第47話 中国の現状


「いきなり呼び出されて、何のことだかさっぱり分からんのだが、説明してはくれないか?」


板垣征四郎、この男は石原主催の満州派の筆頭であり、かつては中将まで登りつめた生粋の陸軍軍人である。支那事変で師団長だった際、独断で太原を占領しようと軍を動かし統合参謀本部と揉めた末に予備役に編入された。退役後はコネと金に物を言い国会議員に返り咲いていたが、西澤はこの男こそ最近の一連の出来事の主犯なのではないかと睨む。


「汪兆銘に手を貸したのは貴方ですよね、板垣議員。ここ最近盛り上がっている新体制運動にも繋がっているのでしょう、さては近衛元首相とも手を取りましたか。運動は大企業の社員が中心のようですし、北支市場を狙う財閥も関わっているのではありませんか?」


的を射ったのか、目を見開いて驚くと、少し笑いをこぼした。


「御名答、確かに汪兆銘に呼びかけたのは私だがね。よくもまあそこまで嗅ぎつけられたな」

「軍需局の管轄は広いので。それに今の状況を見れば、知る人なら否が応でも分かります」


最近の新聞の切り抜きを鞄から取り出して板垣に見せる、見出しには『汪兆銘、協倭反共救国を亡命先ハノイで謳う』『熱狂新体制、平沼内閣来月にも総辞職か』『欧州戦線膠着、蘇芬講和す』。随分とまあ賑やかなことである。


「...何か文句があるなら言ってみたまえ。衆議院議員は選挙で選ばれる、その議員が一党による新体制を求めるなら、それは国民の意思によるものになる。この世界情勢では政党政治などという不安定で離散的なものなど、とてもじゃないがやってられないのだよ、皇国全体が一致団結して来たるべき最終戦を乗り越えられるように備えなければならない。汪兆銘もそうだ、彼らがそれを望み我々が共に利益を分け合うことに何も問題は無い、防共は重要な課題であるし支那はいずれ東亜連盟の盟邦となり得る国なのだ。文民統制、君みたいな皇軍省の連中が好きな言葉だろう、私はそれによって退けられた。が、今は逆だ、文民がそれを望みそう指示するのに軍が歯向かうことは許されないのでは無かったか?」


板垣はそうまくし立てる、皇軍省に手を出されるのを恐れているのだろうか。西澤は敵対する気など毛頭ないのだが、勘違いされたようだ。


「板垣議員、私は別に咎めに来たわけでも止めに来たわけでもありません」

「ほぅ...?」


利用できるものは最大限利用する、東亜連盟論に賛同するつもりは毛頭無いが予備役将校と満州派をまとめる板垣の協力は得ておきたい。そして、中国を円ブロックに組み入れることは日本にとって、皇軍省にとっても悪いことではないのだ。鞄から資料を取り出して、机に広げる。


「先週、皇軍省総力戦研究所が予測した日米戦争の結果です、予め言っておきますがこれらを算出したのは我が国でも随一頭脳を誇る研究者たちです。使用データに左右されるためどうしても確実とは言えないですが、純粋に戦争をしたという想定では、どのような手段を取ろうと国力差で圧倒的に不利な我が国は、どう足掻こうがアメリカに敗けます」

「...認められんな、学者が戦争の何を知っている」


認められようが認められなかろうが知ったことでは無い、それは結果として存在しているのだ。


「米国に対抗するためには巨大な経済圏と資源が必要です、工業力の成長には何十年もかかるでしょうが投資をすれば着実に成長します。貴方がたの提唱する東亜連盟論は、長期的な意味においては、理にかなっているとも言えなくも無いのです」





※ ※ ※




1940年、3月、皇軍省統合参謀本部。



その光景は3年前の支那事変勃発時を彷彿とさせるものである。内閣総理大臣の席には近衛文麿首相が構え、皇軍大臣には宇垣一成元帥、陸軍長官は寺内寿一大将、海軍長官は米内光政大将、空軍長官には井上幾太郎大将と、面子は異なるが状況はまさにそれに等しい。


井上幾太郎大将は7年前に予備役編入されたのだが、空軍の大将クラスの人間があまりに不足していたので現役に引っ張り戻されることになった。統制派が目論んでいたという軍部大臣現役武官制が復活していたら、こうも簡単にはいかなかったであろう。なお、工兵出身の軍人が司令長官(旧陸海軍大臣クラス)に就くのもまた前例の無いことであった。


「まず現在の国共内戦の状況について、皇軍省情報局対支那部より説明をしてもらおう」


宇垣大臣が壇上から降りると、代わって情報局の人間が立った。


「情報局支那部長の矢田茂、大佐です。現在支那は、蒋介石率いる国民党の中華民国国民革命軍、毛沢東率いる共産党の紅軍、そしてこれらいずれにも属さない軍閥の大きく分けて3種類の勢力が割拠している状態です。昨年の、40万と推定される紅軍の大攻勢に対し国民革命軍主力が迎え撃った太原たいげん会戦以降、国民革命軍は各地で敗走或いは紅軍への合流を続けており、現在の各勢力の支配地域はこの様になっています」


統合参謀本部本会議場の演壇のバックは世界地図になっており、矢田は指示棒を黄河に沿うように動かした。


察哈爾チャハル省、河北かほく省、省会太原がある山西さんせい省、綏遠すいえん省といった北支地域の殆どに加えて、青海せいかい省、甘粛かんしゅく省、寧夏ねいか省が紅軍の解放区として支配下にあり、国民党が支配できているのは首都重慶がある四川しせん省、湘南こなん省、湘北こほく省、河南かなん省、山東さんとう省、 江蘇こうそう省、広東かんとん省、福建ふっけん省のみである。雲南うんなん省全域を支配する竜雲に代表される雲南派、西蔵せいぞう地方と西康せいこう省を支配するガンデンポタン、新疆しんきょう省を独裁統治する盛世才せい せいさいなど各地で百を超える勢力が割拠し、先に述べた国民党、共産党の地域内でもそれらの勢力が支配している地域がある。概ね黄河以北が共産党の支配地域であった。


陝西せんせい省、浙江せっこう省、 江西こうせい省、安徽あんき省、 広西こうせい省は両者の支配地域が入り乱れているが、それらはいずれも国民党の支配地域内に共産ゲリラの解放区があるという絵図である。西澤はそれらを見ていて、あることに気づいた。


「中支における共産ゲリラの支配地域は、中支那方面軍の進撃地域とほぼ一致しているな」


日本軍の攻撃によって壊滅した国民革命軍に代わって、それらの地域では共産党が勢力を広げたのだろう。


「蒋介石は2月に黄河を意図的に決壊させ、河南省と山東省において紅軍の進撃を防ぎきることに成功しましたが、陝西省では西安が陥落し、一部では紅軍が四川省に侵入を始めています」


蒋介石は重慶から広州に首都を移すことを検討しているらしいが、重慶は中支地域が支那事変の大打撃と紅軍のゲリラ攻撃によって工場群がまともに機能していない状況にあって疎開した工場群が存在する数少ない場所であり、また水運の要である長江にも面する山岳に囲まれた天然要塞である。四川盆地も広大であり、食料供給もある程度は可能だ。これを捨てるとなると米英の支援があろうともはや国民党が失地を回復するのは不可能になる、というのが情報局の見解であった。


「現在の紅軍の推定戦力は正規兵140万、民兵及びゲリラ200万、支配地域の総人口は1億5000万人から2億人とされており、またソ連軍の義勇軍も一部参加しています。対する国民党は支那事変時は民兵も含め300万人ほどでしたが、現在は80万人ほどにまで減っていると目され、紅軍の大半が満洲国への攻撃に投入されている故に辛うじて命を繋いでいるようなものです」


4億の人口を抱えるだけあって日本とはまるで規模感が違う、日本が支那事変で動員した兵力がせいぜい100万を下る程度であり、それでも国内経済が圧迫されるほどの大戦力なのだが。


「それにつきまして、内閣より重大な発表があります」


近衛首相が席を立ち壇上に登り、矢田大佐は後ろに下がった。3年前とは近衛首相の雰囲気も、より覇気を持ったものへと随分と変わったように西澤は感じた。


「諸君、満洲国は熱河ねっか省に度重なる紅軍の攻撃を受けており、満州方面軍も防衛に苦労している、一刻も早い増援が必要である。そして一昨日には政府に対し外務省を通じて満洲国から正式な派兵要請が来た、盟邦の頼みをはねのけることなど出来ようか、今こそ軍官民挙国一致し共匪の脅威を根絶すべきである」


議場が騒然となり、ガヤが飛び交う。宇垣大臣もそれは存じなかったらしく、顔を真赤にして近衛を睨むと、強い語勢で言った。


「近衛首相! 上海条約で他方の内政に介入することは一切禁じられている、それすら守れないのか!」


だが、と西澤は思う。汪兆銘が国を立て、政府がそれを中国における唯一のと認めれば諸条約はそちらに移管する。共産党の撲滅を望む汪兆銘と後方地域としての中国を望む満州派、そして市場としての中国を望み満州派と手を組む新体制派、この三者三様の利害が偶然にも一致したのであれば、これらをとやかく言うことは出来ない。


宇垣大臣に目配せし、それを知らせる。この謀略は、恐らく支那事変、いや、が終わったときから始まっていたことだ、逆に見ればそれがあったからこそ、近衛首相はあれだけ事変をことが出来たのだ。


なら、せめて最大限利用するまでだ。


「閣議決定により我々政府は支那への派兵を決定した。近衛文麿内閣総理大臣の名において、皇軍省及び統合参謀本部に北支地域における剿匪作戦の立案と準備を命ずる!」

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