第28話

病室の中は、時計の針が進む音さえ聞こえそうなほど静かだった。彼女はノートを膝の上に広げ、気の向くままにペンを走らせていた。描いているのは特に意味のない落書き。動物のようなもの、幾何学模様、意味不明な言葉の羅列――ただ暇を埋めるためだけの行為だった。


「暇すぎて、頭がおかしくなりそう。」

そう呟きながらペンを止めたとき、扉がノックされる音がした。


「失礼します。」


入ってきたのは、彼女の主治医だった。白衣姿に少しくたびれた表情、でもどこか人懐っこい笑みを浮かべている。


「調子はどうだい?」


「……普通。」


彼女はそっけなく答えたが、主治医は気にした様子もなく、片手に持っていた袋を差し出した。


「退屈してるだろうと思ってね、これを持ってきたよ。読書でもして気分転換するといい。」


袋の中から取り出されたのは二冊の本だった。


一冊目は「ウメハラ FIGHTING GAMERS!」。表紙にはゲームコントローラーを握る真剣な眼差しの男性が描かれている。


「……これって、ゲーマーの本?」


「そう。プロゲーマー、ウメハラの半生を描いた本だ。彼の挑戦と挫折、そして成功が書かれている。まあ、人生のヒントになるかもしれない。」


彼女は表紙を見つめながら首をかしげた。自分が格闘ゲームに興味を持つ日が来るとは思えない。


「で、もう一冊は?」


主治医は少し照れたような笑みを浮かべながら、二冊目を取り出した。表紙には「ソープへ行けおじさん」と大きく書かれている。


「……なにこれ?」


「まあ、タイトル通りだよ。ちょっと過激なタイトルだけど、中身は意外と人生観を深めてくれる本だ。人間関係とか、自己理解とか、案外まともなことも書いてあるんだ。」


彼女は眉をひそめた。


「これ、本当に私向け?」


「もちろん。自分で読むのが嫌なら、タイトルを見ただけで話題にはなるだろうしね。病室の中で少しでも刺激になればいいかなと思って。」


そう言って、主治医は微笑んだ。


「読まなくてもいいけど、暇つぶしにはなると思う。何か感想があったら教えてくれよ。」


彼女は仕方なく二冊の本を受け取ったが、正直なところ期待はしていなかった。ただ、少しだけ主治医の気遣いが嬉しかったのも事実だった。


「じゃあ、また来るよ。」


主治医が出て行った後、彼女は二冊の本をベッドの上に置いてじっと見つめた。


「……ウメハラとソープおじさんって、なんなのよ。」


結局、どちらから読み始めるべきか決められず、彼女はもう一度ノートにペンを走らせた。外の世界から運び込まれた奇妙な本たちが、少しだけ病室の空気を変えたような気がした。

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