第4話 しょうしみんシリーズ(前編)
夏休みも終わり、刈宮高校は二学期を迎えた。
といっても大きな変化が僕に起こったわけではない。淡々と日々は流れる。授業が進むにつれ、知識が脳内に蓄積されていく。そして部活動やボランティア活動などを経て、刈宮高校に通う生徒一人一人がそれぞれのやり方と楽しみ方で少しずつ成長しているのだろう。一学期の浮ついた雰囲気はなくなり、落ち着いた雰囲気が僕たちを包んでいた。
10月初めに控えた文化祭(僕らは「刈宮祭」と呼んでいる)の準備でそんな落ち着いた雰囲気が再びざわめき始めるのを感じつつも、僕は先月までと同じように、部活動の時間に4階の図書室で、図書館の返却期限が迫った長編小説を読んでいる。そしてこれも変わらないのだが、牛山あおいが僕の向かいの席に座りながら、韓流アイドルが微笑んでいるエンタメ雑誌の最新号をつまらなさそうにめくっていた。
「なあ、そんなにつまらなさそうなら帰ったらどうなんだ。今日だって数学の予習をせずにあてられて、15分くらい立ったまま授業受けてたじゃないか。時間を有効に使えよ。」
僕は章代わりのタイミングで牛山に声をかけた。
「いいじゃん別に。私がどこでどう時間を何に使っても。そもそも私は文系脳だから数学はどんだけやってもよくわかんないんだってば。予習なんてやってもやらなくてもほとんど誤差。だったら授業中に当てられない可能性に賭けた方がいいわ。」
牛山はそんなことを言いながら「うわ、今月の占い、かに座、最下位だよ。先月も11位だったのに。私、かに座が占いで1位になったとこ、今まで生きてきて一度も見たことがないんだけど、どうなってんのこれ。どこに文句言えばいいかな。」と雑誌の巻末の有名な占い師のページにケチをつけている。なんでも最近、コンビニに停めておいた自転車を、前カゴの荷物ごと盗まれたらしい。鍵をかけ忘れた落ち度はあるとは言え、最近の刈宮の治安の悪化は度を越していると牛山はご立腹だった。
「ちなみに一生君は何座?確か、
「そうだけど、何で僕の星座と血液型を知ってんだよ。どこかで教えたか?」
ていうか何で
「一生君、私を誰だと思ってんのよ。クラスメイトの誕生日と血液型くらい、全部頭に入っていて当然でしょ?みんな友達なんだからさ。」
僕は一応お前と友達になったつもりはないんだけどな。その個人情報、こちらが申し出れば脳内から消去してもらえるのだろうか。まあ、誕生日と血液型くらい知られていたところで構わないが。
「あ、みずがめ座、今月運勢1位だよ。『何をしてもギリギリでうまくいくでしょう』だってさ。ラッキーアイテムは定期入れだって。よかったじゃん。」
それだけ言うと、もう欲しい情報は手に入れましたとばかりに、牛山は席を立ち、手元の雑誌を所定の開架に戻しに行った。しかし「ギリギリでうまくいく」のは運勢がいいと言っていいものなのだろうか。
「で、今日は何で僕の読書の邪魔をしてるんだよ。」
戻ってきた牛山に僕は尋ねた。
「さっきも言ったけどさ、私パクられて今自転車ないからさ、学校まで家の車で乗せてってもらってるのね。今日、お父さんが仕事休みで、学校終わってから晩ご飯を食べに行くことになってるの。お母さんは店で仕込みが大変だから、外で食べてきなさいだってさ。呑み屋の家ではよくあることよ。」
牛山はそう言ってまた僕の正面に腰を下ろした。
「ホントはリンリンとどこかでおしゃべりでもしようと思ってたんだけどさ、急に内場君のサッカーの練習が無しになったみたいでさ。マハラジャもいないし他の予定もない。そんで図書室に一生君がいるんじゃないかと思って。まあ、彼氏と天秤にかけられたら仕方ないじゃん?だから本当に今日は暇つぶしよ。」
リンリンこと林崎奈美と内場奏舞との関係は順調そうだ。教室でも授業の間や下校の前に親しく話をしているのをちらと見たことがある。彼らが交際するきっかけとなったのは目の前の牛山とその相棒、「亀城二中の牛頭馬頭コンビ」こと馬原潤の暗躍があったからだが、それはまた別の話だ。
「おっとそろそろ時間だね。一生君もすぐ帰る?帰るならお父さんが正門の前に車つけてくれるから刈宮市駅までなら乗せてけるけど。」
牛山はそう提案したが僕はそれを制した。
「実は今日は、もう少し残ってないといけないんだ。木南に図書室の利用時間延長の時の作業の代行を頼まれてる。今日は定時制の生徒さんのために利用時間が延長される日だからな。」
前の自販機の事件の際にも触れたが、刈宮高校は定時制高校の側面もある。定時制課程の生徒は僕たちの部活動が終了後に登校し、授業を受ける。図書室は定時制の生徒も利用できるため、月に数回、定時制の授業が始まる前まで開館時間が延長されるのだ。主に司書教諭の先生がその担当をするのだが、同じく図書委員のメンバーが持ち回りでその補助をすることになっている。
1年5組、出席番号6番の
そんな木南から図書室での延長作業の代役を頼まれたのは2週間ほど前だ。何でも順番が回ってくる日に、帰省している大学2年生の兄から遊びに行く誘いを受けているらしい。一人暮らしをしている兄からの誘いとあればそちらを優先したい木南にとって、よく図書室で読書をしている僕は格好の代役だった。司書教諭の先生とも相談した結果、補助の生徒はいなくても仕事は回るが、いた方が助かるとのことだったため、僕がその役目を仰せつかることになった。もちろん報酬はスガキヤのクリームぜんざいであることは言うまでもない。そろそろ秋の期間限定商品が出る時期だろう。
「というわけで、これから六時半まで先生の補助をする。まあ利用者や返却貸出の申し出が少なければ通常の読書の時間と変わらないな。やり方は一通り木南に教えてもらっているし、7時前には帰れると思う。親には伝えてあるしな。」
「なら了解。せっかくお父さんに一生君のこと、紹介できるチャンスだったんだけどまあ仕方ないか。またにしようっと。」
「別に僕のことなんか紹介しなくてもいいだろ、お互い友達でもないのに。」
「まーたそういうこと言う。それに一生君、きっとうちのお父さんのこと気に入ってくれると思うんだけどな。何でかは言わないけどさ。」
「何だそれ。どこにそんな要素があるんだよ。」
「それはまたいつか、実際に会ったときのお楽しみでしょ?じゃあね一生君。また月曜日。」
そういって牛山は立ち上がり、図書室を出ていこうとした。だが直前で僕の方を振り返り、再び戻ってきた。
「あ、お父さんの話題が出たところで思い出したけどさ、一生君。最近刈宮で不審火が続いているの知ってる?」
「そうなのか。知らなかっ…いや、NHKのローカルニュースで言ってたな。空き家だかゴミの収集所に放火される小火が続いているとかどうとか。」
「そう。うちのお父さん、そういうことに敏感な仕事をしているからさ、ゴミを指定の時間以外に出さないとか、燃えやすいものを外に出しっぱなしにしないとか、いつもより気をつけて欲しいんだってさ。」
そういうと牛山は「また来週ね。」と言って図書室を出ていった。
火災に敏感な仕事とは何だろう。消防士か何かなんだろうか。以前親が公務員と言っていたような気がするのはそういうことなのかもしれない。
時計を見上げるとそろそろ部活動が終わる時間だ。ここからは部活動ではなく、委員会活動の代役としての時間が始まる。片付けの時間も含めると学校を出るのは7時前か。こんなに時間まで学校に残るのもあの自販機事件の時以来だな、と僕は春先のことを思い出しながら席を立ち、司書教諭の先生に一言声をかけてから、貸出作業をするカウンターの向こう側の椅子に腰を下ろした。
結局今日の利用はほとんどなく、貸し出しと返却が2件のみだった。司書教諭の先生から、「利用者も少ないし、少し早いけど上がってもらって大丈夫よ。」と言われたため、規定時間より5分ほど早く僕は図書室を後にした。すでに校舎内の使われていない教室の明かりは消され、非常口の緑色の光と、火災報知機の赤色の光が灯っている薄暗い廊下を抜け、階段を下りた。職員室に入り、残業している先生たちに一言声をかけてから、刈宮市駅に向かう。夏至も過ぎ、9月になるとすでにこの時間は夜といってもいい程度に薄暗い。これは木南から教えてもらったのだが、定時制の課程の授業が始まると、正門はいったん施錠される。定時制の授業が終わるとその施錠が解かれ、周囲の通用口の施錠をしたうえで全員が正門から出て帰ることになっているらしい。そのため、僕は刈宮市駅に近い、東側の通用口から外に出た。正門は片側2車線の道路に面しているのだが、東側の通用口から出ると、正面に遊具も置いていない、公園とは名ばかりの広場がある道に出る。左に曲がると正門の前を通る道路につながっている。僕はいつもの帰宅ルートに合流すべく、左に曲がって歩き出した。
車道まであと30メートルほどの地点まで来たとき、ふいに後ろから「高梨。」と声をかけられた。その声は図書委員の作業の代行を僕に頼んできた木南の声に似ていた。僕は立ち止まり、声の方向を振り返った。しかし、振り返った先に木南はいなかった。いや、木南どころか誰の人影も見えなかった。おかしいな、確かに声をかけられたような気がしたのだが。しばらく振り返ったまま、左右を見渡したが、誰も出てくる気配がないので僕は不思議に思いながら正面を向いて歩き出そうとした。
僕の10メートル先に黒いワンボックスカーが停まっていることに、その時初めて気がついた。そしてその車の中から、男が3人降りてきて僕の方に小走りで向かってくるのが見えた。全員、黒っぽい恰好をしていた。そしてその男たちは明確な意思を持って僕に接触するために距離を詰めてきているのが分かった。
まずいと思ったのと同時に、恐怖で足がすくんでしまった。男たちとは逆の方向に走って逃げようとしたときにはすでに一番大柄な男が僕の腕をつかんでいた。
「声を出すな。」
野太い声が僕を制した。それでも僕は大声を出そうとした。しかし声を出そうと空気を吸い込もうとした僕の腹に、また別の男が拳を叩き込んだ。あまりにも躊躇なく行使された暴力に僕は耐えられずにその場にくず折れた。そしてその一撃は、僕から抵抗することに対する気力を完全に奪い去っていた。
「あの車に乗れ。指示に従えばこれ以上、痛い思いはさせない。分かったか。」
僕の腕を掴んでいた男がそう命じた。その手には明らかにナイフと思われるものが握られている。僕は腹部の痛みに耐えながら、その指示に従うため何とか立ち上がった。両脇をもう二人の男が固める。この状態では走って逃げることは不可能だった。
僕が半ば押し込められるように乗せられたワンボックスカーは僕と3人の男を乗せるとゆっくりと動き出した。そしてほんの数分前まで僕が歩いて帰ろうとしていた刈宮市駅につながる道を抜け、車は南へと進んでいった。それと当時に僕の頭に何か袋のようなものがかぶせられた。視界がふさがれる。今までに感じたことのない恐怖が僕を襲う。そして窓から外を見せないようにするためだろう、後頭部を押さえつけられるような形で僕は下を向かされた。
「じっとしているんだ。何度も言うがお前を傷つけるのが目的じゃない。少しの間おとなしくしていれば、すぐに解放してやる。」
助手席の男がそういった。
僕はゆっくり呼吸をすることに集中した。どうしてこんな目に遭わなければいけないのか、何の心当たりもなかった。しかし今は従う他ない。恐怖と混乱と痛みがないまぜになった不安に押しつぶされながら、僕はじっと耐えることしかできなかった。
私が一生君と図書室で別れ、正門から外に出ると、目の前にお父さんが運転するマツダのロードスターが停まっていた。私を見ると運転席からお父さんが降りてきた。お父さんは身長が180cmくらいあるのでこの車は窮屈そうだ。ちなみに私たち家族3人で乗るミニバンは別にあり、主にお母さんが運転する。このロードスターはお父さんが趣味で買った車で、小さいころからよく私を乗せてドライブに連れて行ってくれた。車のことはよくわからないし、車輪が4つついていればみな同じだと思っているけど、この車を運転するお父さんは助手席で見ていても楽しそうで、そして何よりかっこよかった。
「おかえり。待ったか?」
「ううん。そんなに待ってない。図書室で雑誌読んでた。」
「そっか。んじゃ出発するか。何が食べたい?お父さんは何でもいいぞ。」
「それじゃ私、結構お腹空いてるから、安くていろんな種類が食べられるとこにしようよ。」
「じゃあ市駅の向こう側のビュッフェの店にするか。まあ金曜日で混んでたらその辺のファミレスにでも入ろう。それでいいか?」
「いいよ。お父さん。」
私は助手席に座ってシートベルトを締めた。お父さんがアクセルを踏み込むと、気持ちのいいエンジン音を奏でながらロードスターは街に繰り出していった。
結局ビュッフェの店は順番待ちのお客さんが店外にあふれていたため、私たちはそこから少し行ったファミレスに入った。私たち
店に入ると、店内は半分程度埋まっていた。そのため「空いてるテーブル席にどうぞ」という店員さんの勧めで私たちは手ごろなテーブル席に座った。セルフサービスのお冷とおしぼりを取ってきてお父さんに渡した。
メニューを見て、お互いに食べたいものを選んだ。そしてお父さんに変わり、私がスマホで座席のQRコードを読み込んで、専用のサイトから番号を入力して注文を済ませた。最近こういうお店が増えてきた。子供からお年寄りまでスマホを持っているのが前提の仕組みだが、なんとなく技術の進歩と合理的で経済的な考え方の広まり方が私たちの内面のアップデートよりもかなり先走っている気がする。「直接口で店員さんに注文したほうが早くて簡単なのに。」と思ってしまう私のような人間は、今後少数派になっていくのだろうか。まあ、これはこれで便利だから別にいいけど。
そんなことを考えていると、奥の方から、誰かが大声を出しているのが聞こえた。私の視線が後方に向けられているのに気づいたお父さんが後ろを振り返った。どうやら客の一人が、店員に対して文句を言っているようだった。口調はだいぶ強めだ。何に対してそんなに怒っているのかは聞き取れないが、店の中に何とも言えない緊張感のようなものが伝播していく。
お父さんはこちらを向き直り、運ばれてきたばかりのセットのサラダを食べ始めた。私もそれを見て料理に気持ちを集中させようとしたが、どうしても店の奥が気になってしまう。そうしているうちに厨房から店員とは少し服装の違う、メガネをかけた男性がそのテーブルの方に向かっていくのが見えた。おそらく今の時間帯の店の責任者だろう。その男性はさっきから騒いでいる客のテーブルでしきりに頭を下げている。申し訳ございませんという言葉と、どうしてくれるんだという言葉の切れ端が、私たちのテーブルにまで聞こえてきた。
しかし、客の怒りは収まらないらしく、ざわめきは落ち着かなかった。ついにテーブルを拳か何かで叩きつけたガシャンという音と、「土下座」という言葉が聞こえた。一瞬の静寂とともに新たな緊張が店内に広がる。そしてそれを聞いたお父さんがすっと立ち上がり、ため息をついてからそのテーブルの方へ向かっていこうとした。私が声をかけようとするのを目で制し、シャツの胸ポケットをポンポンと叩くと、お父さんは騒ぎの中心部へ向かっていった。
俺がそのテーブルに行くと、座ったままでわめいている50代後半くらいの男と、立ったまま神妙にしている責任者の男性と、店の制服を着た女の子がこちらを見た。女の子は顔面蒼白で、目は涙がたまり、今にも零れ落ちそうだった。
「なあ、いい加減にしないか。何があったが知らないが、もうそのくらいにしておきなよ。他の客に迷惑だ。飯が不味くなる。」
俺はその怒れる男に声をかけた。
「あ?なんだてめえは。他人が首突っ込んでくんじゃねえよ、失せろ。」
「まあ、そういうなって。どうしたんだ。何があったか教えちゃくれないか。」
「注文した料理の中に髪の毛が入ってたんだよ!だからこれを作ったやつを呼んでどういう了見か聞いてやろうと思ったんだ。なのに呼び出しボタンを何度押しても誰も出てきやしねえ。やっと出てきたかと思えばバイトのガキじゃねえか。おまけにまともな謝罪もできねえ。お前じゃ話にならねえから店長でも何でも呼んで来いって言ってたんだよ。」
「そうか。それは災難だったかもしれんが、何もそこまで大声あげてなくてもいいんじゃないのか?店長さんだってさっきから頭下げてるじゃないか。その辺で勘弁しないか。」
「頭下げたくらいで俺の気持ちが収まるかよ。だから今からそこでこの舐めた態度のガキと土下座をしたら許してやるっていったんだ。それなのにそれはできないの一点張りだ。ふざけんじゃねえぞ。誠意を見せろって言ってんだ誠意を!!」
男がまたテーブルを拳で叩いた。ここまでだな、と思った。俺は上着の内側のポケットから黒い手帳を取り出して男に見せた。
警察手帳だった。
「そこまでだ。これ以上その態度と話し方を続けるなら、この場で現行犯逮捕してやる。脅迫罪、強要罪、恐喝罪、威力業務妨害。どれでもいいぞ?好きなの選べよ。」
俺は手帳をポケットにしまいながら、さっきまでの口調に少しだけ威嚇を込めた。俺を見上げる男の目が泳ぎ、怒りの炎がみるみる小さくなっていくのが分かった。
「あ、ちなみに本物だぞ。嘘だと思うなら今すぐ刈宮署に電話してもらって構わん。俺の同僚たちがこれが本物だって証言してくれるだろうさ。」
「ふ、ふざけるなよ。わかったよ。今日はこれくらいで勘弁しておいてやるよ。覚えとけよ!!」
聞くのも恥ずかしい捨て台詞を吐いてから、男は財布から千円札を2枚、テーブルに叩きつけると、逃げるように店から出ていこうとした。その左手を俺はつかんで捩じ上げた。
「おい待てよ、よく見ろほら、会計が足らねえぞ?税込みで2200円だ。もう200円ちゃんとおいて行け。それとも無銭飲食でこのまま一緒に警察署で続きをするか?」
俺が手を離すと男はポケットから200円を出し、さっきと同じようにテーブルの上に放り投げると、ぶつぶつ何事かつぶやきながら、店から出て行った。
お父さんがテーブルに戻ってきた。頼んだメインのパスタは運ばれてきており、すっかり冷えていた。「お店の人に変えてもらう?」と聞いたが「もったいないだろ。このまま食べるよ。」といってフォークを突き刺して食べ始めた。
「休みの日でも警察手帳って持ってるんだね。」
「見えてたか。ああ、昔は職場に戻して帰らないといけなかったが、最近規定が変わってな。自己責任で厳重に管理することを条件に、非番でも携帯が認められるようになった。通勤中に痴漢に出くわしたときとか、まさにこういう時のためだな。」
「私、お父さんが警察官の顔してるの、久しぶりに見た気がする。」
「あのバイトの女の子、多分まだ高校生だ。自分の娘と年齢も変わらない女の子が泣きながら理不尽に詰られているのを、黙って見ていられるか。こういう時のために、俺はこの出来の悪い頭の中に知識を詰め込んで採用試験に合格して、ありとあらゆるハラスメントに耐えて警察官になったんだ。こういう時くらいカッコつけたっていいじゃねえか。なあ?」
「うん。かっこよかったよ。お父さん。」
「お前にそういってもらえるのが何より嬉しい。また後でもう一回言ってくれ。録音して寝る前に毎日聴くから。」
そういってお父さんは笑顔を見せた。目つきのいいとは言えないお父さんが笑うとその細い目からギラギラした瞳が見えなくなってとても優しい顔になる。その笑顔が私は小さいころから大好きだった。
「やだよ。恥ずかしいじゃん」
そう言って私も笑った。
お父さんがドリンクバーで淹れてきたコーヒーを飲んでいるところに、さっきの男に対応していた男性と、バイトの女の子がやってきた。
「店長の飯田です。先ほどはありがとうございました。」
そう言って飯田店長は女の子と一緒にお父さんに頭を下げた。
「警察官として、いや、人として当然のことをしたまでだ。礼には及ばないよ。」
そしてお父さんは女の子の方を見た。だいぶ落ちついてきているようだがまだ少し目が赤い。声も鼻声だった。
「それにしても今日は災難だったな。店長さんにお願いして、早く上がらせてもらいな。そして帰り道に甘いものでも買って帰るんだ。それからさっさと風呂に入ってさっぱりして、早めに寝て、今日のことなんざ忘れちゃいな。そしてまた明日から頑張ればいい。」
それを聞いて、女の子はまた目に涙をいっぱいにためながら、「ありがとうございました。」といってもう一回、頭を下げた。
店長さんは次回来店時に使える食事券をプレゼントしてくれた。お父さんは固辞したけど店長さんの押しに負けて、結局それを受け取った。店長さんと女の子がテーブルを離れたあとで「また来ないといけないな。」と少し照れくさそうにして笑った。
お父さんがコーヒーのおかわりを、私がメロンソーダの二杯目を飲んでいると、お父さんのポケットの中のスマホが振動した。「何だよこんな時に。」と言いながらお父さんは電話に出るために店の外へ出て行った。あれはお父さんが職場から貸与されている方のスマホだ。仕事関係の電話は全てあのスマホにかかってくる。仕事の性質上、いつ何時、どんな電話がかかってくるかはわからない。
5分くらいでお父さんは戻ってきた。その顔が険しくないところを見ると、これから職場に急行しなければいけないような要件ではないことが分かった。
「何だったの?」
私は聞いてみた。
「ああ、大したことじゃない。ちょっとした事務連絡だ。」
そういってお父さんはお冷をとりにいき、それで喉を潤してからこう続けた。
「さっき、市内の建設会社の社長の家にいたずら電話がかかってきたそうだ。『お宅の息子さんをこちらで面倒を見ている。無傷で返してほしければ500万円を今日中に用意しておけ。』って内容だったらしい。」
「マジで?誘拐事件じゃん。でも何でいたずらってわかったの?」
「ああ、どうやらその建設会社の社長には高校生の息子が確かに一人いるんだが、本人はすでに帰宅していて、自室で動画配信サイトを見ていたんだ。で、電話に出た人間がその旨を伝えて、いたずら電話はやめろといったら、そのまま電話は切れたらしい。で、当人の無事も確認できているし、いたずらなのは確定だが念のため、その建設会社から署に情報提供があったんだとさ。怪しい電話がかかってきましたって。」
「ふーん。」
「そうだ、確かその建築会社の息子、お前と同じ刈宮高校の一年生らしいぞ。知ってるか?」
そういってお父さんはスマホの画面を確認した。
「名前はっ、と。ん?ちょっと待て、これなんて読むんだ?小島に遊ぶって書いてあるが。いや、小鳥か?」
「ああ、それ小鳥に遊ぶで「たかなし」って読むのよ。その小鳥遊君、2組にいるわ。何でも小鳥が遊んで暮らせる場所には鷹がいないからそう読むんだって。昔の人って面白いこと考えるよね。」
その時、私の中で、小さな不安の種が生まれた。嫌な予感はどんどん大きくなり、私の頭の中で芽を出し、根を張りだした。
「ねえ、お父さん、あの、さっきのいたずら電話、
「そうだが、それがどうかしたか?最近特殊詐欺の電話がどの家にもかかってくる時代だ。まあ、これまでに小鳥遊の家に同じような電話がかかってきたのは、一度や二度じゃないそうだ。まあ、刈宮じゃ有名な不動産会社だから、いやがらせとか何かとあるんだろう。」
それでも私は、最悪の予感を振り切るように、急いでスマホを取り出して、ある番号に電話をかけた。しかし、電話の向こうからは「電源が入っていないか、電波の届かない場所にいるので繋がらない」という、機械音声のみが聞こえてきた。
そんなまさか。でも、もし、この予感が本当だったら。
「どうしたんだ?その小鳥遊のことで何かあったのか?顔色が悪いぞ?」
お父さんが心配そうに私に尋ねる。
「お父さん。その電話、いたずら電話じゃないかもしれない。」
「何だって?」
お父さんの声が険しくなった。
「あのね、刈宮高校の1年生に、『たかなし』って読む苗字の男の子はね、その「小鳥遊」君の他にもう一人、いるの。難しい読み方じゃない、「小鳥が遊んでいない方」の「髙梨」君がね。その髙梨君に今連絡がつかない。」
お父さんは私の言いたいことを瞬時に理解したようだった。そしてテーブルの上の伝票を握りしめると、「急ぐぞ。」といってレジに小走りで向かった。私はすぐにお父さんの後を追いかけた。足が震えていた。それでも何とか気力を振り絞って、後を追った。
会計を済ませた後、私たちは車に乗り込みレストランを出た。後部座席で青ざめている私に、「とりあえずシートベルトを締めろ。そして深呼吸だ。」とお父さんは冷静に伝えた。言われた通りに深呼吸をすると、少し落ち着いたような気がした。
「つまり、こういうことだな?小鳥遊の家に電話をかけてきた連中、まあ単独犯って可能性もあるが、その連中は小鳥遊歩を誘拐し、彼と引き換えに金銭を得る計画を立てた。そして実際に「刈宮高校に通う『たかなし』という名前の男子高校生」を攫った。そして身代金を要求する電話を小鳥遊家にかけた。しかし実際に攫ったのは「小鳥遊歩」ではなく「髙梨一生」の方だった。結果、「人違い」で髙梨一生が拉致監禁され、危険な目に遭っているかもしれない。」
お父さんはシートベルトを締めながらそう言った。
「うん。たぶん「小鳥が遊ぶ」と書いて「たかなし」って読むことを知らない人間が事件にかかわってるんじゃないかな。それに小鳥遊君、クラスでは「こじま」ってあだ名で呼ばれているから。一生君が小鳥遊君に間違えられてる可能性は高いと思う。二人とも身長も体格も同じくらいだし。」
「落ち着け。ただのいたずら、そして髙梨って子のスマホがたまたま使えなくなっている可能性の方が何倍も高い。あんまり最悪の方向にばかり想像を膨らませるんじゃない。」
お父さんはそういってロードスターのエンジンをかけた。そしてポケットから運転中もスマホの通話ができるイヤホンを耳に装着し、車を発進させた。
「このままじゃ情報が少なすぎる。俺は署に戻っていろいろ調べてみる。署に着く前に家に寄るから先に帰っててくれるか。お母さんには説明しておいてくれ。せっかくゆっくり夕食を食べるつもりだったが申し訳ない。」
「ううん。謝らないでお父さん。」
「時間がもったいないからこれから伝手を使って情報を集める。本当なら関係者以外の耳に入れてはならん情報が聞こえてくるかもしれんが、聞かなかったことにしてくれ。いいな?」
お父さんはそう言ってハンドルを切った。ロードスターが法定速度ギリギリのスピードで家へ向かう間、私は目をつぶり、自分にできることは何かを考えていた。お父さんがスマホに音声入力で何か電話番号を伝えている声と、相手とのやり取りの声が断片的に聞こえてきたけど、ほとんど内容は頭に入ってこなかった。さっきから何度も一生君の電話に着信を入れているが、音声は同じメッセージを読み上げるだけだった。LINEにもメッセージを送ったが既読はつかない。
一生君、何してるのよ。図書委員の代行の仕事は終わってる時間でしょ?夏休みだっていつだって、私の電話に出なかったことなんて、今まで一度もなかったじゃない。それなのにどうして?
何度目かの着信が不通に終わったタイミングで私はもう一度目をつぶった。そして繰り返し祈った。一生君、どこにいるの?
そうしているうちに、車は私の家の前の道路の前で止まった。「着いたぞ。」というお父さんの声で私は我に返った。
車から降りた私の様子を見て、お父さんも車を降りた。そして私と目線を合わせるために腰を低くした。私の両肩に手を置き、私の目を見た。
「とりあえず、今までに分かったことは次の2点だ。一つは、碧警察に確認をした。警察学校の同期がそこに勤めているからな。落ち着いて聞けよ。」
お父さんも声のトーンが少し下がった。
「髙梨一生の母親から警察に相談があったそうだ。息子が予定の時間になっても帰宅しないってな。」
希望が一つ打ち砕かれたことで、また不安と恐怖が体の中に満ちていくのを感じて私は拳を握り、歯を食いしばった。胸が、苦しい。
「まあ、今の時点では事件性は判断できないということで夜の10時を過ぎても連絡がつかないようならまた電話をするようにと母親に伝えたそうだ。男子高校生だからどこかで寄り道している可能性だってある。」
「一生君は、まっすぐ家に帰るはずよ。そんな帰宅予定時間を何時間も過ぎて遊ぶようなタイプじゃないし、そんな相手もいないはず。だって友達作んないだから。」
一生君のいつものセリフを思い出しながら、私はそう伝えた。
「それともう一つ、髙梨一生のものと思われる定期入れが落とし物として交番に届けられていた。落ちていたのは刈宮高校の東側の細道、中には学生証と定期券、それとスガキヤのクーポン券が入っていた。夜の7時半ごろに犬の散歩をしている近所のお年寄りが拾って交番に届けたそうだ。」
それを聞いて私は一つの可能性を思いついた。
「お父さん、もし一生君が攫われたのだとしたら、犯行現場はその刈宮高校の東側の路上じゃないかな?」
お父さん理由を尋ねたので、私は今日の一生君が私と別れる前に図書室で話していたことと、委員会活動をした時の帰宅の方法について説明した。
「それに定期入れは落ちていたけど、財布は落ちてなかったんだよね?ということは少なくとも現金は持っていたはず。現金さえあれば定期券を使わずに、電車に乗ることができるし、公衆電話も使える。それなのに帰宅も連絡もしてないってことは一生君は電車には乗ってないんじゃない?そして定期入れが落ちていたその刈宮高校の東側の細道で、何かトラブルに巻き込まれた。」
「そうだな。まあそれについては駅の防犯カメラや定期券の入場記録を調べればはっきりする。時間はかかるかもしれんが署に戻ったら手は尽くしてみる。」
お父さんはそこまで話すと、私の肩から手を放し、ロードスターに乗り込んだ。
「何かあったら連絡する。母さんと待っててくれ。」
「うん。あと私、一生君の無事が確認できるまでずっと待ってるから。あと私なりに色々調べて考えてみる。何か分かったらお父さんのスマホに電話するから、その時は電話に出てね、お父さん。」
「それは構わんが、あんまり根を詰めるなよ?便りがないのはいい知らせ、果報は寝て待てだ。」
「一生君は私の大事な友達よ?友達が危険な目に遭ってるかもしれないのに、寝て待ってなんかいられない。」
「わかった。わかったからそんなに怖い顔で見ないでくれよ。大丈夫。お父さんたちで必ず解決してやるさ。信じて待ってろ。」
そう告げると、お父さんは刈宮署へ向かった。
家に戻ると店のカウンターでお客さんと話をしているお母さんに、お父さんが仕事でまた出かけたことを伝えた。こんなことは珍しいことではないので「はいはいわかりました。」と一言だけいってお母さんはまたお客さんと話を始めた。私はそんなお母さんの後ろを通って店の奥へ行き、階段を上って自分の部屋に入った。
もう一度深く深呼吸をして、目を閉じた。さっきまでの不安な気持ちは消えていた。脳内は冷静に、私が今すべきことについて分析を始めている。
私は自分の勉強机の鍵の付いた引き出しの奥から、あるものを取り出した。手に入れてから一度も使ったことのない、私だけの黒革の手帖。私はそれを握る手に力を込めた。
待ってて、一生君。私が絶対に助けてあげるから。
僕が乗せられた車はしばらくしてから停車した。乗っていたのは20分くらいだろうか。頭の中で秒数を数えていたので、大きなズレはないと思う。車内で頭を押さえつけられていたせいで、ここがどこなのか、街中なのか郊外なのかはわからなかった。しばらくすると、ドアが開く音がした。僕は下を向いたままの格好で引きずりだされるように外へ出た。乗っている間に腕を後ろに回され、結束バンドのようなもので両手を固定されていたため、大した抵抗もできないまま、僕は両脇を男たちに固められて移動した。
僕が連れてこられたのは山や海などではなく、どこかの住宅街のようだった。僕の足から伝わる感覚が道路のアスファルトからコンクリートに変わるのを感じた。おそらく放置されている空き家のようなところに連れてこられたのだろう。僕を連れてきた連中の所有している建物か、あるいはどこかの空き家を無断で使っているのか。ニュースで、放置された空き家が治安の悪化や犯罪の温床になるという話を聞いたことがあった。その犯罪の温床のど真ん中にまさか自分が放り込まれる日が来るとは夢にも思わなかった。今でも夢であってほしいと思っている。
建物の中に入ってからしばらく進んだ時、ふいに布の袋が取り上げられた。急に光が差し込んだので僕は少しだけ顔をよじった。息を大きく吸う。その時に視界に入った状況から、連れてこられたのはやはりどこかの空き家、おそらく長い間使われていない空きビルの一室であることが分かった。床のタイルはあちこち剥がれ、壁紙も何も貼られていない剥き出しのコンクリートの壁が見えた。あちらこちらに缶ビールの空き缶や成年向け雑誌、たばこの吸い殻やその空箱が無造作に捨てられていた。古臭い言い方をすれば、ここが連中の「アジト」の一つであろうことが想像できた。
「そこに座れ。」と僕をこの部屋に連れてきた男の一人が言った。僕は素直に指示に従い、床に直接座った。後ろ手で固定されているので体が動かしにくかったが、何とか腰を下ろした。
「お前らはもう戻れ。今後のことはこっちから連絡する。」
男は僕を両脇に抱えてきた連中にそう言うと、僕を連れてきた男たちはこそこそと部屋を出て行った。全員が若い男だった。マスクをしていたが、どう見積もっても大学生くらいにしか見えなかった。
男は僕と二人きりになると、ポケットからスマホを取り出して、どこかに電話をかけ始めた。二言三言会話をした後でスマホを切ると、たばこを吸い始めた。最近街中では目にしなくなった、火を直接つけるタイプのたばこだ。あの鼻の中を直接刺激する独特の嫌なにおいと煙が、妙にがらんとした部屋の中に充満していく。
しばらくの間、男は何も話しかけてこなかった。こちらは聞きたいことが山ほどあるのだが、下手にこの男の機嫌を損ね、たばこの先を身体に押し付けられでもしたら大変だと思い、男と目を合わせないように下を向いたまま、動かずにいた。
しばらくすると男のスマホに着信が入った。男は電話に出て、「おう、入ってこい。」とだけ言ってスマホを切った。しばらくすると、さっき出て行った男たちとは別の人間が三人、ニヤニヤ笑いながらゆっくりと部屋に入ってきた。さっきの連中と比べるとこれまた一層若く見えた。大学生どころか僕と同じくらいの年齢に見えなくもない。ただしそれは全員が服装をだらしなく着こなし、髪の毛を派手な色に脱色しているからかもしれなかった。三人中二人が金髪、そして赤色に近い茶髪が一人。金髪の男のうちの一人の耳は両耳ともピアスだらけだ。あんなに穴だらけにして痛くないんだろうかなんて呑気な感想が思いつくくらい、僕は自分のこの状況を次第に受け入れていることを不思議に思った。恐怖を感じる器官がマヒしているのが分かる。
そして、入ってきた三人のうち、2番目に入ってきた男と目が合った。髪は金色の長髪、腕や顔にまでびっしりタトゥーが入っている。夜の繁華街では絶対にすれ違いたくない。目が合っただけで因縁をつけられそうだ。
その時、僕はこの男の顔をどこかで見たことがあるような気がした。もちろん、僕と大して年齢も変わらないうちからこんな身なりをし、人に暴行を加えた上で拉致監禁して憚らない連中と行動を共にしている人間と深い関わり合いになったことなど、一度だってない。でもこの男の顔を、自分より弱い立場にいる人間を見下し、嬲るようなあの目を、僕は見たことがあるような気がした。
次の瞬間、僕と目が合ったその男とは別の、一番最後に入ってきたもう一人の金髪男の顔に明らかな動揺が浮かんだ。金髪男は一瞬立ち止まり、不思議そうな顔をした後、僕の顔をにらみつけた。
どうしたケン、とたばこを吸っている男が声をかけた。他の二人も立ち止まり、ケンと呼ばれた金髪男の方を振り返った。
「誰、コイツ?」
ケンが絡みつくような声で言った。
「誰って、小鳥遊じゃねえのか?」
「違います。コイツ、小鳥遊じゃないです。こんな根暗じゃねえですよ。小鳥遊は。」
金髪男は唾を自分の足元に吐きかけながらそう答える。
なんだと、どういうことだよ、といいながら僕を監視していた男がたばこの吸い殻を捨てて、足で火を消した。そしてまたどこかに電話をかけ始めた。相手がなかなか電話に出ないのか、イライラした様子で新しいたばこに火をつける。
僕は高梨なんだけど、こいつらは僕を見て高梨じゃないと言っている。一体どういうことなんだろう。
「ああ?どういうことだよ?マジでいってんのかそれ!」
いきなりたばこ男が大声を上げた。僕を含め、その場にいた全員がびくりと身体を硬直させた。それくらい、その男の語気には怒りが込められていた。そして電話を切ると、たばこ男はそばに捨ててあった缶チューハイの空き缶を思い切り蹴飛ばした。
「お前ら、さっさと引き上げるぞ。こいつを拉致って来たやつらがしくじりやがった。くそったれめが。」
そういってたばこ男は僕に「さっさと立て。」と命じた。素直に立ち上がる。そしてこの部屋に入ってきた時と同じように、三人の男のうちの二人に僕の両脇に着くよう指示を出した。ケンと呼ばれた男が「お前らがやれ。」と言いたげに目くばせをすると、金髪タトゥー男とピアス男が僕に近づき、僕の両腕を固めた。僕がさっき見たことがあるような気がした男の方は僕の右側についた。そして僕らは移動を始めた。
今度はどこに連れていかれるのか不安に感じながらも、僕は右を固める金髪タトゥー男の顔を横目で見た。先ほどより近くで見たせいか、この男とどこかで会ったことがあることに対する確信が強まっていくのを僕は感じた。
「おい、ジロジロ見てねえんじゃねえぞ。」
僕の視線を感じたのか、男が僕にすごんだ。僕はあわてて目をそらす。そしてその声を聴いた瞬間、僕の脳内の引き出しから、この男の名前が転がり出てきた。
そうだ。あの時のあいつだ。
そして、次に心に浮かんだのは、恐怖ではなく、憐みだった。
そうか。結局はこういうところに流れ着くのか。何というか、哀れだな。
僕はこの感情を気取られないように目を伏せた。そして引きずられるように、ゆっくりと歩を進めた。
私用のスマホが振動した。あおいからだ。
「どうした。」
「ああ、お父さん、よかった繋がって。今電話大丈夫?」
「1階の自販機で缶コーヒーを買って戻るところだ。どうした。髙梨君から、何か連絡でもあったか。」
「ううん。まだ電話は繋がらないまま。LINEも既読つかない。もうこんな時間だし、やっぱり事件に巻き込まれてる可能性は高いと思う。お父さんの方にも何か情報は入ってきてないんだよね。」
「ああ、今のところはな。それに、もしこれが誘拐事件だと断定された場合は、刈宮署か碧署のどっちかに捜査本部が置かれることになるが、まだその段階じゃない。」
そっか、とあおいは小さなため息をついた。
「ねえ、お父さん、そういえば今警察のなんて部署にいるんだっけ?」
「ん?生活安全課だ。ストーカーとかDVとか、少年犯罪とかを扱う部署だな。」
「だよね。それじゃあさ、
その名前を聞いて、俺は驚いた。心当たりがあるどころではないからだ。そんな不自然な沈黙を聞いてから、あおいが続けた。
「まあ、個人情報だから、別に答えられないのなら答えなくてもいいよ。」
「ああ、その通りだ。その杉浦って男のことを仮に俺が知っていたところで、それをお前に伝えることはできん。で、どうしてそいつの名前を聞く?その名前、どこから出てきた?」
「どこから出てきたかは内緒。こっちもいろいろあるんだ。んで、どうしてその名前が出てきたかっていうとね、そいつがこの件にかかわっているんじゃないかって思ったからなの。」
「どういう意味だ。」
「うーんとね。すごく簡単に言うとね、今どき人を攫って、身代金を要求してくるような奴ってさ、相当頭悪くない?って話。だってさ、誘拐なんて、リスクの割に、成功率が低いことくらい、私でも知ってる。そんなことするなら、オレオレ詐欺の電話をかけまくって、騙した高齢者にコンビニでプリペイドカードを買わせて、電話口で裏面のナンバー読み上げさせた方がよっぽど簡単に稼げる。」
仮にも警察官の娘なんだから、そんな話を父親にしないでほしいんだけどなあ。お父さん心配になっちゃうぞ。
「だからね、これはそんなことにも頭が回らない、間抜けな連中が計画したんじゃないかなって。なんなら誘拐が目的ですらないと私は思う。『小鳥が遊んでいるほう』の小鳥遊君に痛い目に遭わせることが目的で、身代金の話はその場の思い付きでやってみた、みたいな、そんな無計画さを感じる。だからその動機だってそんなに大したことじゃないと思ったの。例えば、色恋沙汰とかね。小鳥遊君て人気者でさ、いい意味でチャラチャラしてる感じなのよ。顔はアンジャッシュの児嶋に似てるくせに。LINEで写真送っといたから見てみて。」
俺はいったんスマホから耳を話し、家族のグループLINEのメッセージに添付されている写真を確認した。どうやら学校での行事の時に撮ったと思われる一枚だった。あおいの横でピースサインをしているのが、おそらく小鳥遊だろう。確かに言った通りだ。目がギョロっとしたところがよく似ている。
「犯人は小鳥遊君を誘拐して、不動産会社を経営している彼の親に金銭を要求しようとした。まあ結果は大失敗なんだけど。つまり、事件のカギは小鳥遊君が握ってる。だから私、聞いてみたの。小鳥遊君と同じクラス2組の子たちに、何か小鳥遊君が交友関係でトラブルを抱えてなかったか。そしたらね、小鳥遊君、最近付き合い始めた彼女の元カレが、だいぶガラがよくない男で、そいつから嫌がらせみたいなこと、何度か受けてるって話が出てきた。」
また写真が送られてきた。今度は小鳥遊の横で映っている女の子が違う。髪は明るい茶色に染められ、化粧も濃い。簡単に言えば「ギャル」だった。そういえばコギャルというのはもう死語なんだっけか。俺には違いがよく分からん。
「これが、今の小鳥遊君の彼女。名前は
確かにその通りだ。杉浦賢二は深夜、様々な家庭の事情で自宅にいることができない10代の若者たちの中で、家出少女に寝床となる場所(たいていは男の部屋だ)を紹介したり、 不良少年たちと喧嘩を繰り返したりしている連中の一人だ。まだおやじ狩りや薬物などに手を出してはいないが、それも時間の問題だろう。補導歴など両手両足の指では数えるのに足りない。
「どうせそんな深夜に徘徊しているようなやつ、ろくに学校にも行っていないんでしょう?家庭の事情か何だか知らないけど、きっと中学生のころからシンナー吸って脳みそスッカスカに決まってるわ。」
言い方に気を遣ってくれ。お父さんはそんな独断と偏見で人を判断するような子に育てた覚えはないぞ。
でもまあ、友達を人違いで痛い目に遭わされている可能性が高いという怒りが、電話口から伝わってきた。正義のために感情を高ぶらせるというのは悪いことばかりではない。そのエネルギーは、俺たちが生きる社会をよい方向に導くためには不可欠な要素だからだ。
「もし、コイツが自分の別れた彼女を寝取っ・・・今付き合っている男に逆恨みしたら、そしてそいつが金持ちの息子で、進学校の刈宮高校の生徒だと知ったら。コンプレックスを拗らせて、痛い目に遭わせるついでに、遊ぶ金欲しさに短絡的にお小遣いをゲットとしようした。ありそうだよね。お父さん、私の推理、いい線いってると思わない?」
あおいと電話をしながら、俺は生活安全課のあるフロアに戻っていた。同僚にこの会話を聞かれたくないので、部屋には入らず、廊下の突き当りであおいの話に耳を傾ける。窓の下から人通りのほとんどない刈宮市の街が見えた。
「あともう一つ、これも犯人たちに関係があるかもしれない人間のことなんだけどさ、お父さんまだ電話大丈夫?」
「ああ、大丈夫だ。で、誰だ、その人物っていうのは。」
「今日、一生君がいつもより遅い時間に刈宮高校を出ることを知っていた木南君のこと。そもそも一生君の帰りが遅くなったのは、木南君が、お兄さんとの約束のために図書委員の当番を代わってもらったから。んで、彼に確認したら、その予定は当日急にキャンセルになってる。急にアルバイトのヘルプを頼まれたって理由でね。何か引っかかるよね。調べたら木南君のお兄さん、私たちと同じ刈宮高校の出身で、今は名京大学の経済学部に通う2年生。計算すると今の3年生の先輩たちが1年だったころ刈宮高校に在籍していた。だから彼のことを知ってる先輩たちがまだ今の刈宮にもいるの。それとさ、ついこの間、名京大生が、闇バイトで特殊詐欺の受け子をやって捕まったってニュースがあった。もしかすると、名京大学の中に闇バイトの関係者が入り込んでいて、金に困った学生をスカウトして、アングラな世界に引き込んでいるのかもしれない。そして捕まったその学生のうちの一人が、木南君のお兄さんと刈宮で同級生で、同じ部活に所属していたらしいの。」
あおいの推理は続く。さっき買った甘めの缶コーヒーの糖分が脳細胞を巡り、思考をクリアにしていく。
「杉浦は『刈宮高校の一年生でタカナシってやつをシメる』ことにした。だから調べた。刈宮高校のタカナシについて。そしてその網に先に引っかかっちゃったのが一生君だった。そりゃそうよ。私だって刈宮で友達になってから「小鳥遊」で「タカナシ」って読む苗字が存在するって知ったんだから。そもそも連中が小鳥遊君を「タカナシ」として認識できていたかさえ怪しい。未希ちゃんは小鳥遊君のことは下の名前で呼んでるみたいだし、杉浦みたいなやつに今の彼氏の情報を渡すような迂闊なことはしないと思う。まあ、杉浦本人は小鳥遊君の顔くらいは知ってたかもしれないけど、その情報まで仲間内で共有してなかったんじゃないかな。ここのところも詰めが甘いよね。そして、ここからは私の想像だけど、今回の件で集められた木南君のお兄さんは、自分の弟がタカナシと同じ刈宮高校に通ってることを仲間に共有した。そしてそのタカナシがどんな生徒なのか、詳しく調べるように言われた。そこで弟の木南君に確認したのよ。『お前の同級生にタカナシっているだろ?それってどんな子だ?写真とか持ってる?』って具合にね。そして木南君は自分と同じクラスの一生君の情報をお兄さんに伝えてしまった。あとは簡単。さりげなく一生君の行動パターンを聞き出した。そして運悪く、図書委員の木南君と、文研部の一生君との間にそれなりに交流があることが分かった。そして木南君の図書委員の仕事の日に遊びに誘い、一生君に代行を頼む案を提案し、いつもより遅い時間に一生君が下校するように仕向けたの。図書委員の仕事が終わる時間は、高校周辺の人の往来が一番少ない時間帯だからね。そこを狙って、犯人たちは一生君を攫った。二人が体格や髪型も似てるのも、一生君にはアンラッキーだったってことになる。」
あおいの言っていることはそれなりに筋は通っていると俺は思った。さっき話に出てきた杉浦と、木南の兄が、この騒動に噛んでいる可能性は高い。
すると俺の業務用のスマホに着信が入った。刈宮署の同僚からだった。
「悪い、仕事の電話だ。何か新しい情報が入ったのかもしれん。いったん切るぞ。」
「分かった。また何か分かったら連絡ちょうだい。気をつけてね、お父さん。」
そういってあおいは電話を切った。すかさず業務用のスマホからの電話に出た。
「俺だ。」
「ああ、牛さん、お疲れ様です。今日休みでしたよね。すみません、こんな時間に電話しちゃって。」
「実は今、署にいる。」
「へ?そうなんですか?何かあったんですか?」
「いや、今のところは何とも言えん。それはいい、で、何の用だ。」
「ああ、すみません。さっき東刈宮の交番から連絡があったんですけど、参加したアルバイトが闇バイトだった、個人情報を握られてしまい拒めなかった。隙を見て逃げてきた、保護してほしいと大学生が駆け込んできたみたいです。これって生活安全課のマターですよね?」
さっきのあおいとの会話を、俺は思い出していた。背筋を冷たい汗が一筋流れるのがわかる。
「そうだな。場合によっては俺たちの出番かもしれん。で、どんな奴だ、その闇バイトに応募した大学生ってのは。」
「待ってくださいね。ああ、あったあった。えーっと、名前は
ああ、そうだな。どうなってんだろうな。
僕は建物の外に出た。どうやら最初に入ってきたのとは反対側の出入り口の方から出たんだろう。そこは裏庭のようになっていて、よく見る物置が置いてあった。おそらくこの建物が本来の使われ方をしていた時に、ゴミを一時的に保管したり、備品が詰め込まれたりしていたのだろう。
その物置の中に僕はいきなり放り込まれた。その前に口にはガムテープを張り付けられ、また後ろ手に結束バンドを付けられていたため、ほとんど受け身も取れずに僕は硬い物置の床にしたたかに尻もちをついた。床に何も落ちていなくてよかった。ただお尻が痛いだけで済んだ。
男たちは僕を放り込んだ後で、僕の両足をガムテープでぐるぐる巻きにして身動きできない状態にしたうえで物置を出ていった。外から物置の前で何か物音がした。おそらく内側から扉を開けて逃げ出せないように、つっかい棒かなんかをしているんだろう。その音がしなくなるのと同時に、足音が遠ざかっていくのが聞こえた。
人気がなくなってからしばらくして、僕は行動を起こした。動かせる範囲で身体をよじらせ、物音を立てようと試みる。口はふさがれているが目は見えるし、鼻も通じる。足は縛られてるが、その場でじたばたすれば多少音も出せる。問題は誰かが、この物音を聞き取れる範囲にやってきてくれるかどうかだ。もう夜も更けている、それに犯罪者集団のアジトにされるような廃屋だ。その可能性がどれほどか、僕にはわからなかった。
さっきまでの会話から推測するに、どうやら僕は人違いで攫われているんだろうなということは理解していた。春先に牛山のやつが「小鳥遊っていう珍しい苗字が他所のクラスにいる」と話をしていたのを思い出した。「小鳥が遊んでいない方のタカナシ」という呼び名すら今は懐かしい。その小鳥遊がどんな生徒か知らないが、こんな目に遭わされるようなやつだったとは思わなかった。いったい何をしたら帰宅途中に何者かに拉致監禁されるような事態になるんだ。それでも刈宮の生徒かよ。
しかしあいつらも人違いだと分かった時点で素直に解放すればいいじゃないか、それをこんな状態にして物置に放置するとは何を考えてるんだ。絶対に許さない。
しかし、差し迫った命の危機が遠ざかったことに対して、僕は少し安堵もしていた。攫われるときに腹に一発くらったものの、それ以降は特に痛い目に遭わされることもなく、現在に至っている。僕の持ち物は建物の中か。人違いで人を攫うようなお粗末なやつらでもスマホにGPS機能がついているのくらい知っているだろうから、電源は落とされているか、最悪破壊されているだろう。僕が今こんな状態になっていることを知る人間は少ない。おそらく両親が警察に相談をしているから、あまりに非常識な時間まで僕と連絡が取れないとなれば、警察だって動く。車に詰め込まれる前に隙を見て定期入れを現場に落としてきた。誰かが見つけてくれれば僕が電車に乗る前に何かあったと分かるはずだ。空腹と喉の渇きは感じていたが、大海原を筏で漂流しているわけでもない、そのうち誰かが見つけてくれる。トイレを済ませておいて本当によかった。
定期入れのことを思い出したのと同時に、牛山と別れる前にした会話のことが頭をよぎった。確かあいつ、「みずがめ座が運勢1位、ラッキーアイテムは定期入れ」とか言っていなかったっけか。畜生、どこが運勢1位だよ。だったらどうして僕はこんな物置の中に閉じ込められてるんだよ。占い師でも誰でもいいから説明してくれ。
その流れで、牛山が図書館を出る前に付け加えた一言を僕は思い出していた。
最近刈宮市で不審火が続いている。先週も空き家やゴミ捨て場に火がつけられたことがニュースになっていた。だから火に気を付けてね。
そんな、まさか。
でも、もしこの状態で、ここに火がつけられたら、僕は逃げられない。
さっきまで薄れかけていた死への恐怖が、僕の身体を突き動かした。匍匐前進のように物置のドアに近づいた。身体をぶつけてみるが扉は動かない。手が使えないのでこじ開けることもできない。足が縛られている状態では蹴り破るのも無理だ。
僕は動く身体を使って身をよじらせ、倉庫の床に肩や頭を叩きつけた。なるべく大きな音を出すんだ。早くここから出ないと、大変なことになるかもしれない。
お願いだ。早くここから出してくれ。頼む。誰か気づいてくれ。助けてくれ。
ガムテープでふさがれた口から声にならない声を呻きながら、僕は身体をよじり続けた。
東刈宮の交番に保護を求めてきた木南健吾は、刈宮署に身柄を移された。現在、当直の職員が事情を聴取している。俺は別室でその様子を見ていた。
木南の供述で髙梨一生が拉致監禁されたことが確定した。これから捜査員を増員して、彼の捜索が始まるだろう。
供述によると、犯人グループは役割分担をして今回の計画を実行したらしい。木南は下校する髙梨の身柄を確保する担当だった。該当する時間帯に刈宮高校から出てくる生徒が髙梨だけとは限らないため、弟と声がよく似ている木南が声をかけ、それに反応したことをもって断定、前方で控えていた実行部隊に連絡をいれたとのことだ。やはり定期入れが落ちていた刈宮高校の東側の道路が犯行現場だった。
その後、木南たちはいったん解散した。ところがしばらくして木南と同じ経緯で計画に参加していた友人から「攫ったのは人違いだった」と連絡が入った。自分が伝えたあやふやな情報が計画失敗の一因であるのは間違いなかった。このままで責任を取らされる、家族を含め、何をされるか分からないと思い、怖くなって出頭した。木南は概ねこのような供述をした。
監禁場所については、どこかわからないと供述した。そして友人とは連絡が取れなくなっているとのことだ。最後の連絡の中でその友人は、「拉致した高校生は簡単に逃げられないようにしてから逃げた」と話していたそうだが、具体的な場所の話は出なかった。そして、捜査員が杉浦賢二の顔写真を見せたところ、今回の計画の打ち合わせの場にいた、周りの人間の態度から今回の計画の主要人物の一人なのが伝わってきたと供述した。
今後は監禁されている髙梨一生の保護、および杉浦賢二の確保などが並行して行われる。俺にはどんな役割が回されるのだろうかと思っていたところに、あおいから電話が入った。他の職員の耳に入らない部屋に移動してから、俺は電話に出た。
あおいは事件の進捗を俺に聞いてきた。本来なら身内とはいえ、詳細を話すことはできない段階まで事は進んでいる。しかしあおいの友人やそのクラスメイトの身内が関わっている以上、あおいの友好関係が解決の手掛かりになるかもしれない、現にどこからどうやって調べたのか不思議だが、先刻電話で伝えてきたとおりの人物が2名、実際に事件に関わっていた。ここはひとつ、あおいの情報を頼りにしてもいいのではないかと俺は判断した。
「いいか、お父さんは今から、今回の事件を整理するために、誰にも聞かれない場所で、事件の情報を口に出してみることにした。しかし俺は『うっかり』直前に娘から電話がかかってきたスマホの通話終了ボタンを押すのを忘れて、話を始めてしまった。誰にも聞こえていないはずの独り言が娘に筒抜けになっているとは夢にも思わずに。これだけ聞けばあとは分かるな?」
あおいは「うん。」とだけ答えた。呑み込みが早くて助かる。そして俺はスマホを通話状態のまま机に置き、独り言を始めた。
最後まで話し終わったあとで、いったんスマホでの会話を終了し、すぐかけなおした。間を置かず、あおいは電話に出た。
「まあ、今はこんな感じだ。残念ながら髙梨君が事件に巻き込まれていることは確定だ。ただ、犯人たちは攫ったのが人違いだとわかった後、彼を放置して逃走している。現時点で髙梨君が命の危機にさらされている可能性は低い。これから捜索が始まる。監禁場所を知っている仲間が警察に保護を求めてくるかもしれんしな。だから安心しろ。彼が見つかるのも時間の問題だ。夜が明けるころには解決してるよ。」
しかしあおいの声は暗いまま、そして今までにないほど深刻そうに聞こえた。
「そっか。でもねお父さん。私、一つ心配なことがあるんだ。その話、今からしてもいいかな?」
「何だ。話してみろ。」
「あのね、お父さんも知ってるよね?今、刈宮市の連続不審火のこと。あれってさ。犯人ってまだ捕まっていないんだよね?」
「そうだな。放火となると担当が捜査一課になるから詳しくは聞いていないが、どうやら放火で間違いないらしい。だだどこにどのタイミングで火がつけられるかがわからない以上、対応が後手に回っている感は否めんな。よく抗議だか憂さ晴らしだかわからん電話が俺の部署にもかかってくるよ。警察ならどんだけカスハラしても平気だと思っているやつが多くてうんざりだ。で、その不審火が何だっていうんだ?まさか髙梨君が監禁されている場所に、今日火がつけられるかもしれないっていうんじゃないだろうな。さすがにそれは心配しすぎじゃないか。」
「そのまさかよ。お父さん。その可能性、無視できないレベルで高いと思う。」
「なぜだ?お前、次の不審火がどこで起きるか、心当たりでもあるのか?」
「うん。あのね、私今回の不審火のことも調べたの。一生君が巻き込まれているかもしれないって思ったとき、友達から色々返事を待っている隙間時間に。ネットを検索すれば不審火の現場はそれほど苦労せずに情報が集められた。今日までに起きた不審火は現在4件。最初が山田町の潰れたゲームセンターのゴミ箱、2件目が泊町の公園のゴミ捨て場。3件目が神崎町の商店街の中にあるビルの一階。そして4件目が竹田町の空き家。だんだん放火の規模が大きくなっているのは連続放火ではよくあることみたい。この4か所、実は全部『刈宮市地域安全パトロール運動』の重点パトロール箇所に指定されている場所なの。今その資料が私の手元にある。ちなみに市のホームページからもダウンロードできる。あと刈宮署のホームページにも写真付きで載ってる。年末やお盆にその地区の民生委員さんとかが参加しているときの様子が。刈宮の先生や生徒会は参加してたんじゃなかったかな?校内新聞で記事を読んだことがある。で、重点的にパトロールする場所に選ばれているからにはそれなりの根拠があると思うの。長いこと空き家になっている家がある、怪しい人物が出入りしていた、そして行き場のない若者が集まって夜遅くまで騒いでいたとかね。お父さん、こういう場所ってどういう風に決めてるの?」
「俺詳しいことはわからんが、まあ、過去にそんな通報があった場合、そこを警察が巡回ルートにいれるってことはありうる話だ。つまり、お前が言いたいのは、この一連の不審火を起こしている犯人は不審者の入り込みや若者の徘徊が問題視されていた場所を狙っているっていうことか?」
「そう。具体的な犯人像や、放火の理由については今は置いておく。重要なのは放火事件の標的にされている場所と、一生君が監禁されている場所に、共通項があるってことなの。今にも放火犯が一生君が監禁されている場所に火をつけるかもしれない。そしてもし一生君が自力で逃げ出せない状態にあるのなら、一生君が危ない。」
あおいの声には不安と焦りが込められていた。
「お父さん、もし知ってるなら教えて。さっきの市の重点パトロール箇所のうち、まだ火がつけられていないのは4か所。
ちょっと待てと俺はスマホを保留にし、自分のデスクに戻り、パソコンの電源を入れながら、引き出しからファイルを取り出した。それは刈宮市で発生した少年犯罪や、市民からの通報などの情報が紙の地図上でまとめてあるものだ。それをめくりながら起動したパソコンの中にあるデータも参照し、俺は一つの結論を出した。
「ここから先はまた俺の声の大きい独り言だ。いいな。よし。さっきお前が言った地区のうち、斎苑と壺家については、若者が徘徊しているという情報は、現時点ではない。野良猫が住みついているとか、そんな感じの通報だな。で、残りの二つ、菜採と加津については 両方ともに『空き家状態になっている建物の中で若者がたむろして騒いでいる、何とかしてくれ』という内容の相談が複数回来ている。この若者たちの中に杉浦やその取り巻きが含まれていたかどうかは分からん。」
「そう、わかった。ありがとうお父さん。それだけ分かれば十分。」
「そうか、申し訳ないが、俺は勝手に動くわけにはいかない、だから近くの交番にパトロールをするよう電話をしてみる。ただし金曜日のこんな時間だ。人数を割くことができるかは保証できん。俺たちが動くときはさっきの防犯パトロールの件を共有して捜索に活かす。だから安心しろ。髙梨君は必ず助ける。お父さんたちを信じて家で待ってろ。いいな。」
「うん。じゃあ電話切るね。お父さん、気をつけてね。」
そういってあおいの電話は切れた。
俺は一つため息をついた。取り調べはどうなっているだろう。そろそろ次の指示が出るころか。俺はスマホをしまい、取調室の方へと向かった。
お父さんの電話が切れた時には、私の心は決まっていた。
一生君、待ってて。今から私が助けに行くから。
私は目を閉じた。そして、これまでに私が集めた情報と、お父さんが教えてくれた情報を、一つ一つ検証する。
そして、最後に問いかけた。一生君は、どこにいる?
そして、答えが返ってきた。一生君は、そこにいると。
使えそうなものをとりあえずリュックに詰め込んで、私は家の階段を駆け下りた。一階のリビングで、金曜日の繁忙期を切り回していたお母さんが、ひと時の休息をとっていた。お父さんとお揃いの夫婦湯呑から湯気が出ている。金曜日の夜なのでまだまだお客さんは帰らない。終電が無くなり、閉店時間まで食事をしているお客さんのタクシーの手配などを全部済ますまでがお母さんの仕事だった。
「ん?どうしたのあおい。リュックなんかしょって。どこかでかけるの?」
お母さんは慌てて下りてきた私を見て、驚いたような顔で話しかけてきた。
「お母さん。お願い。あれ、出してくれないかな?私の友達の命にかかわることかもしれないの。」
リラックスしていたお母さんの目が一瞬で鋭くなった。目の奥で炎が燃え上がるのが見えた。
「それ、マジで言ってる?」
「うん。マジで言ってる。」
お母さんは湯呑の中身を飲み干した。
「わかった。店のことは榊原君に任せるわ。」
そうして立ち上がって私をを指さしてこう告げた。
「すぐに支度する。着替えて玄関で待ってな。」
玄関で待っていると、1分足らずで着替えたお母さんが出てきた。お気に入りの真っ赤なバイクウエアに真っ赤なヘルメット。そして私用のヘルメットを投げてよこした。同じようにバイクウエアを着こんだ私はそれを両手で受け取るとすぐに被った。
お母さんはガレージの奥から愛車を引いて出てきた。私は違いがよくわからないけど、「忍者」という名前のバイクだそうだ。その名に反して色は目立つ赤を基調にしている。手入れが行き届いたピカピカのバイクに私とお母さんはまたがった。
「んで、どこまで乗せていけばいいの?」
「加津町。」
「加津ってあの東の市民病院の方?なんでまた。」
「後で説明する。あんまり時間がないの。場所は・・・。」
「わかった。法定速度厳守でぶっ飛ばしてやるわよ。しっかり掴まってな。」
そういってお母さんはアクセルを捻った。低いエンジン音が唸りを上げる。バイクが動き出すと、お母さんの腰にしっかりと腕を回し、身をゆだねた。
バイクに乗っているときに、刈宮駅の方から、救急車のサイレンが聞こえた。消防車のカンカンと鳴る警鐘の音も聞こえてくる。夜の静寂をうち破るように響くその音が、私の不安を搔き立てた。私はその不安をかき消すように、もう一度、お母さんにしっかりとしがみついた。
大丈夫。きっと、間に合う。
新聞記事より抜粋
15日午後11時ごろ、刈宮市菜採の住宅から火が出ているのを近所に住む男性が見つけ、119番通報した。火はおよそ3時間後に消し止められた。刈宮署によると、木造2階建ての住宅と隣接する空きビルを含めた約180平方メートルが全焼し、空きビルの焼け跡から年齢性別不明の遺体が見つかった。署が遺体の身元や出火原因などを調べている。刈宮市内では不審火が多発しており、警察では過去の事件との関係性も含めて調査を進めている。
現場はJR刈宮駅から西に約5キロの住宅街。
LINEで電話をかけ続けた。
高梨「応答なし」
高梨「応答なし」
高梨「応答なし」
高梨「応答なし」
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