第五話"普通"と"仮面"

 自分の席を整え終わると、西条は周囲の生徒たちに混ざり、自然な流れで出口に向かう。白鳳学園の廊下は広々としており、歴史を感じさせる木目の床が美しく輝いている。生徒たちの整然とした足音が響き、どこか荘厳な雰囲気を作り出していた。


 西条が出口に差し掛かると、ふとした気配で背後を振り返る。そこには花ヶ崎星羅の姿があった。やりきった、と安堵する彼の心を壊すように、彼女は淡々とした足取りで歩いて来る。その姿はまるで舞台上の女優のように周囲から一線を画している。


「西条さん、少しよろしいかしら?」


 その声は穏やかで落ち着いているが、どこか冷たさを含んでいた。教室内での彼女の振る舞いと同様、完璧に整えられた姿勢と言葉遣いだった。

 また、彼女から声を掛ける事が余程珍しかったのか、周囲からは驚きの声と、興味の視線を向けられている。


「おっ、花ヶ崎さん。どうしたんだ?」


 西条は振り向きざまに笑顔を作り、肩をすくめる仕草を見せた。その明るい調子の声は、一見すると無防備に見える。だが、その瞳の奥には一線を引いたような冷静さが伺える。


 星羅は立ち止まり、彼の少し前に立つと、少しだけ首を傾げた。長いまつげの下から鋭い目線が西条を射抜く。


「先ほどの数学の授業、あなたの解答、なかなか見事でしたわね。初日であそこまで目立つのは、そう簡単なことではありません。」


「お褒めに預かり光栄だよ。でも、俺なんかより優秀な奴、ここにはいっぱいいるだろ? それに、花ヶ崎さんだって、あんなに問題スラスラ解いてたのに?」


 西条は軽い口調で答え、笑いながら後頭部をかいた。だが、心の中では星羅の意図を測りかねていた。


「あら、ありがとうございます。良く周りを見られているのですね」


 不意を突かれ、表情が揺らぎそうになりながらも、笑顔を作ったまま応じる。


「まぁそりゃ、今の内に皆の名前でも覚えておかなきゃいけねぇからな、」


 本心では無いが、全くの嘘という訳でもない。

 彼は周りに馴染むためのクラスの空気や、雰囲気、人間関係などをいち早く知る必要があった。それが、偽物の「お調子者」を演じる為に必要であるから。


(こいつ……何が目的だ?単に興味本位か、それとも……)


 星羅は微かに微笑みながら首を振る。


「お優しいのですね。西条さん、あなたに私は少し不思議な印象を与えられましたの。」


「不思議って…俺みたいなフツーの転校生に?それっていい意味で?」


 西条はわざと驚いた顔を作り、おどけ、冗談交じりに返した。その表情はどこまでもお調子者を演じる仮面そのものだったが、星羅はその言葉を軽く受け流しながら続けた。


「ふふ。そう、あなたの“フツー”という言葉が、少し不思議に思えますの。あなたは……他の生徒とは何かが違うように感じるのですわ」


 その言葉に、西条の心臓が一瞬だけ跳ね上がった。だが、それを表に出すことはせず、あくまで軽い調子を保ちながら肩をすくめた。


「おいおい、なんか俺が変人みたいな言い方だな。フツーを極めた結果がこれなんだけど?」


 星羅は彼の答えに表情を崩すことなく、小さく微笑む。彼女の目は鋭くも柔らかく、どこか確信を持ったような光を帯びていた。


「……ええ、そうかもしれませんね。けれど、西条さん。私はあなたの“フツー”を、少し興味深く感じていますの。これから席も隣ですし、いろいろ教えてくださいな」


 星羅はそう言い残し、再び優雅な足取りで廊下を歩き始めた。その背中を見送りながら、西条は一瞬だけ表情を曇らせた。


(……“フツー”を気取るのも、やっぱり難しいもんだな)


 彼は小さく息を吐き、再び仮面を被り直すように笑顔を作り、足を動かし始めた。廊下には木目の床を踏む彼の軽快な足音が響いていたが、その心には、星羅という存在への警戒が静かに芽生え、それと同時に仮面の裏側では不安が膨らんでいた。


(俺なんかが“フツー”になれるのか?)


 西条零はふと立ち止まり、窓際に腰掛けながら空を見上げていた。薄曇りの空はどこかぼんやりと広がり、その先にあるはずの青空を隠しているようだった。校庭では、遅れて登校してきた生徒たちが走って校舎に向かってくるのが見える。「仲間」と走る彼らのその姿は、どこか温かさが感じられる。その景色は一見何の変哲もない“普通”の日常だったが、西条にはどこか遠い世界のもののように映っていた。


(“普通”か。そんなもの、俺にとっては幻想みたいなもんだ)


 窓の外に視線を向けながら、西条の心は過去の記憶に引き戻されていく。


 西条の両親がいなくなったのは、彼がまだ幼い頃のことだった。突然の喪失。頼れる大人はいなくなり、身近な人々の温もりも失われた彼は、気づけばストリートに身を置いていた。


 そこは大人も子供も、生きるために戦う場所だった。ルールなど存在せず、信じられるのは自分の力だけ。何かを手に入れようとすれば奪われるし、弱さを見せれば利用される。西条は幼いながらにそれを本能で理解していた。


(奪われるくらいなら、奪う側に回る)


 西条は生き抜くために戦い、裏切り、そして勝ち続けてきた。小柄な体を活かし、頭の回転の速さで状況を切り抜ける。時には自分よりも年上の者たちに喧嘩を挑まれたが、逃げるか、あるいは戦って叩きのめした。何よりも大事なのは“自分を守ること”だった。


 そうした日々の中で、いつしか西条はストリートで“名のある存在”となっていた。周囲の子供たちは彼を頼り、時には彼の指示を仰ぐようになった。だが、それは決して信頼や友情ではなく、ただの“力の象徴”としての役割だった。


(強けりゃ何とかなる、そう思ってた。でも、それだけじゃ足りなかった)


 どれだけ自分を守る力を持っていても、心の奥底にある虚無感を埋めることはできなかった。夜になると、冷たいコンクリートの上でひとり、星空を見上げる。その時間だけが彼にとって静けさを取り戻せる瞬間だった。


 彼が抱えていたのは、失ったものへの喪失感と、誰にも明かせない孤独だった。笑い声の絶えない家庭、温かい食卓――そんな“普通”の生活は、もう二度と戻ってこない。それが彼には痛いほど分かっていた。


(戻れない場所のことを思い出すのは、ただ苦しいだけだ)


 そう諦めたはずの彼が、それでも心のどこかで“普通”の生活に憧れていたことに気づいたのは、もっと後になってからのことだった。


(結局、こんなトコに来ても、俺は変われてないのか)


 白鳳学園に転校してきた理由――それは新しい環境で“普通”の生徒としてやり直すためだった。ストリートから離れ、過去を捨てて、穏やかな日常を手に入れる。それが彼の願いだった。


 だが、転校初日から自分に向けられる周囲の視線や、興味本位で近づいてくるクラスメイトたち。彼らに本当の自分を知られたくない一方で、演じる自分にもどこか疲れを感じている自分がいることに気づいてしまう。


(この仮面がなきゃ、俺はどこにも馴染めねぇ、またあの頃みたいに逆戻りだ)


 だが、その仮面が剥がれ落ちた時、自分はどうなるのか――。それを考えるたびに胸が締め付けられるような思いがした。


 西条はゆっくりと目を閉じ、静かに息を吐き出す。そして、心の奥底に芽生えたかすかな孤独を振り払うように笑顔を作り直し、廊下を歩き出した。その足音は軽やかだったが、その背中には、彼自身も気づかない重い影が差していた。


 次々と時間が過ぎる中、西条零は自分の役割を演じ続けた。お調子者の振る舞いに周囲が笑い声を上げるたび、内心ではどこか虚しさを覚えながらも、彼は仮面を被り直す。


 授業の終わりが告げられたチャイムが響くと、教室内は昼休みのざわめきに包まれた。窓から差し込む陽光が机や床を照らし、日常の温かさを感じさせるが、西条にとってそれはどこか馴染まない光景だった。


「西条、今日の昼飯どうすんだ?」


 隣の席に腰掛けた藤井拓海が、鞄から弁当箱を取り出しながら声をかける。


「おー、どうすっかな。初日だし、学食でも攻めてみよっかな?」


 西条はあえて軽い調子で返す。すると、教室の端から市原聖奈の明るい声が響いた。


「え、学食行くなら私も行く! 西条くん、初日なんだから案内してあげるよ!」


 市原は勢いよく立ち上がり、藤井と西条の間に割り込むようにして話し始める。その様子に藤井が苦笑しながら首を振る。


「聖奈、結局お前が行きたいだけだろ」


「なによ、それの何が悪いの?」


 笑顔を浮かべたまま言い返す市原に、藤井が肩をすくめる。


 そんな二人のやり取りを見ながら、西条は口元に笑みを浮かべていた。しかし、その瞳にはどこか冷めた光が宿っている。


「じゃあさ、みんなで行こうぜ。人数多いほうが楽しいだろ?」


 彼は軽やかに提案し、藤井や市原、そして数人のクラスメイトを巻き込むように話を進めていく。その明るい声に引き寄せられるように、教室内の輪が少しずつ広がっていった。


「おっしゃ、学食ってやつ、どれだけすごいのか見せてもらおうじゃねぇか!」


 西条が大げさに声を上げると、市原聖奈が笑いながら「そんな意気込む場所じゃないってば」と返す。だがその言葉の後ろで、彼女自身も楽しそうに足を速めた。


 藤井拓海と佐々木舞も後に続きながら、和やかな雰囲気のまま学食の扉を押し開ける。


「これ、まじかよ!?」

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