兄が変人を理由の婚約破棄……思わぬ薔薇色の幸せに繋がっていました

イチモンジ・ルル(「書き出し大切」企画)

第1話 婚約破棄と失意の始まり

「コンスタンス、君との婚約は破棄させてもらう」


 卒業パーティーの華やかな音楽や笑い声を背に、男爵令息ショーン・グライドンは冷たく言い放った。


 子爵令嬢コンスタンス・メルヴィルは、壁際で孤独に立っていた。婚約者ショーンの姿を見つけた瞬間、自然とほころんだ笑顔が、その言葉で凍りついた。


「……どうして? 私たち、7歳のときから婚約してきて、10年間ずっと上手くいっていたじゃない」


 声が震え、血の気が引いていくのがわかった。未来を共に歩むと信じていた相手が、まるで別人のように見える。

 ショーンはわずかに目を伏せ、ため息をついて言葉を続けた。


「確かに君には助けられたよ。近衛の試験のとき、戦略図を書くのが苦手だった僕に付き合ってくれたし、君のお菓子の差し入れには和まされた」


 彼の青い瞳がふっと遠くを見るように細められた。


「それに、ダンスが苦手だった君に何か月も付き合って練習したあの時間も、悪くなかった」


 その言葉に、コンスタンスの心に一瞬希望が灯った。

 彼も覚えている。

 ふたりが喜びを共有し、困難を乗り越えてきた日々が確かにあったのだ。


 けれど、その希望は次の瞬間、彼の言葉によって粉々に砕かれた。


「でも、それだけだ」

「……それだけ?」


 ショーンは目を細め、厳しい声で言った。


「君には何度も話したはずだ。君の兄、ドイルさんのことが問題だ」


 その名前を聞いた途端、胸がズキリと痛む。ここしばらく、彼が兄の行動に苛立ちを見せる場面が何度もあった。


「彼は奇妙な機械を作り続けている。それだけじゃない。『信号解析装置』の開発許可を却下されたのに、自宅で勝手に開発を進めているんだ。規則を無視する行為だよ。そんな危うい身内がいる君と結婚するわけにはいかない。僕は相応しい令嬢と結婚する」

「おかしいわ、そんなこと!」


 コンスタンスは反射的に声を上げた。


「兄上が何を作っていようと、自宅でやっていることじゃない。それを……そんなふうに言われる筋合いはないわ!」


 ショーンは一瞬意外そうな顔を見せたが、すぐに鼻で笑った。


「君はまだわかっていないんだな。近衛に入団する僕が誰と結婚するか。それがどれだけ重要かを。家の評判は、僕の未来に直結するんだよ」


 彼の口元に浮かんだ笑みは冷たく歪み、かつての優しさは微塵も残っていなかった。


「僕は君のことを嫌いになったわけじゃない。でも、君の家は僕にとって足枷でしかない」


 その一言に、コンスタンスの胸は締め付けられた。果実水のグラスを持つ手が震え、わずかに液体がこぼれそうになる。


 立ち去るショーンを目で追ったコンスタンスは気づいた。

 ショーンが向かった先には、後輩のシャーロットが微笑みながら待っている。

 彼女は成績優秀で賢いと評判の令嬢で、両親は近衛の中間管理職と聞いている。しかし、女子生徒の間では「婚約者がいる男性を狙う癖がある」と噂されていた。


 シャーロットは満面の笑みを浮かべ、ショーンに軽く手を振った。彼が迷いなく彼女の隣に立ち、自然な様子で言葉を交わす姿が目に入る。

 シャーロットの微笑みは一見完璧だった。まるでそれが純粋な善意と愛のみに溢れているかのように見せている。

 しかし、コンスタンスにはその裏にある計算が透けて見えた。


 シャーロットはショーンの袖に軽く触れ、体をほんのわずかに近づけた。その仕草は、一見無邪気な後輩が先輩を慕う純粋な行為に見える。

 だが、その目の奥には、冷たく計算された光が宿っていた。まるで必要なら誰かを踏みにじることさえ厭わないというような、生き方そのものを感じさせる表情だった。


 ふと、シャーロットがコンスタンスの方を向いた。その瞬間、ふたりの視線が交差する。

 シャーロットの唇がかすかに動き、薄く笑う。

 その笑みは、まるで「あなたの負けね」と告げるかのように楽しげだった。獲物を確保した肉食獣を思わせる、その笑み……。


 コンスタンスは言葉を失った。


 胸の奥に怒りが込み上げる。それは、大声で叫び散らすような激しいものではない。むしろ、静かに燃え上がる冷たい炎のような怒りだった。

 しかし、彼女は貴婦人らしく微笑み、その怒りを内に秘めた。


 ――もしここで感情を爆発させたら、彼らの思うつぼ。


 そう自分に言い聞かせる。けれど、その理性は、彼女の心を守るどころか、かえって胸を締め付ける苦しさを駆り立てていた。


 そんな彼女の視線の先で、ショーンは楽しげに笑いながらシャーロットと会話を続けている。

 彼の少年らしい笑みには、何の疑念もない。

 シャーロットの仕草や笑顔の裏に潜む意図など、彼には考えも及ばないのだろう。


 彼にとって、シャーロットの「毒」など存在しないのだ。たとえ彼女が心の奥底で冷笑していようと、鈍いショーンにはただの「愛らしい後輩」にしか映らないのだろう。


 「ショーンの馬鹿……」


 彼女の唇からつぶやきが漏れる。壁際でひとりぼっちの彼女のその声を聞く者は誰もいない。

 耐えきれず視線を逸らした。胸の奥にぽっかりと空洞ができたような感覚に襲われる。

 ――たとえ愚かでも、ショーンと共に成長していきたかった……。兄上が変人なせいで、それがダメになった。

 その想いがじわじわと彼女の心を締め付ける。


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