東京魔術倶楽部 ~子爵家次男と男爵教授の怪奇譚~
馬渕まり
第1話 東京魔術倶楽部へようこそ(前編)
1.
それは、華やかな大正時代が静かに幕を下ろした頃の話である。選ばれ者たちが集う秘密の社交場で、一人の男が忽然と姿を消した。
男は財閥の御曹司であり、倶楽部の常連でもあった。男は「魅力を高めるための儀式」を行った夜に煙のように消えた。
深夜の倶楽部に悲鳴が響き、すぐに人々が駆けつけたが、部屋には誰もいなかった。残されていたのは儀式の道具と、血に染まった一条のネクタイ。
それは某高級ホテルの一角にある「東京魔術倶楽部」と呼ばれる会員制の社交場。
内部の出来事は決して外部に漏らしてはならぬという鉄則のもと、会員たちは占星術や黒魔術をも
2.
御曹司が失踪した翌日、子爵家の次男である
この日、ポーカーに興じる橘の手には、いつになく強運のカードが揃っていた。勝利を重ね、チップの小山が彼の前に積み上がる。
「所詮、
鼻で笑うと、橘はそのすべてをルーレットの『4』に置いた。
「ノワールの4。黒も死も乗り越えて勝つ」
かくしてボールはぴたりと『4』の上に止まり、場は喝采に包まれる。
ホールが大勝利に沸く中、倶楽部の幹部たちは、御曹司失踪という事態の鍵を探るため、橘の強運に目をつけた。
橘薫は華族の家に生まれたが、その重圧から逃れるかのように文学に傾倒、挙げ句の果てに大学を中退し、定職を持たず探偵まがいの暮らしをしている。
小柄で陽気な性格、人懐っこい笑顔は、自然と人を惹きつけた。やや長めの髪は風に吹かれて波打ち、流行の派手なネクタイと洒落たジャケットを身にまとう。
橘が勝利の余韻に浸る中、フロアボーイがそっと耳打ちをする。
「特別な賭け事に、ご興味はありませんか?」
視線の先には、分厚いカーテン。ビロード波打つその奥に――常に閉ざされた秘密の空間があった。そこに入るのは、選ばれし者だけ。
今宵、橘の勝利が、その扉を開かせた。
カーテンをくぐると、そこは蜜の香りに満ちた艶やかな空間。芸者たちが舞い、真紅のドレスの女が横たわり、橘を扇子で招く。
「その勝ち運、どこまで続くか……試してみたくはなくて?」
「そうだな、試してみるか」
橘は、ルーレットで得たチップを、より深く、より危険なものへと賭けた。勝負はコインの
魔術を信じぬ橘であったが、その夜ばかりは、愛欲と誘惑という名の魔法に屈した。
「橘様にお願いがございますの」
疲れ果てて膝枕で眠る橘に、紅いドレスの女はそっと囁く。
「消えた御曹司を探すために、伊達男爵をお連れくださいな」
その言葉は、呪文のように、橘の心に染み込んだ。
3.
倶楽部が次に目をつけたのは、帝国大学理学部教授であり男爵でもある、
翌日午後、橘に呼び出された伊達は、大学近くのカフェで合流し、珈琲を楽しんだ。
伊達は学生時代、橘の家庭教師をしておりその縁は十年以上続いている。
伊達は長身で、どこか古の欧州貴族を思わせる風貌の持ち主である。黒縁の眼鏡が知性を際立たせ、レンズ奥の瞳は鋭く観察する光を湛えていた。
ただ一点隙があるとすれば、整髪料で撫でつけた黒髪が、時折はねてしまう。
伊達は倶楽部に滅多に顔を出さない。珍しい葉巻と洋酒を味わう場として利用することはあるが、魔術のような非科学的なものにはまるで関心がなかった。
「二十世紀の光が差すこの時代に、魔術とは随分と滑稽な話だな」
合理主義者らしい皮肉を込めて笑う伊達に、橘は、あの夜の陶酔と喪失感を熱っぽく語った。
その熱にほだされたのか、伊達は珍しく興味を抱き、その夜、魔術倶楽部の扉を叩く。そして橘は、紅いドレスの女と再会し、今度は伊達をも誘惑の世界へと引き込んでいった。
その夜、伊達は理論では説明のつかない幻想に身を委ねた。眼鏡が鼻先に滑り落ち、伊達はゆっくりと指先で押し戻した。理性を取り戻す儀式ように。
倶楽部を去る二人の背後から、女の声が響いた。
「また、明日にお会いいたしましょう」
4.
翌朝、カフェにて再び顔を合わせた伊達と橘。伊達の表情は、かつての傲慢さは鳴りを潜め、深い思索の影が差す。
「橘、あの場所には深入りしない方がいい。あそこには、科学では説明できない“何か”がある。深入りすると、次に消えるのは我々かもしれん」
伊達も橘も黙ってコーヒーを飲み始めた。
その夜、二人は倶楽部へは出向かず銀座のビリヤード場へと足を運んだ。玉突きに興じ、夜の香りを忘れるために。
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