第24話(第一部・最終話):闇に堕ちた王女と永遠の檻
サマルティアの王子は、眠るムーンベリクの王女を腕に抱きながら、彼女の穏やかな寝顔を静かに見つめていた。その顔立ちは変わらず美しい。しかし、彼がかつて見たあの輝き――冒険の日々に彼女の瞳を彩っていた太陽のような輝きは、もうどこにもなかった。
彼は感慨深く息をついた。これが理想の結末ではないことは、最初から分かっていた。だが、現実の中で選び取れる結果としては、これが最良の形だった。
「これでいいんだ……。」
王子の呟きには、確かな決意が込められていた。満足というよりも、むしろその決断の重さを噛み締めるような響きだった。
彼女と初めて出会ったときのことを、ふと思い出す。あの頃の彼女は、無邪気で明るく、太陽のように周囲を照らす存在だった。冒険の日々、彼女の笑顔にどれだけ救われたか分からない。それは仲間として、そして一人の男性として彼にとってかけがえのない時間だった。
魔王討伐の旅を終え、彼女がムーンベリク家を再興するために動かなければならない運命を受け入れる姿を見て、王子は自らの協力を申し出た。それは彼女への想いの一端であり、彼女が笑顔を取り戻せる道を支えたいという願いだった。だが、現実は厳しかった。
ムーンベリク家を再興するためには、サマルティア家の協力が不可欠だった。政略結婚が決まり、彼女が王子の妻となったとき、彼は覚悟を決めた。自分が彼女のためにできることは、彼女を支え続けることだと信じていた。しかし、彼女が結婚当初に告げた言葉は、王子の中に深い影を落とした。
「……私は、あなたを愛することはできません。でも、モノのように扱ってください……あなたの欲を満たすだけの存在で構いません。なぜなら、私はローランシアの王子を愛してしまったから……。」
その言葉を聞いたとき、彼は何も答えることができなかった。彼女の瞳には、愛し合うことの叶わない運命を受け入れたかのような、哀しげな覚悟が宿っていた。それでも彼は信じていた。彼女を輝かせることができる日が来ると。彼の努力と時間が、彼女の心を変えてくれると。
彼は、彼女に優しく接し、必要以上に責めることもなく、彼女の笑顔を取り戻そうと努めた。結婚生活の中で、少しずつだが彼女との距離が縮まり、わずかに心を開いてくれているように感じる瞬間もあった。
しかし、それが完全に打ち砕かれたのは、結婚して半年後のことだった。ローランシアの王子と再会したとき、彼女の表情が一変した。まるで長い間行方不明だった宝物を見つけたような、あの眩しい輝きを再び目にした瞬間、彼は悟った。
彼女の輝きは自分が与えられるものではなかった。彼女の心を振り向かせるという希望も、彼女を幸せにするという夢も、そのときすべてが崩れ去った。
「……僕は、彼女にとって必要な存在には永遠になれないかもしれない……。」
その思いは彼の胸に深く突き刺さったが、同時に自分には引き返せない責任があることを理解していた。ムーンベリク家の再興という国家的な使命、そして彼女の未来を守るという義務。それを果たすのは自分しかいない。
このままでは、王女にとって破滅的な未来しか待っていないだろう。ローランシアの王子という太陽が輝く限り、彼女の心はその光に囚われ続け、苦しみと葛藤を背負い続けることになる。それだけならまだしも、もし本当に不貞を働いてしまえば、彼女だけでなく、ムーンベリク家、サマルティア家、そしてローランシア家という三国の均衡を揺るがす破滅的な事態を引き起こしかねない。
それほどに彼女は、一途で情熱的な女性だった。彼女が本気で愛したもののためには、すべてを犠牲にする覚悟を持っていることを、彼はよく知っていた。そしてそれが、彼女自身や周囲の全てを壊してしまう可能性を秘めていることも。
だからこそ、サマルティアの王子は決断したのだ。王女の心を殺し、その輝きを奪うことで、彼女を自分の腕の中に引き留めることを。これが、彼女を破滅から救う唯一の方法だと信じて。
今、彼女は自分の腕の中で眠っている。彼女の寝顔をじっと見つめながら、王子はそっと彼女の頬に触れた。その感触はあたたかくも冷たくもなく、ただそこにあるだけだった。
「お前はもう、僕のものだ……。だが、僕もまた、お前のものだ。」
その声は静かで、部屋の静寂に溶け込んでいった。理想のハッピーエンドではない。しかし、現実の中で選び取れる道としては、これが最良の形だったのだ。
彼女がどんな夢を見ていようと、それが彼の想像の及ばない幸せなものであることを、王子は祈った。現実では叶わない願いだからこそ、夢の中でだけでも、彼女が自由であれるようにと。
王子は目を閉じ、彼女の寝息に耳を傾けた。その音だけが、彼をわずかに安堵させるものだった。
******************
広間には数えきれないほどの人々が集まり、満面の笑みを浮かべながら祝福の声を上げていた。サマルティアの王子とムーンベリクの王女の夫婦が、国民たちの前で仲睦まじく手を取り合い、微笑みを交わしている。二人の姿は、どこからどう見ても「理想の夫婦」そのものだった。
王子は優雅に振る舞いながら、集まった群衆に手を振る。その表情には微塵の陰りもなく、堂々とした立ち居振る舞いは、彼の支配者としての自信と王女への献身を示しているかのようだった。隣に立つ王女も、愛らしい微笑みを浮かべ、柔らかな仕草で人々に応えていた。
しかし、その笑顔はあまりに完璧で、どこか人間らしさを欠いているように見えた。王女の瞳にはかつての輝きも、温かさも感じられない。ただ、表情筋が命じられた動きを機械的にこなしているかのような、不自然な笑顔だった。その微笑みは、民衆にとっては「理想の夫婦」の証だが、王子にとっては支配の完成を示す勲章だった。
しかし、その内側では、ムーンベリクの王女の心はすでに完全に闇に堕ちていた。
彼女の微笑みの裏側に隠されたのは、底なしの絶望だった。感情の全ては削ぎ落とされ、自分が誰であり、何を望んでいたのかすら思い出せなくなっていた。ただ「王子の妻」という役割をこなすだけの日々――それが彼女に残された唯一の存在意義だった。
「私は、誰……?」
彼女の内なる声は、深い闇の中で虚しく響いていた。誰も聞くことのない問い。彼女自身ですら答えを出すことができない。
心の奥深くには、かつての冒険の日々の記憶がぼんやりと漂っていた。あの頃、彼女は自分の足で立ち、自分の意志で未来を選び取ることができると信じていた。太陽のような笑顔は、希望に満ちた自分自身を象徴していた。だが、その記憶さえも今では灰色にくすみ、何の意味も持たない幻影となって彼女を蝕むだけだった。
祝福の声が大きく響く中、王女の心の中では別の音が響いていた。それは、地獄のような深い闇が彼女を飲み込む音だった。彼女の意識は、どこまでも沈んでいく。そこには何もない。光も、希望も、彼女自身すらも存在しない闇だけが広がっている。
「……私は、もう、いない……。」
彼女の唇には完璧な笑顔が浮かび、民衆の歓声は止まなかった。だが、その内面に広がる「地獄」を知る者は、誰一人としていなかった。王女は役割を果たし、王子は理想の夫として振る舞い、広間には祝福の声が響き続けた――その笑顔の歪みを、誰も疑おうとしないままに。
サマルティアの王子は、その闇を見抜いていた。だが、それを絶望とは感じていなかった。むしろ、それは彼にとって希望の兆しだった。
結婚当初、彼女の心には明確な存在がいた。それは、ローランシアの王子だった。彼女が愛しているのは彼であり、彼への想いが彼女を支え、輝かせていた。そしてその輝きは、サマルティアの王子にとって越えられない壁となっていた。彼女の心は完全にローランシアの王子に向けられており、そこに自分が入り込む余地はなかった。
しかし、今は違う。彼女の心は闇に覆われ、すべてが「無」となっている。その闇にはムーンベリク家の使命も、ローランシアの王子への想いも、もはや存在しないのだろう。
王子は内心で静かに確信していた。この状態こそが、自分の本当の意味での始まりなのだと。彼女が完全に空虚である今、自分だけが彼女の心を埋める存在になれる。それは時間をかけてゆっくりと、彼女の中に自分を刷り込む作業になるだろう。
彼女の心に自分だけを刻み込むために、これまで耐えてきた。これからも、どれだけの時間がかかろうと構わない。彼女が「理想の妻」として立っている間に、少しずつ、自分の存在を彼女の中に植え付けていけばいい。
広間を埋め尽くす民衆たちは、二人の姿に歓声を上げ続けていた。その声の中で、王子はふと隣に立つ王女を横目で見つめた。彼の目には、満足感と安堵が浮かんでいた。
自分の選択は正しかった――彼女を手に入れ、彼女を守り、彼女を国の「象徴」として完璧に仕立て上げたのだから。この場面こそが、自分たちの結婚が正しかったと証明するものだった。
彼はわずかに笑みを浮かべ、民衆に手を振った。王女も隣で微笑みを浮かべていた。だが、その微笑みの裏に広がる闇を知る者は、彼以外にいなかった。
(第一部・完)
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