拠点マップを旅立つ侘しさ


 朝。

 ルルドの天井に吊るされた発光苔が、夜の青から薄白へと色を変えはじめる。水路はひたひたと小さな音を返し、屋台の鉄板が一枚、静かに温められる。


 部屋の机には、昨夜リヴェルが描いたすり鉢の地図が広げられたまま。炭筆の黒が、夜気を吸ってわずかに滲んでいる。


「……行こっか」


 リゼはその羊皮紙を丁寧に巻き、革紐で結わえた。

 その仕草は“美少女”の優雅さを保っていたが、眼の奥に宿る光は理成の硬い視線だった。


「支度は済んだ?」

 ルナが弓の弦を張り直しながら振り返る。

「……うん、たぶん」



「補給、先に済ませる」

 リヴェルは頷き、荷を担ぎ上げる。「下降具、滑車、打ち込み杭、麻縄、石灰粉……。音を出さぬ布包みも必要だ」


「耳栓も、ね」

 ルナが人差し指を立てる。「“風鳴り”がひどいと、音で酔うって話、昨日の人が言ってたし」


 道具をそれぞれの荷物として装填する。

 消耗品は適宜ウィンドウから出せば良いが、下降具の類はあらかじめきちんと装備しておくことが重要だ。


「こっちの鎧紐、ほつれてるよ」

 リゼはルナの腰装備に指を伸ばし、軽く直す。

「えっ……あ、ありがと」

「大丈夫。 落ちたら、わたしが下で受け止めてあげるから」


「……縁起でもない冗談言わないの」


「そ。–––––––––じゃ、ついでに可愛いおやつも買ってこよーっと♡」




 ::::



 市場の朝は早い。


 布屋台が並び、鉱石、革、茸、干し果実が所狭しと吊り下げられている。オークの子どもが荷車を押し、リザードマンの店主が声を張り上げる。人ではない“誰か”たちの営みが、まるで当然のように根づいていた。

 鍾乳石の柱の間に、屋台が連なる。鉱石と革を扱う店、風穴用の軽量杭を売る鍛冶台、乾燥キノコと燻製肉の露店。


 リゼは“姫の笑顔”で値切り、“ゲーマーの目”で必要を選り分けた。


「滑車を見せて」

 リゼは棚から鉄具を手に取り、軸を回す。

「……ほら、途中で引っかかるでしょ。これじゃ下降中に止まる」

「よく見抜いたな。普通の探索者なら気づかん」

 リヴェルが小さく唸る。


「“見える”んじゃなくて、“見てる”の。ね?」

 リゼは片目をつむって笑ってみせる。



「この杭、焼き色はきれいだけど芯が薄い。二打ち目で割れる」

「だったら、こっちの鍛造品の方がまだマシかな」

 リゼは軽口を叩きながらも、目は真剣だった。


 NPCのはずの店主たちは、表情に微妙な感情を浮かべる。リゼはふと気づく––––––––––––リヴェルだけではない。この市場にいる者たちも、その生き様めいた言動の数々は、とても単なるNPCとは思えない。


 BBの演算機構が凄まじいとはいえ、ここまでの精度のNPCは存在するとも思えないし––––––何より、上層––––––BB本来の世界でも、遭遇したものではなかった。


 そう、リゼが思案していた頃。

 市場の反対側に向かっていたルナが、小包や籠と共に帰ってきた。


 ルナは籠を抱え、干し果実の袋を高々と掲げた。

「はーい、遠征のおやつ! “月甘”と“蜜柑茸”と、あと、ベタだけど“硬焼きパン”!」


「……カロリーは正義、だ」

 リヴェルは真顔で頷いた。


 リヴェルが真顔でうなずく。その様子に、ルナは思わず笑い声を上げた。


 会計を終えて荷を詰めると、リゼはふっと空気を吸い込む。

 甘く、土臭く、どこか鉄を引く匂い。ここは“生きている”。それが、肌の下で確かな文字になっていく。




 ::::


 ギルドホール前の広場。

 昨夜の騒ぎの残滓は、もう見えない。かわりに、出立する探索者たちの背中が、点々と門をくぐっていく。


「出るぞ」


 三人は肩を並べ、ルルドの外壁を越えた。


 鍾乳洞の外縁をなぞるように続く細い踏み跡――“西の縁道”。その先に、大亀裂の縁がある。

 補給を終えると、三人は西の縁道を歩き始めた。

 鍾乳洞の奥へ延びる道は狭く、古びた杭穴や擦れた白粉が壁に残っている。かつて誰かが通った痕跡。だが今は、ひっそりと風に削られているだけ。


「ここから先は、戻れない者の道だ」

 リヴェルの声が静かに響く。


 足元を流れる地下河川の音。

 時折、岩壁に刻まれた印が見える。誰かの祈りのような記号。


「……ほんとに、別の世界みたい」

 ルナが呟く。

「––––––そう、別の世界。上の人間には、存在さえ知られない世界」

 リゼが淡々と答えた。


 歩きながら、リヴェルが簡潔に伝える。


「下降の定石は三つ。――“風を読む”。“音を殺す”。“戻る道を残す”。」

「風は石灰粉で視る。音は布で包む。戻る道は、三十歩ごとに印を残す。石打ちで合図は出さない。風が鳴く」


「了解。……ルナは、印担当ね」

「任された!」


 ルナは腰から白色の粉袋を引っ張り、小さな印を岩肌に置く準備をする。

 リゼは滑車と縄、杭の重みを左右に均して背負い直した。



 ::::




 やがて、天井が高くなる。

 鍾乳石の森が切れ、暗い空気が前方へと引かれていく。空洞全体が、見えない心臓の拍動と同期しているようだった。


 彼方で、低く、長い音がうねる。

 “風鳴り”――大亀裂の声。


 縁は唐突に現れた。

 世界が途切れる。

 足元から、真下へ、暗がりが何百、何千尋と落ちている。

 遠い壁に、糸のような滝の白。黒い竜巻のような気流が、断崖の内側をゆっくりと昇り降りしている。


「……これが、“大亀裂”」


 ルナの声が風に攫われ、かすかに震える。

 リゼは笑って、彼女の肩を軽く叩いた。


「大丈夫。わたしが、落とさせないから」


 言ってから、自分の心臓が一回分、強く跳ねたのを自覚する。(言い切るんだ。“この顔”で)


 リヴェルが縁から半歩下がり、石灰粉の袋を開けた。

 白い粉が、掌から風へと投じられる。

 粒子はふわりと舞い上がり、次の瞬間、横へ引き剥がされるように消えた。

 渦、渦、渦。層がある。上昇と下降が交錯している。


「――今は悪い。下降気流が浅い。二刻は待つ」

 リヴェルが即断する。


「待ちか……キャンディ食べる?」

「食べる」

 ルナが笑い、少し肩の力が抜ける。




 三人は岩棚に腰を下ろし、水を回し飲みしながら、風鳴りを聴いた。

 底のない管に、世界の音が吸いこまれていくような、不思議な静けさ。

 リゼは指先で岩を撫でる。細かな振動が、皮膚から骨へ登ってくる。


(……この揺れ、周期が二つある。長い波の上に、短い波――合わせ目が、ある)


 一瞬だけ、視界の縁が暗く逆立った。

 呼吸が半拍ぶれる。胸の内側で、何かが“反転”した感覚。

 リゼは思わず目を伏せ、こめかみを押さえた。


「リゼ?」

「……ううん、ちょっと、クラクラしただけ。高度、に弱いのかなって♡」


 笑ってごまかし、内側に沈める。

(今の、なんだ? “相反”がきしんだ? ……違う。ここそのものが、噛み合ってない)


 リヴェルは余計な追及をしない。ただ、風に耳を澄ませる。


 やがて、音が一段落ちた。

 さっきまでの長い唸りが、底の方へ滑り落ちていく。


「――今だ。浅い下降が伸びる。行くぞ」




 ::::


 準備が始まった。


 支点を打ち、摩擦布を巻き、滑車を設置する。

 縄は三連。先行はリヴェル、中央にルナ、最後尾にリゼ。

 それぞれの帯に、粉袋と灯りを固定する。灯りは遮光して、下向きだけを照らす。


「合図は、軽く縄を二回。止まるは一回。三回は上、だ」

「了解!」


 ルナの声が、少しだけ跳ねている。

 リゼはそっと、その手の甲に指を触れた。

「――怖くなったら、後ろを見て。わたしが笑ってるから」


「……バカ」

 ルナは俯いて、でも口元は緩む。「絶対、落ちないでよ」


「落ちるのは、可愛いだけにしとく♡」


 リヴェルが先に縁へ立つ。

 風は、まだ大人しい。

 彼女は一度、深呼吸をし――体を、闇へ。


 綱が軋み、滑車が静かに鳴る。

 十歩、二十歩。

 岩肌は粗く、所々に湿り気がある。水の道が、細い銀の線を描いて流れる。


 ルナが続く。

 足を置くたび、白い粉印が岩に残る。

 印はやがて、真下ではなく、斜めへ引っ張られるように伸びていった。


「……風向き、変わってる。横吹き」


「わかってる。姿勢、低く」

 リヴェルの声が縄を伝って届く。


 最後にリゼ。

 縁から身を落とす瞬間、空間の“歯車”が、また半歯ぶんズレたような感覚が走った。

(……ズレてる。ここは、多分、どこかと“重なってる”)


 言葉にできない不安を、笑顔で端に寄せて、手と足を動かす。



 ::::


 下降は、順調だった。


 ……はずだった。


 とつぜん、風が鳴いた。

 一本の見えない弦を荒々しく弾くように、断崖の内側で音が跳ねた。

 粉が逆流し、灯りの火が“横へ”倒れ、ルナの髪を払う。


「っ、風、強い……!」


「三点、維持!」

 リヴェルの声が鋭く響く。「足場見ろ、深呼吸、待て!」


 音の波が二度、三度。

 岩肌の水銀線が震え、霧がわずかに立ちのぼる。

 それはただの湿り気――のはずなのに、目に入った瞬間、リゼの脳が“警告”を鳴らした。


(違う。この霧、匂いが――)


 金属を舐めたような、冷たい甘さ。

 鼻の奥がツンとし、喉の奥にうっすら鉄が広がる。


「ルナ、灯り――隠して!」

「え、な、なに――」

「いいから!」


 リゼは身体をひねり、ルナの灯りに布を被せる。

 周囲が、ほんの少しだけ暗くなる。

 その瞬間、霧は――“減った”。


 風はまだ荒いが、音は半音ほど落ち、戻り始める。

 やがて、先ほどの長い唸りに合流した。


「……ふぅ。何とか、やり過ごした、か」


 ルナが息を吐く。

「ありがと、リゼ。……でも、今の、何?」


「わかんない。けど、光、嫌がってた。たぶん、灯りの“色”か“揺れ”が、悪かった」


 口にしながら、理成の思考が勝手に走る。

(呼気の粒径、温度差、灯りのスペクトル。波長の長い光に反応が強かった? ……いや、まだ判断早い。サンプル不足)


「続ける。――気流、落ち着いた。あと一刻も降りれば、第一の棚に着く」

 リヴェルの声が戻る。


 ::::


 下へ、下へ。

 岩棚が見えた。横幅のある自然の出っ張りで、古い杭穴がいくつも刻まれている。

 誰かが、昔ここで野営をしたのだろう。布切れの名残が、風に擦れて微かな音を立てる。


 三人は順に棚へ移り、縄を解いた。

 足を地につけると、身体が一気に重さを思い出す。


「……ちょっと、休憩」

 ルナは腰を下ろし、硬焼きパンをかじる。

 その顔色は悪くない。手の震えも、もう止まっていた。


 リゼは棚の端まで行き、暗がりの底を見た。

 そこはまだ見えない。

 見えないのに、何かが“こちらを見上げている”気がして、目を細める。


(――見てるのは、誰だ)


 胸の内側が、きゅ、と縮んだ。

 “相反”が、微かに軋む。


「リゼ?」

「ううん、なんでも♡」


 振り返って笑い、荷を整え直す。

 リヴェルは棚の壁に粉印を付け、記号を刻んだ。

「ここで一旦、仮泊だ。風が変わる。次の下降は、半刻後」


「了解」


 三人は短い水を取り、耳栓を調整する。

 棚の上を、冷たい風が通り抜けた。

 遠くで、低く長い鳴き声がする。

 風なのか、岩なのか、何か――別のものなのか、判然としない音。


 ルナは膝を抱え、ぽつりと呟いた。

「……なんか、ほんとに、“イベントの途中”って感じ」


「イベントなら、ちゃんと“続き”があるよ。……ね?」

 リゼは、わざと子どもっぽく笑ってみせる。

 ルナの唇が、微かに笑いを返す。


 リヴェルは二人を見て、目を細めた。

 微かな、安堵。



 ::::


 


 半刻。

 風は穏やかになった。

 彼らはまた、縄へ身を預ける。


 この先に何があるか、まだ誰も知らない。

 けれど、足は、もう前にしか向かない。

 

(行こう。オレたちで、“ことわり”をひっくり返す)


 笑顔の裏で、だけ。

 理成の一人称が、かすかに軋んだ。


 –––––––––下降、再開。



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