第2話
女性を見送るとラファエルは居間に入って行った。
アデライードが暖炉の前に置かれた小さなテーブルに、お茶を用意してくれている。
「ラファエル様、どうぞこちらに。身体が温まりますわ」
「うん。ありがとう」
ラファエルが優雅に一人がけソファに座ると、アデライードは沸いた湯を火の側から遠くへと移動させてから、彼女もラファエルの対面に座った。
温かい紅茶を飲むと、胸がホッとする。
「雪が降って参りましたね……また積もるかしら」
アデライードは窓の外に目をやって、目を輝かせている。
妹のその様子に、一度優しい視線をやってから、温まるために手の中にカップを置いたまま、ラファエルは話し始める。
「アデライード。今日はこのまま雪は降っていくようだし、明日もきっと静かな日になるだろうから。これから少し、話をしてもいいかな? 芝居を見て疲れてないかい?」
アデライードは微笑む。
「疲れるどころか、楽しくて目が冴えてしまっています。きっと今、寝ようと思って寝室に行っても、絶対寝られませんわ」
「そろそろジィナイースのことを君に話しておこうと思う」
「ラファエル様とネーリ様の幼い頃のお話は、可愛らしくて大好き」
妹はそう言って、聞く体勢を取ったがラファエルは頷く。
「今日は思い出話じゃなく――彼の出自に関わることだ」
そこで、アデライードはすぐにいつもの話とは違うことに気づいたようだ。
「そう。賢い君には今更、重ねて言うまでもないけど。今から僕が話すことは、決して他言無用だ。いいね?」
静かに、妹が頷いた。
「はい。神に誓って」
ラファエルは小さく微笑む。
「僕はあまり神は信じていないけど、君がそう言うと、他の人間が言うのとは全く違うように聞こえるものだね」
暖炉の温かい火へと、瑠璃色の瞳を向けた。
「ジィナイースもそういう所がある人だよ。他の人間が言葉にする、他愛ない言葉でもあの人が言うと全く違う言葉に聞こえてくる。……違うかな。
言葉は同じでもそこに宿る力が、全く違うんだ。
他人が『君を信じる』と言っても、大概六割だ。
ジィナイースが『君を信じる』と言えば、あの人は死ぬまで僕を信じ抜いてくれる。
僕がジィナイースに会ったのは六歳かそこらの話だ。彼は当時から、その強さがあった。
僕は今までフランスで生きてきて色んな友人達も出来たけど、彼らの誰にもジィナイースのことは話してこなかった。
勿論特別な事情があったからだけど、このヴェネトで彼と再会し、君のことを少し彼に話した。君にだけは、彼のことを正確に話しておこうと思うと言うと、悩むことも無く頷いてくれた。僕の信じた人なら、何の心配も無いよという風にね。
彼はああいうところが、一番血筋なんだ。
大きな秘密を抱えていても、ここぞと言う時には迷いなく決断したり、相手を信じたりする。
普通の人間や心の弱い人間には決して出来ない果断。
僕はジィナイースは、この世の誰にも似てない特別な人だと思っているけど、ああいう所だけは彼は祖父にとても似ているし、血なのかなと思うよ」
「お祖父様……ですか?」
ラファエルは頷いた。
「ヴェネトのことを少し話したね。今の王は病床にあるけど、その先代だ」
「はい。確か、治世五十年という偉大な王だったとか」
「うん。海軍を所有しないヴェネトにおいて、自分で船団を組織し、王宮では無く自ら海の上に出て、ヴェネトの交易路を脅かす海賊達と戦った、そういう王だ。
彼の治世では、ヴェネトの玉座は【海の玉座】と呼ばれた。
王宮では無く、この王がいるところが政の中心になるということだよ。
彼は自分が王宮にあることを重視しなかった。
大切なのは、王である自分が国のために、日々何をするかなんだ。
実践だよ。
王のあり方は国それぞれだ。
場所によっては、王が王宮にいないと、国が瓦解することもある。
だけど、アドリア海にたった一つの島国として浮かぶヴェネトにとっては、彼は王は海の上にいるべきだと考えたのだろう。民の守りになるために。彼らがいつも自分たちは守られていると信じることが出来れば、それは国の平穏に繋がる。
ユリウス・ガンディノという、時代を作った。
彼はそういう、王だった。――ジィナイースの祖父だ」
さすがに、アデライードは驚いた顔をした。
「王宮には今、王妃セルピナがいる。
彼女はユリウスの実の娘だ。
でも、ジィナイースの母親は彼女じゃ無い。
ユリウスには娘がもう一人いた。セルピナの妹だ。
生まれながらに王妃となる才覚と覇気を持っていた姉とは違い、身体の弱い、儚げな人だったらしい。僕は会ったことは無いけれど……ジィナイースの母親なら、きっと美しい女性だっただろうね。
彼女は若くしてヴェネトの、中流の貴族に嫁いだ。
王家の姫の嫁ぎ先としては、異例なほど身分自体は高くない家柄だ。でも、当主がユリウス王の信頼する友だったという。ユリウス王にはこの二人の娘しか子供はいないから、娘は出来る限り身分の高い婿を迎えるのが普通ではあるけれど、気性の激しい姉と共に生きてきて、物心ついた時にはこの妹はすっかり気の弱い、内向的な性格になってしまったらしい。まあ、気持ちは分かる。側に太陽のような才気溢れる兄姉がいたら、萎縮していく気持ちもね。
とにかく、妹の方は気の弱い姫だったから、父王としては誇り高いヴェネトの六大貴族に嫁がせたり他国に嫁がせるより、自分の信頼する男ならば、少しくらい身分が低くてもそういう家の方が娘を大切にしてくれるだろうと思ったんだろうね。
そして彼女は嫁ぎ、城に残った姉よりも早く子供を産んだ。
子供は男の双子で、名をルシュアンとジィナイースと言った」
アデライードの顔に出た表情にラファエルは頷く。
「そう。今ヴェネト王宮にいて、【ジィナイース・テラ】の名を名乗っているあの王太子がルシュアンだ。勿論彼がその名を名乗っているのにはわけがあるけど、このあたりはまだ王妃の思惑が読めない。
ただ王妃セルピナは城に残り、婿を取り、彼が王となり、彼女が王妃となり、子供を産みその子供に王位を継がせることが使命だった。
周りがそう望んでいただろうが、一番それを望んだのは彼女自身だ。
でもそうはならなかった。
彼女は王妃としての気丈さも覇気も兼ね備えた女性だが、子供がどうしても出来なかったんだ。誇り高い少女だった王妃は、いかに王家の為とはいえ王に妾を許し、そこから子が生まれるのを望んで、自らは子のいない正妃になることが許せなかった」
ラファエルは火を見つめていた視線を外し、アデライードに目を向ける。
「これから素晴らしい人と出会い、結婚するはずの君に話すのも、少し心苦しい話ではあるんだが」
兄はそう言ったが、アデライードは首をゆっくり横に振った。
「お気遣い、ありがとうございます。でも修道院には結婚が上手くいかず、そのために足を運ばれる女性もとても多かったから、女にとって結婚が必ずしも幸せなものばかりでないことは、少しは私は知っています、お兄様。どうぞお気になさらず、お話し下さいませ」
「そうか。ありがとう。そう言ってもらえると少しは気が楽になる……」
ラファエルは小さく笑んで、久しぶりに紅茶を飲むと、続けた。
「身分の高い名門というものは、家の存続が第一だ。僕もこれには納得する。子が出来るか出来ないかということは、神の思し召しで、決して女性の罪ではないんだよ。
だから家の存続が掛かっているなら、正妻以外の女性を家に迎えることも、必要な場合もあるのだと思う。そういう場合は妾として、第二、第三の妻として迎えられることもある。決して不実だからではないんだ。
逆に自分の家のために、自分の子を生んでくれた女性に、「妻」以外の扱いを与える方がずっと不実だよ。或いは何も与えない方がね。だったら公に、きちんと身分を与えるべきだ。正妻から、立場を取り上げるのでは無く。
……話が少しずれるけど、僕はフランスの名門貴族として、そう考えてはいる。
ただし僕の父が、君の母上にしたことは、こういう家のために子を成すという、使命感とは全く次元の違う話のことだ。
当主としての使命と、男としての欲を、都合のいいように一緒に論じるのは間違ってる。
僕の父が君の母上にしたことは、間違いなく不誠実なことだ。例え、君の母上を一時にしろ、愛していたにせよね。だって、父にはもう跡継ぎとなる息子達は山ほどいたんだから。たまたま身を寄せた屋敷の侍女に手を出すなんて、本来名門貴族の当主がすることじゃない。
僕は君の優しさに触れるたび、自分の父親を恥じているよ。アデライード。
……君と君の母上には、本当に悪いことをしたと思っているんだ。
君の母上は、君の修道院に埋葬されておられるんだったね」
「はい……」
「君が僕に、一生母上の墓を守って欲しいと願うのなら、僕は自分の生きている限りその誓いを守るよ。君の母上の墓地を守るし、それを管理しているあの修道院を庇護し続ける。
僕だけじゃ無い、僕に子供が出来たら、その子供にもその願いを守らせる」
ラファエルがそこまで言ったので、アデライードは驚いた。
確かに彼は出会ってから、折に触れて、父に知られること無く生きてきた自分を哀れんで優しくしてくれたが、「父を恥じる」と口にして、ここまでのことをする用意が出来ている、と言葉にするのは初めてのことだった。
「女が子供を一人で作って産むわけじゃ無いんだから、当たり前だ。自分の子供が出来たらその子供も、生んだ女性も、死ぬまで大切にするべきだよ。少なくとも、忘れ物のように他人の家に勝手に置いてくるものじゃない。
君の母上は僕の父にも、気を遣ってくれた。大貴族だからと。自ら身を引き、娘が生まれることを知らせないでくれた。そのことには、本当に感謝してる。僕の家が揉めないように、計らってくれたんだからね。本来そんなことを彼女が考えなくてもいいのにだ。
感謝はしているけれど、決してそうしなきゃいけないわけじゃないんだ。
僕の父は幸運だった。自分は勝手なことをしてもそういう彼を、気遣ってくれる女性と出会えたんだからね。だから僕は、君や君の母上にはいくら感謝してもし足りないんだ」
「ラファエル様……」
「例え君がそんなことをしなくてもいいと言っても、僕はあの修道院を守るよ。僕も決して好きでこういう身分に生まれたわけではないけれど、様々な恩恵を、おかげで日々受け取って生きてきた。あの父の息子である僕の、使命の一つだと思ってる」
なんと言えばいいのか、という顔をしていたアデライードだが、ラファエルがそこまで言うと表情を緩めた。
「ラファエル様は私をこのように公に、妹だと扱って下さいました。お父上様に知ってもらわずとも私は十分、幸せですわ。母の顔も心も、私は触れることは出来ませんでしたけれど、……でもラファエル様がそんな風に仰って下さったことを、喜んでいると思います。
私たち母子も、貴方に深く感謝しておりますわ」
「……ありがとう。……僕が思うに、この一連の出来事が起きた理由には大いにあの王妃セルピナの、人柄が関わっている。
つまり彼女がああいう、自らの思い通りにならないことを一つも認められず、欠点の無い王妃であろうとする強い欲求、その場にいる人間の、常に頂点に君臨したいという願望、そういう自我。
これを持っている女性だったということが、全てのことに関わっている。
セルピナは子供が出来なかった時、王に妾を許し、子を生ませるという道を選ばなかった。彼女は自分の妹から一人、子供をもらったんだ。双子の兄。
だからルシュアンとセルピナは、血縁的には伯母と甥だ。実の母子じゃない。
とはいえこれは当然、国の機密だ。
セルピナは側にいる人間とは、自分は別格である、という風に振る舞いたがる性格をしている。その場に人がいた場合、彼女は頂点でいたがる。妹が早くに中流貴族に嫁いだのも、もしかしたら王以上に、セルピナの意志が重んじられたのかもしれない。
この姉妹の才覚には大きな差はあったが、ユリウスのたった二人の娘という点では、二人は同格だ。もし同じ城に彼女たちが留まり、それぞれに夫を取ったらどうなったと思う?
二人に子供が生まれていて、もし自分の子より妹の子の方が、優れていたら?
セルピナ・ビューレイは非常に賢い女性だ。それ故に彼女は他人に対して攻撃的に先手を打つし、自己防衛本能も強い。彼女は気に入らない芽があれば、即座に摘むのが信条だ。
妹を非情に城から遠ざけ、自らの覇権しか考えなかった。
セルピナに子供さえ生まれていれば……ジィナイースも王家にいっそ関わらず、穏やかな日々を今も暮らしていたかもしれないね」
「……ルシュアン様はその事情をご存じなのでしょうか?」
「今のところ、分からない。自分の実の母ではないこと、そしてジィナイースという双子の弟がいたこと、この辺りの事情を彼が全て知っているかどうかは。
……ただ、王宮にいると色んなことを感じる。
僕が今のところ感じているのは、王妃セルピナが暗躍するとき、大抵あの王太子は蚊帳の外に置かれていることが多いということだ。だとすると全ての事情を知る立場に、王妃が彼を置いていない可能性が高いと思う。王太子は王妃の強い支配下、管理下に置かれてはいるが、あの二人が一緒に行動しているところは、夜会以外はあまり見ないからね。
――とまあ、ここまで説明をしてきたけど、正直ここまでだったら、君にとっくに話していただろう。別にジィナイースの生い立ちは複雑だから、余所では他言無用だよと君に言えば、それで済むことだからね」
「ジィナイース様が……王家の血を引く方である以上に、重大なわけがあるのですね?」
「うん。何だと思う?」
「想像もつきませんわ。ジィナイース様は……その事情を全てご存じなのですか?」
「うん。一応ね。自分の母親が誰か、自分に兄がいること、彼らがどういう身分なのかは知ってる。ユリウスが彼に話したそうだよ。
セルピナは気性の激しい女性だった。それは、あの海神と呼ばれた父親さえ、時には持て余すほどだったようだ。セルピナは、ユリウスを憎んでる」
「実のお父様を?」
「多分ね。……理由はまだ分からないが、偉大すぎたのかもしれない。
偉大すぎる父というものは、子供にとって誇りだが、重荷でもある。
父と子供は必ずしも敬い合う関係では無いよ。
でも普通は、偉大すぎる父なら子は争うのも諦める。
父は子にとって、生まれたときから父だからね。
だがセルピナは例え偉大なる父でも、争うことを恐れなかった娘だ。
彼女が凡庸では無いのは、矜持の高さとその闘争本能かもしれない。
信じがたい牙と、他人に向ける闘争本能と聞いて、何か思い出すことがないか?」
美しい紫がかった瞳をアデライードが瞬かせる。
聡明な彼女はすぐに、その名を口にした。
「【シビュラの塔】……」
ラファエルは頷いた。
「そう。あの恐るべき古代兵器はすでにこの世から三国を消滅させた。
……僕には、あの王妃の人柄を知れば知るほど、どうしても彼女が【シビュラの塔】を起動させ撃ったとしか思えないんだ。
僕にはあの塔のことは、正直全く全容が見えてない。何で動いているかすら、分からないんだからね。でもあれがどんなものか分からなくても、感じるんだよ……。どういう人間が、あれを他国に向けて放つのかは。
飽くなき頂点への渇望と、怯えた時にさえ牙を剥き返す、人に頼って救われたり、支えられたりすることが考えられないほどに、傷ついた時でも戦うことで自分を慰める、そういう救いの無い闘争本能を持つ人間なら、あの古代兵器を他国に向けて放つかもしれない」
正直アデライードはラファエル越しに王妃セルピナを見ていたので、兄であり、他国の人間であるラファエルを寛容に迎え重用してくれている王妃には、感謝をしていた。
恐ろしい人だと思うことや、まだ全てを安心させてくれる、そういう人では無い、緊張感は持っていなければならないことは自覚していたが、感謝は本当だった。
実際ラファエルも、感謝は持っているだろう。
これは彼女の「本質」の話なのだ。
ラファエルは、セルピナ・ビューレイが【シビュラの塔】を放ったと確信している。
普段、滅多なことでは人を悪く言ったり、証拠も無く人を疑ったりすることがない彼が、ここまで言ったことは、きっと大きな意味があるとアデライードは思った。
……きっと、彼女があの古代兵器を放ったのだ。
(でも何故……)
他国に脅威を与えるのであれば、何もそこに生きる者を消滅させなくても、どこか海にでも一発放てばいい。それだけでも十分、他国への警告にはなるはずだ。アデライードには、この世に三国を消滅させるだけの理由があるとは、到底思えなかった。
どんな出来事があれば、他人をそこまで憎めるのだろう?
「そうなんだ。アデライード。僕も確信しているが謎は残っている。そこなんだよ。彼女の謎は。ヴェネト王宮では、誰も彼もがセルピナの激しい気性を恐れて、口を噤んでいる。
過去何があったかを話そうとしない。
ただ彼女はユリウスが亡くなったあと、その痕跡を消そうとしている。ユリウスと共にヴェネトの為に戦った船団を解散させたのも彼女だ。本当に力を欲したなら、普通は自分の元に併合しただろう。
セルピナ・ビューレイは野心があり、力も欲しているけど、亡き父の後継のように自分が扱われたり、ユリウスの力を借りることは、徹底的に拒絶している。
これが、父を嫌っている以外の理由で行われるとは思えない。
僕が王宮に出入りするようになっても、最初はユリウス王の名は全く聞かなかった。
誰も口にしなかったからだ。
ユリウスの名は王宮では封じられているけれど、王都ヴェネツィアの民は当然だが、王宮より海の上で長く過ごしたこの王を、父のように慕った。
あの王妃は城下に現れるのも稀だ。偉大な父への賛辞を聞きたくないのかも。
しかしユリウスの力は、歴史に裏付けされた確固たるものだ。
空想じゃない。彼は一代でヴェネトを豊かな貿易都市にした。国を作り上げたんだ。
王にとって、国を作り上げ、確固たるものにする以外に偉大な業績は他には無い。
つまりセルピナが父を超える力や存在感を欲した時に、道は二つしか無いということだ。
同じように国を作り上げるか……――反対に滅ぼすかだ」
「でも……王がそのように振る舞うことが許されるでしょうか?」
「セルピナにとって偉大なる父は神にも等しい。その人と信頼を結べず、愛し合えない関係になってしまえば、もはや神の怒りなど恐れることは無い」
修道院で生きてきたアデライードは、緊張感を帯びた表情をした。
彼女は王妃セルピナの恐ろしさと危うさを、理解できたようだ。
「ユリウス王の名は王都ではまだ強い影響力を持つ。だが王宮では皆無だ。ユリウスがもし、王宮で権威を振るう王であったのなら、こうはならなかったかもしれない。
父に反抗する娘を、憎しみを、きっと誰かが諫めたはずだ。
ユリウスのしたことは、ヴェネトという国のためには正しいことだったが、王宮という場所を軽視したのだけは間違いだ。セルピナとの不和をそのままにして、亡くなったこともね。おかげでユリウスを失って行き場のなくなった彼女の怒りがジィナイースに向いている」
「ネーリ様に……?」
「全てを理解しようとしてはダメだ。アデライード。この世には理解しがたい行動をする人間もいるということを、きちんと分かっていなくては。大切なのは真実を正しく追うこと。
ジィナイースを見た時。彼という、画家を見た時、不思議に思うことがあるだろう?
そう。何故あれだけの画を描ける彼が、未だに無名で、居住地さえ持っていないかということだ。あれは王妃がそうさせている。人を使ってね。
ジィナイースが競売に掛けようとした絵を秘密裏に城の者に買い取らせて、ジィナイース・テラの名を以後使うなと脅しをかけてきた。だから彼はネーリ・バルネチアの名を今は使っているが、この名で絵を売ってもヴェネトである限り、結果は同じだったらしい。
ジィナイースはそれだけで、自分がヴェネトのどこかの家に引き取られたり、自分で住もうと思っても、必ず王妃から妨害されたり排撃を受けるということが予想できた。
だから彼は祖父を失ったあと身寄りが無くても、子供でも、誰かに引き取られることが無かった。ジィナイースが孤独で、一人で彷徨って、たった一人で絵を描いている限り、王妃は邪魔してこないことを知ってるんだ。
彼が絵を売って世に知られようとしたり、誰かの養子になって一緒に生きていこうとしたりした時は決して許さないだろう。」
「でもどうして……ルシュアン様は……妃殿下の王子は、ジィナイース様の兄上なのでしょう? どうして弟君だけそんな、排撃を。どうして双子の兄弟が、同じお城にいてはいけないのですか?」
「――王妃の中でルシュアンとジィナイースはその存在において、全く違うものだからだよ」
分からないという顔をしたアデライードに、ラファエルは優しく笑いかけた。
「そうなんだ。普通の人間は、君と同じように思うだろう。彼らは双子の兄弟で、元々セルピナは跡継ぎがいなくてルシュアンを城に迎えた。妹の子を。
今王宮にいても、セルピナから、王太子への愛情は確かに感じられる。それは、間違いなく母から子に向けられるものだ、と言っていいものだと僕は思う。
あの王太子は誰にも似てない。
育ての母のセルピナのような覇気や野心もない。
ジィナイースのような圧倒的に人を惹き付ける魅力、非凡さも。
僕もフランスで多くの王子を見てきたし付き合いもある。
ルシュアン・プルートは凡庸だ。
それでもセルピナは、彼を大切に王太子として遇してるし、育てている。
彼女が自らの権力維持だけが望みなら、きっと他の王子を欲しただろうと思う。優秀な王子になれる子供をね。
実際、僕の母親は今でこそ僕に優しいけれど、子供の頃の無力で出来の良くない頃の僕は、言葉に出して貶めて、他の兄達と明確に差をつけて可愛がらなかったよ。あの母親の姿を覚えている僕にとっては、王妃セルピナがルシュアンに向ける愛情は、母の愛情以外の何物でも無い。
そのルシュアンへの愛情が、曲者なんだ。
名門貴族の家に、二人の母がいたら、必ずと言っていいほど争いの種になる。
それは彼女たちがそれぞれの子供に愛情を注ぐからなんだ。
王妃セルピナはルシュアンを我が子と思い、愛情を注いでいる。
ジィナイースは彼の双子の弟だ。
セルピナが彼らの実母なら、きっと平等に愛情を注いだのかもしれない。
だが彼女にとってルシュアンは自分の子供だが、ジィナイースはあくまで妹の子供なんだ」
アデライードには分からなかった。それでも、妹の子供でも近親の子ではないかと思う。
憎む理由にはならない。
「ラファエル様は……妃殿下がご自分の妹君を、自分と争う立場にいずれならないように、早くに城から出したのではないかと仰いました。ジィナイース様は城におられると、王太子様の立場を脅かす可能性があるから、庇護を一切お与えにならないとお考えですか?」
「最初はね。ヴェネトに来た当初はそう思ってた。僕が最初にヴェネトに来たとき、ジィナイースがこの国にいることは分かっても、居場所が分からなかった。彼は家を持っていなかったし、彼の絵も全くこの国にはなかった。彼の絵は王宮や大聖堂にさえ飾られていいほどのものだから、おかしいとすぐ思ったよ。
僕はこの国に来て、ジィナイースより先にルシュアンに出会った。
彼が僕に、躊躇いもなく『自分はジィナイース・テラ』だ、と自信満々に名乗ったときの僕の気持ちが分かるかい?」
ラファエルは静かに笑んだ。
「……心の底からゾッとしたよ」
「ラファエル様……」
「意味は分からなかったけど、事実だけで、ゾッとした。だって、僕が十年探し求めてきた名を、全く顔を知らない人間がさも当然のように語っているんだもの。
でも……何となく僕には、予感があった。
ジィナイースは僕にとって、太陽のような人なんだ。
僕より遙かに強くて、まぶしくて、きっとどんな困難があっても彼自身の力や、意志や、或いは彼を見た人たちが、彼を慕って、彼を助けてくれるだろうと、信じることが出来た。
あの時、彼が命を奪われてこの世に無い、そういう風に感じなかったんだ」
「お二人は信じ合っておられますもの。きっと、何か心が繋がっておられて信じることが出来たのですわ」
「王都をくまなく探して、実は神聖ローマ帝国のフェルディナントの所で、ジィナイースの絵を見つけたんだ。でも一目で分かったよ。彼の絵だということが。そしてミラーコリ教会で彼のアトリエを発見して、待ってるうちに出会えた」
「ジィナイース様の絵が、導いて下さったのですね」
「そうだね。……そうなんだよ。
ジィナイースには、絵がある。
彼は名乗らなくても、絵を見るだけで、彼の存在を示せる。
王妃には、これは由々しきことなんだ。
彼の絵には影響力がある。
彼がもし、祖父であるユリウスの絵や、王宮や、ユリウスと共に戦った船団の船を描いたら?
ヴェネツィアの人々は、一撃できっと目を奪われる。
彼が注目され、そうしてるうちに出自も明らかになるかもしれない。
ルシュアン自身はどうか知らないが、王都の民は少なくとも、彼はセルピナの実の子だと思ってる。そこへジィナイースの存在が明るみに出たら、彼が養子であることも発覚するだろう。自分が子供の産めなかった王妃だと、民に知られる。
もしくは、それよりも怖かったのは、すでに亡くなった、自分が幼い頃から威圧し、見下げてきた妹が、双子の王子を産んだ実の母君だと、そう讃えられることだったのかもしれない。
ルシュアンとジィナイースが同じ王宮にいたら、きっと人々はジィナイースを玉座に望むだろう。
ジィナイースは、ユリウス・ガンディノの血筋の中で一番彼に似ている。
姿は母親似のようだけど、……なんというか、魂が似てるんだよ。
誰にでも分け隔て無く、手を差し伸べ共に生きようとする、そういうところも。
ユリウスが死んだ時、ジィナイースはまだ子供だった。
両親は亡くなっていて、流行病が原因だったから彼の実家ももうヴェネトには無く、一族も散り散りになってしまってるんだ。
身寄りの無い子供がそんな状況で伯母に激しく排撃されたら、普通は泣いて何にも出来なくなるよ。
でもジィナイースは生きた。
教会に助けてもらいながら、身寄りの無い子供として彼は生きた。
王宮に伯母も実の兄がいることも知っていたけど、彼はそんなことは一言も誰にも言わず、ヴェネトを移動しながら、絵を描いた。
あの、芯の強さだよ。
王宮に拘らなかった、ユリウスの魂を、一族でジィナイースが最も色濃く受け継いでいる。セルピナにとってはそれすら、忌々しいのかもしれないけれど。
……僕は孤独は怖い。
幼い頃、両親に自分が何も期待されてないと感じたとき、涙が出たし、上手く生きていけないと思った。ジィナイースの勇敢さを、友として……本当に尊敬している」
アデライードは微笑んだ。
「……はい。わたしも」
「そうだね。でも、話はそう簡単じゃ無いんだ。
不思議に思わないか?
勿論、そんなことにならなくて良かったと、僕は心の底から思ってるけど……王妃セルピナがそこまでジィナイースを排撃するなら、何故命を奪わないんだ?
名を奪ったり、絵を奪ったり、彼を孤独にすることは、死んでもいいと思っている証だ。
でも、王妃は実際に手を下してはいない」
「……人の命を奪うことは、この世で一番恐ろしいことですわ。きっと、それだけは出来なかったのでは」
「そんな理由なら可愛いものだけど、残念ながら多分違う。何故ならセルピナ・ビューレイは人の命も奪える人間だからだ」
はっきりとラファエルは言った。
「殺しが怖いなんていう女じゃない」
「でも……」
「殺せなかったんだ」
ラファエルはもう一度、揺れる暖炉の火に、視線を送った。
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