第29話

夕暮れの病室にて


夕方、病室の窓越しに見える景色は、やけに鮮やかだった。空は薄紅色に染まり、遠くのビル群が黒い影となって浮かび上がる。その光景に目を奪われていると、廊下の向こうからカートの音が近づいてきた。金属の軋む音が、静寂の中で妙に大きく響く。


「夕食です。」


扉がノックされ、看護師が食事のトレイを運んできた。白いプラスチックのトレイの上には、どこか簡素ながらも整った夕飯が乗っている。


湯気の立つご飯、出汁の香りが漂う味噌汁、鶏の照り焼き、付け合わせの野菜、そして小さなカップに入ったデザートのプリン。どれも病院の食事らしく、質素で無駄のない見た目だ。だが、それがかえって彼女の目に新鮮に映った。


「なんだ、これが夕飯か。」


そう呟きながら、彼女はベッドの上で姿勢を正し、慎重にトレイを膝の上に置いた。最初に手を伸ばしたのは、味噌汁だった。


スプーンを使って一口すくう。口に運ぶと、温かい出汁の香りが広がった。昆布の深み、鰹節の香ばしさ、そしてほんのりと甘みを感じる味噌の風味。


「……悪くない。」


彼女は小さく頷きながら、もう一口、そしてもう一口と味わった。湯気が頬をかすめるたびに、心の中に小さな安心感が芽生える。病室という閉ざされた空間で、この温かさは思いがけない救いのようだった。


次に手をつけたのは鶏の照り焼きだ。箸でそっと持ち上げると、甘辛いタレが肉にしっかりと絡んでいるのがわかる。一口噛むと、ジューシーな肉汁が口の中に広がった。タレの甘みと醤油の塩気が絶妙に絡み合い、舌の上で踊るようだ。


「……うん、これも悪くない。」


普段ならば大して感動することのない食事が、今は何故か特別に感じられた。もしかすると、病室という場所のせいかもしれない。ここでは、何もかもが少しだけ非日常で、少しだけ現実から遠ざかっている。その感覚が、食事をも新鮮にしているのかもしれない。


付け合わせの野菜は、茹でたブロッコリーと人参、ポテトサラダが小さな皿に彩りよく盛られていた。ブロッコリーを一口、続いて人参を食べる。どちらも素材そのものの味が生きている。


「野菜も……いいもんだな。」


ポテトサラダは少しだけマヨネーズが多めで、酸味が効いている。それがかえって心地よく、口の中をリフレッシュさせてくれた。


最後に手をつけたのは、小さなプリンだった。スプーンで表面をすくうと、プルンと揺れる柔らかさが伝わってくる。一口食べると、濃厚な卵のコクと、優しい甘みが口いっぱいに広がった。下のカラメルソースはほろ苦く、甘さを引き締めている。


「これ、いいな……。」


彼女は思わず笑みをこぼした。


「こんな場所で、こんなに美味しいものが食べられるなんて。」


彼女にとって、この夕飯はただの食事ではなかった。それは、病室の中で唯一「生きている実感」を与えてくれるものだった。外の世界とのつながりを失い、時間の感覚すら薄れていく中で、こうして五感を刺激してくれる食事は、彼女の心に灯る小さな光だった。


食事を終え、トレイを片付けながら彼女は静かに呟いた。


「また明日も、この時間が楽しみだ。」


病室の窓の外、夜が静かに訪れようとしていた。空に浮かぶ月は相変わらず冷たく、どこか遠い存在に思える。だが、彼女の胸の中には、小さな満足感がじんわりと広がっていた。それは、日常の中で忘れていた「生きる喜び」のようなものだったのかもしれない。

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