むじな ~ Lafcadio Hearn New Translation

博雅(ひろまさ)

第1話

俺は兄弟子のみならず、恋した女郎までも手にかけてしまった。あんなことがなければよかったのに。


☆☆☆


俺は昔から物覚えの悪い人間だった。それは特に人間関係にも現れ、かいつまんで言うならば、人の顔と名前が一致しないのである。これは接客を伴う商売では死活問題だ。そして俺は、働いていた蕎麦屋でいつものように兄弟子に罵倒されていた。師匠は少し前に流行り病で他界してしまっていたので、間に入ってくれる人などはいなかった。


「お客様の顔を憶えられないとは何事だ!」


常連だと気づかず接していたのである。道理でそのお侍様が不機嫌な顔をされておられたわけだ。


そんな俺の発散方法は、お気に入りの木刀で夜な夜な人形をしばく事だけだった。

罵詈雑言で叱咤され、それを木刀で慰める、そんな日が続いていたある日のこと。


「あら、兄さん」


見たことのない女郎が兄弟子を呼んだ。知り合いらしい。俺はその姿を見た瞬間、全てが凍りついてしまったように感じた。つまるところ、恋に落ちたのである。二十三歳、人間関係も希薄で、しかも童貞だった俺は、彼女と兄弟子とのやりとりを、けして遠くからではない場所で眺めることしかできない。それでも、それでも俺が彼女を想う気持ちは募るばかりで、知り合いに仲介を頼んで彼女に恋文をしたためた。返事は肯定的なもので、肉体関係にまでは発展せずも、彼女は俺の良き想い人となってくれた。


だが、事件は突然起こる。

俺は例の悪癖…もとい、顔を忘れるという愚行をしでかしてしまう。太客の顔を忘れ、上得意のお客様としてのもてなしができなかったのだ。しかも今回は兄弟子はお客様の面前で俺を強い口調で叱りつけた。


(くそっ、こんな恥ずかしいことをお客様の眼の前でやられるなんて)


その夜、俺は兄弟子を殺めようと決意し、その日の丑三つ時を狙って彼を始末した。道具は金物屋で調達。流石に、商売道具である包丁は使いたくなかった。


☆☆☆


世間が、割と名のしれた蕎麦屋の主人・つまり俺の兄弟子が殺されたことについてあれこれ詮索を始めるにはそう時間はかからなかった。まずは噂話から始まり、そして瓦版,ついで御触書という具合に、事態は深刻なものになっていった。不思議なことに、兄弟子を慕うように連日訪れるようになっていた女郎の姿は露の間すらも現れなかった。


俺はといえば、兄弟子の日記を読むにつれ、かの女郎がいかに俺を弄び、遊びの種にしていただけだということがわかってきた。彼は俺を彼女から守るために、あえて自分と彼女が親しいふうに振る舞っていた、ということも。


俺は泣いた。

しかし、やってしまったことは仕方がない。奉行所に自首することも頭をよぎった。


そんなときだ。俺がむじなと出会ったのは。


蕎麦屋を一人で取り仕切っていた俺は、店を閉める直前に入ってきた客に気づいた。


「ごめんなさいねお客さん、今日はもう閉めちゃうんですよ」


頭巾を深く被った貴族階級と思しきその女性は静かにこう口にした。


「そうではない」


「と、いいますと?」


「御兄弟を殺めなさったのはお主じゃろう」

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