第1話 ヒロ坊と遊ぼう

 本年、喜寿を迎える年頭に当たり、我が愛する孫たちのために,この一文を書き記すこととする。

2020年 元旦  

                             


高知編(1)幼年期


 ヒロ坊が生まれたのは今から七昔も前のこと、暖かい南国の土佐というところで、それは可愛い男の子でした。(これは本当です)

 ヒロ坊はみんなに愛されてすくすくと育ちました。


 でもその頃、日本は外国との戦争になっていました。               



 ヒロ坊のお父さんは病気になって、その病気との長い戦いの末とうとう亡くなり、お母さんと照郎てるお兄ちゃんとの三人暮らしになったのです。お母さんは洋裁店の仕事が大変で、二人におりさん(今のベビーシッター)を頼みました。

 朝、迎えに来るお守りさんは、お兄ちゃんにはお酒の好きなお婆さん、ヒロ坊にはキリスト教のおばさんで、お兄ちゃんはお婆さんに帯でつながれて走り回り、晩には「コリャコリャ」とお酒が入ったお婆さんと、酔っ払いの歌を唄いながら帰ってきます。ヒロ坊は「アーメン」と、イエス様の言葉を覚えて帰りました。 

 お兄ちゃんが一年生になってヒロ坊が四つになりました。ヒロ坊はとても利口な子でお兄ちゃんの宿題をそばで聞いて、一緒に覚えてしまうのです。           


 そんなある日、お母さんはヒロ坊に買い物を頼みました。近くの天ぷら屋(高知ではさつま揚げを天ぷらという)で配給があるというのです。配給とは品物が足りないので、地域ごとに日を決めて、その日はきっと買えるように決めたもので、そこへ「天ぷら五枚買ってきてネ」と行かせたのでした。

 ちょうど昼時で天ぷら屋には行列があり、ヒロ坊はチョコンと並んで順番を待って天ぷら五枚を買いました。でも待っている間のとてもいい匂いせいで、お腹がグウグウ鳴きだしてもうガマンできなくなっていたのです。

 家に向かって歩き出したヒロ坊は、包んでくれた天ぷら五枚を重ねたままで、一口だけカップリとかじってしまいました。包みを開いたお母さんは

「あらまあ。」とあきれて 

「ヒロちゃん、こんなことをしてはいけません、恥ずかしいことなのヨ」と、かわいい歯のあとを切り落とし、分けて食べながら吹き出しそうになっていました。

 それから数日後、お母さんは

「あんなことをしてはいけませんョ」と、またヒロ坊に天ぷらを買いに行かせました。買い物が出来たヒロ坊は、いそいそと帰ってきてお母さんに言いました。

「ボク食べてこなかったョ、食べながら歩いたらいけないよネ!だからボク、こうやってこうやってナメテ来た」

 土佐の高知には、この時期まだ平和な日々がありました。


 ヒロ坊五才の初夏のこと、よく晴れた昼下がり、お母さんはお向かいの酒屋さんの店の前で、そこの若奥さんと立ち話をしていました。そばでヒロ坊がエプロンの端につかまっていたのですが、いつの間にか見えなくなっていました。

 戦争もだんだん日本の旗色が悪くなってきたようで、お母さんたちはそんな不安をささやき合っていたのです。すると突然店の奥からお婆ちゃんのただならぬ声が聞こえました。

「あら!あら!大変!あら大変だあ!!」と。

若奥さんは何事だろうと店に入りかけ、踏み込んだ足を思わずひっこめ、

「あらまー」と立ちすくんでしまいました。

なんと、店の中の土間がお酒の海になっていたのです。その中程にヒロ坊が泣きながら立っていました。右手に酒樽(だる)の木栓を持って身体はお酒でずぶ濡れ、泣きじゃくりながら何か訴え掛けているのですが、意味は到底通じません。

「ヒロ坊がアルコール漬けになっちゅうぞね!」


 若奥さんはそう叫んでジャブジャブ入り込み、ヒロ坊を一段高い台の上に助け上げました。店に並んだ大きな樽の一本から、残り少なくなったお酒がまだドクンドクンと流れ出ています。若奥さんはヒロ坊から木栓をとって樽の出口にキュッと音を立てて差し込み、ピタリと止めました。

 その頃は、お酒や醤油など酒屋さんの店に並べた大きな樽から、じかに四角いマスに抜き出して売っていたのです。土間の周りの台の上に何本も樽が並べられて、それぞれにヒロ坊の眼の高さほどの辺りに、細い木の栓が付いていたのです。

「まあ、どうしましょう。」

一足遅れて店をのぞいたお母さんは、その光景にあきれるやら驚くやらで声もありません。白足袋も着物の裾も汚れるのもかまわず店に入ると

「なんということをしたの、ヒロちゃん!」

立ちすくむヒロ坊の肩を押さえてゆすりました。

「まあまあ待ちなさいャ」と、帳場からお婆ちゃんが言いました。

「小さい子を怒ったちイカンろうがね」

「お婆ちゃん、でも、申し訳ありません。こんなことになってもう、この子はほんとに!」

お母さんはいたたまれず、なんとお詫びをしたらいいのか分かりませんでした。

「それより、土間をなんとかせんといかんちや」

若奥さんがそういって、バケツやタライを持ってきました。お母さんと二人で、ちり取りですくっては入れ、汚れた棚を洗い流しては掬い、取り敢えずお客さんが来ても入れるように急いだのです。酒びたしのヒロ坊はまだ泣いていました。

「どうしたのョ、ヒロ坊」

酒屋の若奥さんが、お母さんからヒロ坊をかばうように優しく聞いてくれました。お母さんの顔は青ざめています。

 その頃は、醤油もお酒も戦争の為に足りなくなっていて、大変貴重な物だったのです。ヒロ坊は泣きじゃくりながら何かを言おうとします。でも、エグエグ、ヒックヒック、するばかりで、お母さんにも若奥さんにもなかなか意味が通じません。

「そんなことよりその子の着ている物を早く替えてやらな、大ごとぞネ。肌から吸い込んで酔うてしまうがネ、ほら、ほら!」とおばあちゃんが急き立てました。

「まっこと、そうに変わらん」(きっと、そうだわ)と、若奥さんも気付いて言います。

 子の不始末のかたずけを、抜けかねていたお母さんは言われる前に思ってはいたこと。ここは頭を下げて甘えさせてもらうしかありません。傍らにうずくまって泣いている我が子を抱え上げ、挨拶もそこそこに飛び出して、通りの車を伺い、我が家へ走りこみました。

 全身酒びたしになったヒロ坊は,通りを渡る間もズッとお酒のしずくをたらしながら家まで帰りました。

 南国土佐の初夏とはいえ、まだ水浴びの季節には早すぎます。大急ぎで丸裸にしたヒロ坊を古シーツでスッポリ包み、日当たりのいい場所に座らせ、達磨さんのように据えておきました。風呂を沸かして洗わなければなりません。心なしか、全身にやや赤みがさしたヒロ坊は、目だけ光らせガチガチ歯を鳴らして震えながら、鼻水と涙と20年も早い酒の味をたっぷり味わった出来事でした。

 ようやくヒロ坊が行水できるほどの湯が沸き、裸でそこに座らされていたヒロ坊は,冷え切った体がホッコリ温もったところで、お母さんから声が掛かりました。

「ヒロちゃん、なんであんなことしたの?」

お母さんの声は固くなって聞こえました。

「おこっちゅう(怒ってるの)、ボク、悪うないき」

ヒロ坊は悲しくなっていました。

「何があったの、ちゃんと言いなさい」

「あのネ、あそこに、あの猫がいたガ、おッきな、黒い」

「そう、あのお店のね」

「あの下でポタポタ落ちてるのをなめてたガ」

「そう、それで?」

「いつも遊ぶネコやき、傍へ行って『酔っちゃうゾ』て、手ェ出したら、バーンて飛んだガヤキ、そしたら蓋の木に当たってェ、よけいに漏れ出したガヤキ」

「そう、そこまでは分かったワ、それから?」

ヒロ坊のエグエグはまだとまりません。

「抜けたら大変やチ思うてェ、僕が挿せるチ思うてェ、手ェ出したら、触った時に、カクンとなって、バ~と出てきたガヤキ、挿そう思うても、見えザッタガヤキ」


ここでヒロ坊はむせび泣きました。

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