第9話

 ――自分の娘じゃない。絶対に違う。私の娘は取り替えられた。

 そう主張するたびに、奇異と哀れみと疎ましげな視線を向けられた。その視線に刺されるたびに、神室饗子かむろきょうこの声は小さくなり、やがて沈黙した。

 香子きょうこ。胸に抱くのも忌まわしい、我が子ならざる赤子に、そう名付けた。

 神室の家の長女には、ある責が負わされる。七つになる前に、神室神社のハコニワでカンバラエをしなければならない。

 しかし、御山は削られ、社は取り壊された。この因業に塗れた習慣を断つための決断だったと聞かされている。

 かむろさまのハコニワがなくなったのなら、散らすべきしゅも一緒に消えたのだと思っていた。

 だが夜眠る度に夢を見た。山道を登り、暗い社に幼子の手を引いて登っていく夢だ。

 その子供は見たことのない顔をしていた。香子ではなかった。直感で分かった。あれは、あれが、我が子だ。

 かむろさまは消えてなどいなかった。社跡のこのマンションに、留まり、呼び続けていた。

 どうすれば。どうすればいい。日に日に育っていく香子……夢の中の子供とは似ても似つかぬその顔を見るたびに、焦りが生まれ、ストレスから酒に溺れた。

 マンションの理事会長に納まっていた叔母は時々様子を見に来たが、夢の話をすると怯えた顔つきになり畏まった。文字通り平伏して、哀願した。

 カンバラエをしてくれ、と。

 溜まりに溜まった呪いは、今やこのマンションから溢れ出しそうなのだという。

 追い払った。娘はどこかの誰かに連れ去られてしまった。今いるのは紛い物だ。香子を捧げても、かむろさまは満足しないだろう。

 だが例え受け入れられたとしても……自分には無理だ。

 この、偽物の娘を。

 ――自分は、愛してしまったから。

 誰かに渡すことなど、考えられないほどに。

 そのことがますます自分を追い詰めていることは自覚していた。本物の娘が享受すべきだった愛を独占する香子が憎かった。自分が愛しているのに勝手な話だ。その矛盾にますます精神はささくれ立ち、歪んでいった。

 日に日に病状は悪化し、ついに精神科の病院に通うことになった。そこで出会った。

 鴉白桂馬あじろけいまという、医者に。


 ●


 桂馬は軽薄な男だった。患者から人気があったのは真摯に治療するからではなく、頼めば簡単に薬の処方箋を出すからだ。

 だが、その軽さに惹かれてしまった。他の女患者にも手を出しているという噂ももちろん知っていたが、人肌が、生きている男の温もりが恋しかった。

 夫はいない。神室家は婿を取らない。神の嫁として、知らない男と交わり、子を成すのが役目だ。時代錯誤も甚だしいが疑問に思うことすらなかった。

 そんなことすら吐露していた。桂馬が真剣に受け取ったとは思えない。だが決して口外してはいけない家の秘密を晒した事で、心は確実に軽くなり、生きる活力とでも言うべきものが湧き上がってきて、アルコールの量が減り、明るさを取り戻した。

 反面、体調を崩した。貧血気味になり、嘔吐した。

 そしてついに髪の毛が抜け始めて、ようやくこれがかむろさまが原因だと気付いた。

 厭だった。離れたかった。忘れたかった。その思いも桂馬に洗いざらい話した。薬の量が増えた。

 ますます悪化する身体に、娘……香子も流石に不安を覚えたらしく家にいる時はぴったりと寄り添ってくるようになった。

 抱き寄せ、匂いを嗅ぐ。汗と、子供特有の匂いがした。逞しくも儚い、〝生〟を想起させる香りだった。

 ダメだ。やはりこの子をカンバラエに使うことは出来ない。改めてそう思ったが、悪夢を見る夜は増えていった。

 薬と、そして男に依存した。桂馬は既婚者だとは知っていたが、誰かと肌を重ね合わせないと狂いそうだった。

 そして寝る度に夢を見た。暗い山道を、顔を知らない我が子と歩く夢。起きると決まって枕元に髪の毛と、太い芋虫が落ちていた。もう、ダメだと思った。

 実際、終わりはすぐにやってきた。

 ホテルで桂馬がシャワーを浴びている時、桂馬のスマホに着信が入った。覗き見るつもりはなかったが目に入ってしまった。「切華」という表示とそこに映る女性、そして彼女が抱いている子供の写真を。

 夢の中で見た顔だった。

「あ」

 それは意図して出した声ではなく、ただぽかんと口を開けていたところに肺が収縮したために押し出された、なんの意味も、感情もない音だった。

 がたん、と音がしたのでそちらを見遣る。気まずそうに裸で立ち尽くす桂馬がいた。貧相な男だな、と思った。髪の毛艶がよくない。きっと睡眠や食事が荒れているのだろう。

 饗子はにっこりと微笑むと、自らの髪の毛をぶちぶちとその場で引きちぎった。


 ●


 どうやって家に帰り着いたのか覚えていない。

 頭は所々地肌が見えるほどに髪の毛が無くなり、服も半裸と言っていい様だった。

 千切った髪の毛を投げつけたら、桂馬は滑稽な悲鳴を上げていた。その無様さを思い返して、けたけたと笑う。

 香子を抱いて眠りたい。ただそれだけを考えていたように思う。だが部屋には誰もいなかった。

 ――おかしい。午後11時を過ぎている。

 いつもは先に布団に入っているのに。どこかに隠れていないか部屋の隅々まで確認する。居ない。

 隣の部屋のドアを激しく叩いた。誰も出てこない。

「誰かあ!! 香子をお!! 見ませんでしたかあ!!」

 夜遅くであることなど構わずに、共用廊下で叫んだ。

 ……誰も顔一つ出さなかった。何かが、おかしい。

 唐突に、電子音鳴った。スマホの着信だった。ノロノロと取り出して、画面を見る。知らない番号だった。

「……はい。もしもし」

『神室さんのお電話で間違いないでしょうか?』

 硬く事務的な声が用件を切り出す前にまずこちらの確認をしてきた。何かひどく嫌な予感がした。

 ――香子が車に轢かれた。

 状況証拠から、香子が飛び出したという。目撃者は無し。車はそのまま走って逃げた。匿名の通報で駆けつけた救急車により病院に担ぎ込まれたが、心肺停止。饗子には連絡が付かなかった。

 当然だ。その時、自分は男に抱かれていたのだから。

 何故、車道に飛び出したののかは分からなかった。病んでいく親に耐えきれなくなったのか。それとも誰かにそばにいて欲しかったのか。

 とにかく、そうして幼い命はペースト状の肉屑となってアスファルトの隙間にこびりついた。

 嘆いても嘆いても、もちろん香子は帰って来なかった。

 食べ物が喉を通らず、衰弱していく饗子を見かねて、叔母が強制的に病院に連れて行った。

 医者に飲まされた薬のお陰で、吐きそうなほどの後悔や希死念慮は霧散した。しかし気力も同時に消失し、ぼんやりと点滴の雫が落ちるのを見つめるのが日課になった。

 そしてある日。

 見慣れない看護婦が点滴を変えた後、輸液パックが真っ黒に染まっているのに気付いた。

 どうでもよかったので、そのまま眺めていた。墨のようなとろみのついた液体が、管を通り静脈に侵入した瞬間、饗子は激しくのけぞった。ベッドサイドモニターのあらゆる数値が乱高下する。

 身体の中に流れ込んできたのは、だった。そうとしか呼べない、もの。それが饗子の中で訴えていた。自分の死の、真相を。

 香子の、死の直前の記憶の再生が始まった。


 ●


『もしもし? 香子ちゃん?』

「はい、そうですけど」

 電話を受けたら、知らない女の人が自分の名前をいきなり呼んできたので、びっくりしたけど思わず返事をしてしまった。

『お母さんは……いるかな?』

「……あなたは、だれですか?」

 怪しい。最近お母さんが家にいないので、電話の受け応えは香子がほぼ担当している。その経験から言って、名乗らずにこちらのことを知りたがるのは悪い人の電話ばかりだった。

『……』

 女の人は、黙ってしまった。やっぱり怪しい。切ろうとしたら、『待って!』と大きな声で止められたので驚いて受話器を落としかけた。

『私は……』

 言い淀む。沈黙が続き、なんだか怖くなってきたので、やっぱり黙って切ってしまおうかと思い始めた頃、女の人は言った。

『私は……貴女の、お母さん、なの』

「えっ」

 息が止まった。「お母さんはいます」とすぐに答えられなかった。

 何故なら、お母さんがお薬を飲んでぼんやりとしている時に、ぽつりと漏らした事があるからだ。

 香子の目を見ながら――あの子を返して、と。

 似ていない髪質や、顔の見た目など、前から持っていた疑念が点と点で結ばれていく。母の愛を疑いたくない、その一心で目を逸らしていた事実が、知らない女の人の一言で剥き出しにされていく。

「ほんとの、おか、あ、さん?」

 ――言ってしまった。口にしてしまった。途轍もない罪悪感と、そして同じくらいの期待が心臓の辺りで暴れ回っている。

『そう。私は、鴉白切華というの。あなたを、産んだのは私よ』

 どうしよう、どうしよう。お母さんに電話した方がいいのかな。でも前にお出かけしてる時に電話をしたらすごく怒られた。やめておいた方がいいのかな。

 頭がかっかとして、考えがぐるぐると纏まらない。

『今から会いたいんだけど、お母さんはいない……のよね?』

「……うん」

『じゃあ、今からマンションの外まで、出てきてくれるかな』

「え、でも」

 時計を見る。夜の9時。遅くに一人で外に出歩いてはいけないと、お母さんからはきつく言い渡されている。

『少しだけでいいの。一瞬、顔が見たいだけだから』

 すごく優しい声だった。最近のイライラしたお母さんとは対照的な、もう朧げな記憶の中にしかない、「母」の声だと思えるほどに。

「……わかった」

 本当に少しだけ。マンションの前まで。それならバレないし、もし見つかっても言い訳はきくだろう。

『実は、もうすぐ近くまで来ているの。今出てきてくれる?』

「うん」

 優しい声に導かれるように、香子はふらふらと外に出た。

 ガン、ガン、ガン。共用廊下の蛍光灯に大きなカミキリムシが繰り返しぶつかっていた。

 ギッ。

 一声鳴くと、香子の足元にぼとりと落ちてくる。腹を向けて、脚をピクピクとさせている。かわいそうに思った香子は、カミキリムシを拾い上げるとポケットに仕舞い込んだ。

 マンションは静かだった。それが異常な事だとは、普段言いつけを守って外に出ない香子には分からなかった。

 エレベーターで下に降りる。いつもいる管理人のおじさんはもう帰ったようで、エントランスホールにある管理人室の受付にはカーテンが降りていた。見咎められることなく通り抜けられることに、少しほっとする。

 そのまま、たたた、と足ばやに外に出る。息を弾ませて、ぼんやりと足元を照らす黄色っぽい電灯に沿って、大きな杉の木の下へ。

「――っつぅ」

 不安と期待で回転していた脚がびくりと引き攣った。

 太ももの辺りに、激痛。ポケットの中。カミキリムシが香子に噛みついている。

「あっ、」

 慌てて出てきたので、うまく結べていなかった靴紐が解けた。踏みつける。天地が逆さまになる。

 二度、三度と転がって、止まった時に香子の眼前にあったのは、車のタイヤだった。


 ●


「あ、あああ」

 娘の死の真相を知った饗子は、意志というものを感じさせない声を老人の屎尿のように垂れ流した。点滴から黒い液体が際限なく体内に侵入してくる。

 香子が死の間際に感じた痛みや絶望、孤独が、内側から饗子を破壊する。

 いつの間にか、病室には沢山の人間がいた。上下マンションの住人たちだった。神代かみしろの御山で、神室の下に仕えながら生きていた者達の末裔。

 彼らは憐んでいた。悲しんでいた。そして……喜んでいた。

 巫女が正しい道に戻るのを、歓迎していた。

 呪いを飲み、呪いを吐く神の依代になることを寿いでいた。

 神室饗子は、今こそ自分の名の意味を知った。

 神のハコニワへときょうする子。

 そして……受け入れた。

「ごめんねぇ、きょうこ」

 ぎい。

 点滴バッグの中に浮かんだ芋虫が、鳴いた。

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