第3話 水曜日の幽霊

1.

 未亡人、八木沢和子の住居は高級住宅街に構える瀟洒しょうしゃな邸宅だった。和子はかつて夫と共に華やかな社交界を賑わせた名士で、配偶者の死後もその財産を守りつつ、慈善活動に勤しみ、気丈に日々を送っていた。


 しかし二年前、和子にとって心の支えだった一人娘、美由紀が、若くして肺病に倒れた。美由紀は、母の腕に抱かれながら静かに息を引き取った。以来、和子は広すぎる家を一人で管理し、娘の思い出と共に、静かに生きてきた。


 そんな和子のもとに“幽霊”が現れるようになったのは、半年前のこと。
それも、決まって水曜日の夜だ。


「水曜日は、美由紀が亡くなった“忌まわしい曜日”なのです」

 和子は目頭をおさえながら言った。その日が来ると和子は娘の気配を強く感じた。冷気が部屋を満たし、ときおり、美由紀がそこに“立っている”こともあったという。


 幽霊は何も言わず、ただたたずむ。だが、その姿は紛れもなく、生前の美由紀そのもの。和子がまばたきをすると、その姿はふっと消えてしまう。


「娘が、何かを訴えているのではないか……。この世に未練があるのではないかと、心配なのです。」

 そう語る和子の声には、母としての深い愛情と、説明のつかぬ恐れが同居していた。


 橘は、応接室で和子の話をじっと話を聞きながら思案する。

「水曜日の夜に限定されているのは、何か特別な意味があるのかもしれないな」

 一方の伊達は、冷静に考えを巡らせていた。

「幽霊現象は多くの場合、光の屈折や幻覚、あるいは心理的要因によって説明がつく……」


 二人は、和子の案内で“幽霊が現れる”という部屋へ向かった。

 そこは、美由紀が生前もっとも愛した場所だった。彼女が描いた絵画や愛読書は、当時のまま丁寧に保存され、部屋全体が静謐せいひつな空気に包まれていた。まるで時間だけがそっと止まっているかのように。


「この部屋で、美由紀さんは何をしていたのですか?」

「絵を描いたり、詩を書いたりしていました。美由紀は芸術が好きで、特に水曜日の夜は、女学校時代の友人たちと創作を楽しんでいたのです。」


 伊達の問いに、和子は懐かしむような口調で答えた。机の上には、袴姿で笑う美由紀と仲間たちの写真が飾られていた。

 橘は部屋の中をゆっくりと見回しながら言った。

「水曜日の夜……。彼女にとって、創作や友情の記憶が深く刻まれた時間だったのかもしれないな。もしかすると、約束を果たせなかった友人がいるとか、未完成の作品が残されているとか……」

 対称的に、伊達は科学的な調査の準備を始めていた。

「まずは、この部屋の物理的条件を確認しよう。温度、湿度、光……。異常があれば、それが何らかの“現象”を引き起こしている可能性があります」


 彼はそう言うと、温度計と湿度計を手に取り、部屋の四隅に設置した。東京魔術倶楽部の協力を得て、最新式のワイヤーレコーダーと小型録画装置も搬入され、記録と観測の準備は、着々と整えられていった。


2.

 橘と伊達は、水曜日の夜ごとに、幽霊の出現を観察すべく、美由紀の部屋で夜を過ごした。


 驚くことに、夕方から夜になると温度計の針が静かに下がり始める。空気が肌に触れるたびに冷たさを増し、部屋の空気がどこか張り詰めたように変わっていく。だが美由紀は現れない。

 しかし、ついに、ある夜、予兆は現れた。いつもの冷気。しかし、刺さるように冷たい。


「これは来るぞ……」

 橘が小さくつぶやいたそのとき、ふと空間の一角が揺れ、ぼんやりとした人影が現れた。ワンピース姿の少女――美由紀だった。



 彼女は部屋の隅に立ち、何も言わず、じっとこちらを見つめていた。

 映写機が回り、ワイヤーレコーダーが唸りを上げる中、伊達は計測機器の記録を確認した。


 冷気は幽霊の“登場”と完全に連動していた。温度は一瞬にして3度下がっていた。

「……これは確かに、科学的には説明のつかない現象だな」

 伊達は記録をじっと見つめる。やがて美由紀の姿は出てきた時とは逆に、次第にぼんやりとかすみ、やがて部屋の空気に溶けて消えた。


 伊達は急いでフィルムを外し、投影装置にセットする。壁に映し出された映像には、確かに美由紀の姿がある。

「彼女、部屋の隅を指差しているように見えないか?」

 橘が映像を止めるよう伊達に合図を送る。

 二人は慎重にその方向へと歩を進め、壁の一部にある通気口のような吹き出し口を発見した。古びた木製の格子が取り付けられている。


 橘がそれを慎重に外すと、中には冷気を帯びた仕掛けが隠されていた。
 

 氷室、鏡、天秤のような皿、そして複雑な歯車機構が組み合わされた装置だ。伊達が覗き込み、息を呑む。


 鏡の表面には、繊細なタッチで少女の肖像が彫られていた。光を反射することで像を空間に浮かび上がらせる、精密な光学トリックだ。


「……氷が落ちると、その重さで装置が作動し、鏡の角度が微妙に変化する。光の反射で彫られた像が壁に投影され、まるで実体のある幽霊のように見える……」


 伊達は仕組みを見抜き、冷静に分析を始めた。

「この装置は氷の質や量、気温にも左右される。ゆえに、毎週確実に作動するわけではない。出現が不安定だったのも納得がいく」


 橘は、鏡の縁に彫られた小さな文字を見つけた。

「大河原製作所、特注品……?」

 二人は、そこに記された住所を手がかりに、製作所を訪ねることを決めた。


3.

 その機械製作所は郊外にあった。

「この装置、依頼主の記録は残っていますか?」

 伊達が装置の図面を手にそう尋ねると、年配の職人はしばらく帳簿をめくり、やがて一冊を差し出した。

「ええ、ありますよ。依頼は、八木沢和子様。一年程前に、娘さんの姿を模した投影装置を特注されました」

 職人は、少し悲しそうに付け加えた。

「幻でもいいから、もう一度、娘に会いたい。そう言っておられました」

 その言葉を聞き、伊達と橘は、胸の奥に淡く痛むものを感じた。


 あれは『仕掛け』ではなく、『祈り』だ、と。


 邸に戻った二人を出迎えたのは、庭の片隅で何やら作業する男だった。
 

 半纏の袖をまくり、捻り鉢巻を締めたその姿は、植木職人のように見える。


「失礼、どなたですか?」

 橘が声をかけると、男はにこりともせずに答えた。

「庭師です。八木沢家に出入りしております。今日は、氷の補充に来ました」

「氷?」

「ええ。奥様に頼まれておりまして。毎週水曜日、氷を桶に詰めて、例の仕掛けに入れております」


 そう言って、男は木桶を指差した。中には削られた氷塊が静かに並んでいる。


「ただ、最近は奥様、ご自分で頼まれたことをお忘れのようで。それでも、数年分の前金をいただいておりますから、毎週欠かさず氷を運んでおります」

 庭師は、淡々とした口調で語ったが、言葉の一つ一つに、和子の深い喪失と未練が滲んでいた。伊達と橘は、ようやく全てを理解した。


 和子は、亡き娘の記憶を“水曜日の夜”に再現しようとしていた。


 氷の仕掛け、光の反射、彫られた肖像。
それらは、現実には触れられない娘との『再会』を叶えるための、母の手による魔術だった。


 けれど、装置の作動は不安定で、娘が“現れる”ときと“現れない”ときがある。
それが和子の心を揺さぶり、やがて装置を依頼した記憶すら曖昧にしてしまったのだろう。


 ――愛する者を思うがゆえに、記憶さえ封じた母の祈り。


 二人は邸に戻り、和子に真実を語るべきか、しばし言葉を発せず悩んだ。だが伊達は、静かに語り始めた。和子を部屋の隅に連れて行き格子の中の装置を見せる。


「夫人。この装置は、非常に精緻な構造を持っています。これは、あなたの愛情の深さの証です」

 橘もまた、穏やかに続けた。

「この仕掛けは、あなたの娘さんが、この家に今も寄り添っていることを示しています。娘さんの存在は、あなたの心の中に確かに生き続けています」

 和子は、少しの間、目を伏せていた。やがて、その頬を静かに涙が伝った。


「……ありがとう。未練があったのは娘ではなく、私だったのですね」

 和子の声は震えていたが、その目には、かすかな安らぎの光が宿っていた。


4.

 屋敷を後にした伊達と橘は、夜の静けさに包まれた東京の道を並んで歩いていた。


 街路樹の影が石畳に揺れ、月の光だけが、ふたりの足元をやわらかく照らしている。


「なあ、橘」
 

 伊達がふと立ち止まり、静かに口を開いた。

「あの鏡に彫られていた写真……君は、美由紀さんが“何かを指差しているように見えた”と言っていたな」

 

 橘は、しばらく考えるようにしてから頷いた。

「ああ。最初はそう見えた。でも、今思えば、実際の写真で彼女は指など差していなかった。ただ手を静かに下ろして立っているポーズだった」

「あの指差しは、光と鏡が作り出した“錯覚”だったのかもしれない。影のいたずらでな。」

  伊達は空を見上げ、月明かりに目を細めた。橘も伊達と同じように月を見上げた。

「美由紀さん自身が、母親のために、あの装置の力を借りて――“ここだよ”と、導いたのかもしれない。あの幻のような指差しは、母を救うための最後のメッセージだったんじゃないかって、ふと思うんだ」

 橘の言葉に伊達は応えなかったが、その表情はどこか柔らかかった。

 二人は再び歩き出した。靴音が、夜の舗道に小さく響く。


「真実と幻想は紙一重だ。だが、どちらにも確かに意味がある。今回の件は、そう思わせるだけの何かがあった」

 伊達の声には、かすかな余韻が滲んでいた。


 夜空に浮かぶ月は、東京の街を静かに見下ろしていた。
まるで亡き者たちの記憶を、そっと照らし出すかのように――。

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