第18話 不拡大方針破棄
西澤の発言に会場がざわめく、ただ一人を除いては。
「まったく、やってくれるな。面白くなりそうだ」
伏見宮博恭王前首相、今は予備役だが、海軍元帥としてこの会議に招かれていた。伏見宮元帥のその言葉は、会場が騒然となる中で誰かの耳に届くことはなかった。
立ち上がった西澤軍需局長は、首相を始めとする軍の重鎮を前に話を続ける。
「まず、中国との戦争において最も憂慮すべきなのは兵站であります。中国沿海部は人口密度が高く、比較的物資の調達、徴収は容易ではありますが、市街地から武器弾薬は取れません。必然的に補給路と鉄道の整備が必要となりますが、ここで問題となるのが先の人口密度です」
「どういうことだ?」
「中国が持つ最大の武器とはその人口です。占領地の民間人と便衣兵の見分けはつきませんし、扇動員がいれば住民を即席のゲリラ兵にすることも出来ます。そうすると、補給路がゲリラ攻撃を受けますが、これを防ごうとすれば現地住民を弾圧するしかなく、更に住民感情は悪化し、ゲリラが増える原因になります。更に、確かなものではありませんが、国民政府は共産党と再び合作を始めるとの情報もあります。共産党は二年以上も国民政府に対しゲリラ戦、扇動工作を持って数倍もの軍勢を押しのけてきました。ゲリラ戦に特化した紅軍が国民政府に味方するとなれば、先程の懸念はますます深まります。武力によって勝利を収めたとしても中国人民四億の心を掴めなければ、真の意味で我々が勝つことは無いでしょう」
兵站、従来なら真剣に考えられることはなかったが、皇軍改革後、軍の風潮も変わりつつある。西澤の言うことも一理あった。
「よろしいでしょうか?」
そう挙手したのは石原莞爾、統合参謀本部陸軍作戦副課長である。
「軍需局長の仰ることはもっともです。陸海空の三軍は装備の統一、近代化の真っ最中であり、多くの師団も再編成の途中であります。また、支那の挑発行為の裏には、中国共産党、そしてソ連、
伏見宮元帥が拍手を送り、それを見て他の将官も拍手を送った。ただ、近衛首相は冷や汗をかいていた。
石原は派兵という言葉を使った、つまり閣議決定で内閣が既に派兵の方針を決定したことを知っているのだ。そして、会議は平和的方向に流れている、これは近衛首相にとって望ましいことではなかった。
近衛首相の窮地を察したのか、武藤章、皇軍省軍事課長が拍手を遮る大きさの声で、反撃の狼煙をあげた。
「上海事変は支那からのれっきとした攻撃です、租界の帝国臣民が危機にさらされているのです。臣民に危害が及んでいるというのに、支那ごときの攻撃をただ耐え凌ぐだけでは皇軍の名に恥じます。それに支那軍など所詮三流の野蛮人の集まりです、半世紀近く前の皇軍ですら清朝に打ち勝てたのです。今こそ奴らに格の違いというものを思い知らせなければなりません! 暴虐非道の支那に身の程を叩き込むために懲罰を! 我々は五年間近く隠忍自重してきたのです、それに支那は暴力で返した。今こそ派兵を行うべきであります!」
「私も武藤少将の意見に賛成します。このまま状況を変えず、相手に譲歩することは何の解決にもなりません。軍需局長が申したように兵站や整備の問題はありますが、それを考慮しましても、今の帝国軍には支那に勝てるだけの戦力があります、侵攻出来ないというのは少々大げさすぎます。よって短期間かつ可及的速やかに支那に大打撃を与え、我々が有利な条件で講話し、一挙に今までの諸問題を解決すべきだと思うところです」
米内連合艦隊司令長官も武藤少将に賛同する。今度は近衛首相が拍手を送った。
石原は近衛首相を睨むと、武藤少将に向けて言い放った。
「武藤少将! 軍とは戦争をするためだけに存在しているのではない! 貴官は軍の役割が何であるのか分かっているのか!」
たちまち議会は紛糾し、罵詈雑言が飛び交う。既に軍役にはない伏見宮元帥と閑院宮元帥はそのやり取りに口を出さずに静観していた。もっとも、伏見宮元帥には近衛を後任にしてしまったことに対する後悔の念もあったのだが。
その後、三時間に渡り議会の大荒れは続いた。陸海軍の隔たりを超えて強硬派と不拡大派が熾烈な論争を繰り広げたが、遂に軍の方針はまとまらず、会議は決着がつかぬまま解散となった。
だが、もはや全ては手遅れであった。近衛内閣は既に派兵を決定しており、四日後の八月一五日、近衛首相は「今や断固とした措置を取らなければならない」と不拡大方針を破棄することを宣言、皇軍省に正式に戦争準備の命が下された。
軍は内政に介入するべきではない、ある意味軍自身が望んだことでもあるのだ。
支那事変、抗日戦争、双方からそう呼ばれることになった戦争への道に、日本は突き進み始めた。
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