」
伊達は田中の説明を聞きながら紙を手に取り、内容を一瞥した。そして短く「魔法陣か」つぶやき、上着のポケットから万年筆を取り出した。彼は黙って椅子に腰を下ろすと、さらさらと紙に書き込み始める。部屋のざわめきの中、伊達の手元だけが静謐な空間を作り出しているようだった。
しばらくすると、伊達は「できたぞ。」と短く言い、紙を田中に返した。田中は感嘆の声を上げながら紙を受け取り支配人に手渡した。
「伊達先生の回答です。」
支配人は紙を受け取り、慎重に検算を始める。やがて、支配人が顔を上げて言った。
「正解です。さすがですね、伊達先生。それでは一等賞として、久我様主催のパーティーへの招待状をお渡しいたします。」
その言葉に場が一気に沸き、拍手が鳴り響く。その中で奥の席に座る一人の紳士が、ゆったりと手を打つ姿が目に入った。久我公爵だ。滅多に姿を見せない彼が、自ら拍手を送っている。
「招待状はペアです。パートナーは女性でなくても構いませんよ。」
久我公爵は品のある微笑みを浮かべ、視線を伊達に向けた。
その瞬間、伊達は心の中で舌打ちした。「知っていたら解かなかったのに……」そう思いながらも、彼は礼儀正しく頭を下げた。
2.
伊達は橘に声をかけ、パーティーに同行してくれないかと頼んだ。
「悪い、その日は法事だわ。」
橘は気まずい様子です断った。
仕方なく次の候補を考えようとしたところで、視線の先に河村の姿が入った。伊達と目が合った河村は、少し興味ありげな表情を浮かべていた。その顔に気づいた伊達は、短く声をかけた。
「行くか?」
河村は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに控えめな笑みを浮かべた。
「自分で良いんですか?」
「他にいないからな。」
「では、お供させていただきます。」
河村は軽く頷いて答えた。
3.
久我家でのパーティー当日。公爵が主催するこの夜会は、都内でも名高い一夜限りの社交場だ。会場は古風ながらも品格を感じさせる装飾で彩られ、重厚なシャンデリアが優雅に輝いている。
入り口で渡された仮面を顔につけながら、伊達は自分の名が目立つ招待客名簿に載ったことを少しばかり後悔していた。
「今日はどうぞ気軽に楽しんでくれたまえ。」
迎賓に立つ久我公爵が上機嫌にそう声をかけると、伊達は丁寧にお辞儀を返した。参加者たちは仮面を装着しているなで、周囲の顔はほとんど誰だかわからない。
相棒として誘った河村とともに会場に足を踏み入れると、二人の背筋が自然と伸びる。伊達の姿勢の良さと洗練された雰囲気は、仮面をしていても際立っていた。
「仮面をつけていると、誰が誰だかさっぱりですねぇ。」
水の入ったグラスを手にした河村が、辺りを見回す。
「そうだな。」
伊達は控えめに応じると、壁際に移動し、黙ってワインのグラスを揺らした。ワインの深い香りを感じながら一口飲み、上質な味わいに小さく頷く。だが彼の表情はどこか硬く、社交の場を楽しむというよりは観察しているように見えた。
「少し歩いてきます。」
そう言い残して人混みに消える河村。伊達は再び一人となり、壁際の影に紛れるように静かに立っていた。パーティーの賑やかなざわめきの中で、仮面越しに時折視線を感じるものの、近づいて話しかける者はいなかった。
4.
そんな時だった。会場の向こう側から歩み寄ってくる黒いロングシフォンドレスの女性がいた。光の当たるたびに銀の刺繍がきらめき、ふわりと揺れるシフォンのレイヤードが彼女の優雅さを際立たせている。顔にかけた銀色の仮面から覗く深い瞳が、真っ直ぐに伊達を見つめていた。
「お待ちしておりました。」
仮面の下から微かに響く柔らかな声に、伊達は一瞬だけ動揺した。「講義室の女性だ…」だが、それを悟られまいと、すぐに表情を整える。そして差し出された彼女の手をとり、低く頭を下げた。
「喜んでお相手いたしましょう。」
ホールでは緩やかなワルツが流れていた。伊達は自然なリードでステップを踏みながら、目の前の女性を注意深く観察していた。あの講義室で感じた、どこか底知れない知性と好奇心。それがこの仮面越しの瞳からも確かに感じられる。
「なぜ“酸欠”と?」
踊りながら小声で問いかける伊達に、彼女は視線を外さずに
「予言ですわ。」
と言い、しばらく置いてから
「…と言ったら信じます?」
と続け面白そうに微笑んだ。
軽やかにワルツのステップを踏みながら
「倶楽部で儀式の手順書を偶然見たんです。あんな狭い部屋に人数入って火を使ったら、酸欠になるでしょ?ただそれだけ。一応それと無くは止めたのよ。」
シフォンドレスの女が答える。
「なぜ私に手紙を?」
伊達が訝しげに聞く。
「それは運命だから………なんて嘘よ。解決できそうな方を選んだだけ。貴方が居なかったら他の方に渡すようにお願いしておいたの。例えば――」
そう言って彼女は視線を会場の一角に向けた。そこには、観察するように周囲を見渡している河村の姿があった。
「怖い人だ。」
伊達が小さくそうつぶやくと、彼女は再び微笑みを浮かべた。
しばらく無言のまま踊り続けたあと、曲が変わるタイミングで彼女が口を開いた。
「貴方は呪いを信じる?」
突然の問いに、伊達は一瞬考える素振りを見せた。
「以前は全く信じていなかった。だが今は――分からない。」
その答えに、彼女は愉快そうに笑った。
「呪詛行為は不能犯なの。そりゃ、庭に入ったりしたら建築物侵入罪とか他の罪に問われますけど、藁人形では人は殺せません。未遂にもならないわ。」
伊達はその理路整然とした説明に、思わず目を細めた。
「このまま大学に進むのですか?」
「ええ。法学部に。」
彼女の声には揺るぎない決意が込められていた。
「素晴らしい選択だ。」
そう答えた伊達に、彼女は少しだけ目を細めて微笑んだ。
「ありがとう。私は学ぶことで、古い慣習から逃れたいの。」
曲が終わり、ホールに拍手が湧き起こる。彼女は優雅に一礼し、仮面越しに伊達を見つめた。
「また会いしましょう。」
あの日のホテルと同じ口調でそう告げると、彼女はふわりとシフォンドレスを揺らして会場の奥へと姿を消していった。
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