第7話
「命を絶つ話などとうにききたくはないのだよ」
そう貴文は確かに言った。それは貴文のまごうことなき真実であり、だれもが知るところであった。社会のぜんまいたちの知るところでもあった。けれどそのうえでしったこっちゃあないのだと派遣されたのがこの老人だった。
老人には間違いなく悩みがあった。その娘が自死へと至ろうとしているのは違いのないことだった。彼女の死が目前に迫っているのは明らかなことであり、ただ貴文がそれを知るよしのないだけであった。
「聞きたくはないとおっしゃいつつも、幾度となく解決してきたと伺いました」
「それは誰の流した噂だ。根も葉もない。幹すらないのだ、根も葉もあろうはずもない。」
「幹がないなどとおおせになるとは、その泰然自若とした態度には幹らしさがあふれておりまするぞ」
「何を言うか。愚かもの、おべっかであればもう少し工夫を加えた方がいい。さもなくば買うのは歓心ではなく呆れであり、飼いならすことはおろか飼われる頃になるのはおぬしになる」
「それはそれでいいものです。そなたがその秘訣……死すら乗り越える魂をどうか教えてくださるのであれば」
「教えるも何も、己にそのような心などひとかけらもない。ひとかけらあればよかったものを、探し続けているのは己にほかならぬ。今見つけたところですべては後の祭りでありながら。それを知っていながら探すのは愚か者のすることであろう。去るがいい」
「去ることはできませぬ。そう、私の娘のために」
「聞くことはせぬ」
「あなた様に耳が残っているのは人の言葉を聞くためにほかないでしょう」
「これはただ、己の恐れが切り落とすという蛮行に対して無力であっただけだ。それから、ほんの少しの偶然で欠けることのないまま生きてきた、息をつないできてしまっただけに過ぎない。疾く去るがよい」
「去りませぬ。去ればわしはどこに救いを求めればよいのでしょう」
「何をいうか。己を救うは己だけに決まっているだろう。己しか信じるものはない。そなたの存在でさえ、己からは確実とは言えぬ。そなたが語る言葉が……」
「……どうかなさいましたか」
貴文が押し黙ったのは、それ以上の言葉を重ねられなかったからである。重ねられなかったのは変わらず貴文の弱さでありやさしさゆえであった。やさしさなどと形容すれば貴文は激高し、激高の言葉を吐き出そうとして押し黙るだろう。己の言葉が人に影響を与えてしまうことを恐れた、臆病な足の置き方であった。それでいて、言葉を捨てもせず、五感を閉ざしもしないのは、さらなる恐怖心と臆病さの表れに他ならない。どこをどう切り取ろうとも、貴文は貴文自身で完結しており、外への影響を与えることを極端に恐れているという切り取り方しかできないはずである。それをあたかも聖人君子のように広めてしまうのが社会のぜんまいたちの見立てた方法であり、それに騙されて、いや、騙されたふりをして、万が一そこに本物の救いがあれば儲けもの、それどころか溺れているのだからわらはもとより、笑いものですらつかんでしまうというのがお似合いの身だろうと笑っているのがこの老人であった。
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