第四話 転校生の初めての授業
ホームルームが終わり、教室内は次の授業の準備で慌ただしい動きを見せ始めていた。白鳳学園の生徒たちは一人ひとりが洗練されており、教科書やノートを整然とまとめ、無駄のない動作で移動していく。その光景は、まさにこの学園が名門と称される所以を物語っていた。
一方で、椅子に浅く腰掛けたままの西条零は、机の上でノートと教科書を軽く引っかき集め、隣に座る藤井拓海に声をかけた。
「なあ、次の授業の教室、どっち行きゃいいんだっけ? 俺、地形覚えんのとか苦手でさ~。」
彼の声はどこまでも軽く、周囲に気楽さを振りまくような響きを持っていた。その一方で、隣の藤井は呆れたように肩をすくめ、笑いながら教室の外を指差した。
「お前さ、初日からそんな調子でほんと大丈夫かよ。次、数学だぞ? はいはい、俺が案内してやるよ。一緒に行くぞ!」
「あー、助かるわ! いや~、俺の方向音痴、マジで舐めんなよ? ちょっと目離したら本気で迷子になるからな!」
西条は"お調子者"として軽口を叩きながら立ち上がり、教科書を片手に彼らについて、教室を後にした。その明るい声は自然と廊下全体に響き渡り、周囲の生徒たちも思わず笑顔になる。
しかし、彼のその軽快な態度は、実は必死で作り上げた「仮面」であった。
(普通を演じるって、意外と疲れるもんだな。でも、ここで変に浮いて目立ったら終わりだろうしな。)
そう内心で呟きながらも、彼は決してそれを表に出さない。自分が「普通の生徒」であることを周囲に印象付けるため、気楽な態度を貫いているのだ。
移動教室に到着すると、西条と藤井は並んで席に腰掛けた。教壇の前には、白いチョークを片手にした中年の男性教師――樋口先生が立っている。黒板にはすでに複雑な数式が書かれ、教室全体に緊張感が漂っていた。
「おいおい、あの先生……チョーク投げてきそうな雰囲気だよな?」
西条が小声で呟くと、藤井は思わず吹き出しそうになりながら肩を揺らした。
「お前、初日から怖いこと言うなよ!」
そのやり取りに、近くの生徒たちも小さく笑い声を漏らした。その反応を見た西条は、心の中で安堵する。
(よし、今のところ「普通」に馴染めてるな。この調子でいければ……)
だが、その瞬間、鋭い声が教室内に響き渡る。
「静かにしろ。」
樋口先生の低く冷静な声が、教室全体を一瞬で静寂に包み込んだ。教壇の上から冷たい視線を向けられた生徒たちは、全員背筋を正して注目する。
「西条君、君が転校生だな。新しい環境で大変だろうが、この学校の授業は甘くない。しっかりついてきてもらう。」
その鋭い視線を受けた西条は、一瞬だけ表情を固くした。だが、すぐにいつもの調子を取り戻し、軽く笑みを浮かべて答えた。
「あ、了解っす! 俺、頑張るのだけは得意なんで! 先生、よろしくお願いしまーす!」
その明るい返答に、教室全体からまたクスクスと笑い声が漏れた。樋口先生は一瞬だけ眉をひそめたが、特に言葉を返すことなく授業を開始した。
授業が始まると、樋口先生の解説は容赦なく進んでいった。黒板には次々と複雑な数式が書かれ、彼の早口の説明が重なっていく。そのスピードは、まるで生徒たちに思考する暇を与えないかのようだった。
西条は必死でノートを取るものの、数式の意味を完全に理解するにはほど遠い状態だった。頭の中では情報がぐるぐると混乱し、次第に焦りが募っていく。
(これ、ほんとにみんな分かってんのかよ……?)
ちらりと周囲を見渡すと、他の生徒たちは黙々とノートを取りながら、特に疑問を挟む様子もなく授業に集中している。その余裕そうな態度に、西条は内心で焦りを感じた。
「ここまでの内容で分からない者はいるか?」
樋口先生が教室を見渡しながら問いかけた。緊張感が漂う中、生徒たちは誰一人として声を上げることなく、沈黙を保っていた。
その時、樋口先生の視線がピタリと西条に向けられる。
「西条君、君はどうだね?」
突然の指名に、西条の心臓が大きく跳ねた。だが、彼は動揺を表に出さず、作り慣れた笑顔を浮かべて答えた。
「えっと、正直、めっちゃ難しいっすけど……まぁ、楽しみながらやります!」
その返答に、教室全体から再び小さな笑い声が漏れる。樋口先生はわずかに口元を緩めたが、すぐに真剣な表情に戻り、黒板に新しい数式を書き込んだ。
「その意気込みはいい。だが、それを見せてもらおう。この問題を解いてみなさい。」
突然の指示に、教室全体が静まり返った。全員の視線が、西条に集中する。
黒板に向かい、チョークを手に取った西条は、一瞬だけその問題に目を走らせた。だが、その方程式は、彼にとってほとんど未知の領域だった。
(くそ、なんだこれ……全然わかんねぇ。でも、ここでヘタれたら笑われるどころじゃねぇ。この学校で「普通」でいるには……変に目立たない為にも、乗り切るしかねぇ)
彼は意を決して、頭の中にある知識を総動員し、勢いよくチョークを動かし始めた。どこまで正しいかは分からないが、それらしい形に見えるように書き上げていく。振り返りながら、作り笑顔で言った。
「えっと……こんな感じっすかね?」
教室全体に笑いが起きる。樋口先生は黒板を見つめ、少し間を置いて静かに告げた。
「不正解だ。しかし、君の度胸は評価しよう。」
西条は悔しそうな表情を浮かべながら席について、前の藤井に向かって「本気でチョーク投げられるかと思ったわ」と明るい声で話しかける。その場に笑い声が広がり、教室の空気は再び和やかになったが、西条の心の中は不安と焦りでいっぱいだった。
(やっぱり、この学校は甘くねぇな。でも、ここで普通に馴染むためには、お調子者としての俺を貫くしかねぇな……)
「西条、さっきの不正解を挽回してみるか?」
樋口先生はそう言いながら、新しい問題を黒板に書き始めた。その挑戦的な視線を受け、西条は腹を決めた。
(今度こそ……やってやる。絶対に。)
彼はペンを取り、ノートに素早く計算を書き始めた。さっきの失敗からヒントを得て、数式を一つひとつ解きほぐしていく。額に汗が滲むのを感じながらも、彼は集中を切らさず、慎重にチョークを動かした。
黒板に記された答えを最後に書き終えると、西条は深く息を吐き、振り返った。
「……これで、どうですか?」
教室全体が再び静まり返る中、樋口先生は西条の解答をじっと見つめた。そして、静かに頷いた。
「……良くやった、正解だ。」
その一言が教室内に響いた瞬間、全員の視線が一気に西条に集まった。静けさを破るように、藤井が「おおっ!」と声を上げ、拍手を始める。それに続くように、他の生徒たちからも歓声や拍手が巻き起こった。
「マジかよ、西条! 初日であの問題解くなんてすげぇじゃん!」
「やるじゃん! 俺なんて全然分からなかったのに!」
クラスメイトたちの興奮した声を聞きながら、西条は黒板の前で一瞬だけポカンとした表情を浮かべた。だがすぐに、いつもの明るい笑顔を取り戻し、軽くガッツポーズをして見せた。
「ははっ、いや~、俺、やればできるタイプっぽいな! ま、自分で言うのもなんだけど!」
その軽口に、教室全体が再び笑いに包まれる。藤井が椅子に座ったまま手を叩いて笑い、他の生徒たちも一斉に西条に話しかけ始めた。
「お前、実は頭いいんじゃないの?」
「いやいや、隠れた天才かもな!」
西条はその声に肩をすくめながら、わざと謙遜するように手を振った。
「いやいや、たまたまだって! 次もいける保証なんてねぇよ。でも、ありがとな!」
その一言でさらに笑いが起こり、教室全体が和やかな空気に包まれた。
授業が終わり、黒板の数式が消されていく中で、生徒たちは次の授業へ向けて席を立ち始めた。西条は教科書やノートを片付けながら、肩の力を抜いて藤井に声をかけた。
「なぁ、俺、こんなに頭使ったの多分人生で初めてかも。マジで疲れたわ。」
藤井はその言葉に吹き出し、机に肘をついて笑いながら返事をした。
「お前、さっきの正解マジでビビったわ。普通に俺らでも難しい問題だったのに!」
「はは、奇跡だろ? 次は保証できねぇけどな!」
そう言って西条は苦笑いを浮かべたが、その目にはどこか安堵の色が滲んでいた。彼にとって、普通に馴染んでいると思わせることこそが、何よりも大切だった。
すると、明るい声が二人のやり取りに割り込んできた。
「ねぇねぇ、西条くん! さっきのホントすごかったじゃん! 初日からあんなに目立っちゃうなんて!」
笑顔いっぱいの市原聖奈が、西条の机のそばに立ち、キラキラした瞳で彼を見つめていた。彼女は西条の前に立ち、興味津々な様子で話を続けた。
「ちゃんと考えて解いたの? それとも、たまたま当たった感じ?」
その勢いに少し圧倒されつつも、西条はすぐにいつもの調子で返事をした。
「もちろん、考えて出した結果だよ! 実は俺、隠れた天才なんだって!」
その言葉に、聖奈は「ほんとかなぁ?」と肩をすくめ、からかうように微笑んだ。
「でも、西条くんってさ、まだ自己紹介ちゃんとしてないよね?」
「あ、そっか。忘れてたな。じゃあ改めて――俺、西条零! この学校の新しい風になる予定だから、みんなよろしくな!」
彼が軽く手を挙げて冗談交じりに自己紹介すると、聖奈は「ふふ、いいね!」と笑いながら応じた。
「じゃあ私も改めて! 私は市原聖奈! 聖奈って呼んでいいよ。元気だけが取り柄だから、何かあったらいつでも頼って!」
彼女は明るい笑顔を浮かべ、西条に手を差し出した。
「おっ、頼もしいな! じゃあこれからよろしくな、聖奈!」
二人が握手を交わすように軽く手を合わせると、その様子を見ていたクラスメイトたちも笑い声を上げた。
教室内では、西条を中心にした会話の輪が自然と広がり始めた。彼の軽快な調子に引き込まれるように、クラスメイトたちが次々と声をかけていく。
「西条、次もなんか面白いことしてくれよ!」
「いやいや、俺、芸人じゃねぇんだけど?」
西条が冗談交じりに返すたびに、教室全体が明るい笑いに包まれた。
「でもさ、転校初日でこんなに馴染んでるのってすごいよな。」
「俺なんか、初日は全然誰とも話せなかったし……。」
クラスメイトたちのそんな声を耳にしながら、西条はふと天井を見上げた。
(よし、なんとか「普通」っぽくやれてるな。この感じなら大丈夫だ……。)
次の授業の準備が進む中、彼は仮面の裏で、そっと胸を撫で下ろしていた。
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