第8話
鴉白七香は母と手を繋ぎながら、山道を登っていた。カミキリムシが、二人を先導するかのようにゆっくりと飛んでいる。
しゃん、しゃん、と鈴の音が辺りに響く。気付けば辺りには長い髪で顔面を覆い隠した白装束の人たちが並んでついてきていて、彼らが手に持つ杖に付けられた鈴が夜気を震わせているのだった。
どこに行くの、とは尋ねなかった。この世に生まれ出た時から行くべき場所なのだと、髪の毛の一本一本にまで染み渡っていた。
かむろさまのハコニワへ参るのだと。
母の手はぶよぶよとしていて冷たく、湿っていた。しかし七香はそれを不快だとは感じなかった。
「
母が自分を呼んだ。それがわたしのなまえ。ほんとうのなまえ。
「なあに、お母さん」
「ごめんねえ、供子」
何を謝られているのか一瞬分からなかったが、すぐにあのことだと気づいた。
「カンバラエなら、わたし、怖くないよ。いっしょうけんめいやるよ」
聞こえているのか、いないのか。母はただただごめんねえ、ごめんねえ、と髪の毛の隙間から覗く腫れ上がった唇で繰り返す。
やがて一行は山の上の
マンションの入り口にあるものだ、と七香……供子はすぐに気が付いた。ここが何処なのかは分かった。けど、いつなのだろう? 時間感覚が曖昧だ。そういえば、自分はいつから母とこうして一緒にいるのだろう?
そんな疑問に答えるかのように母が供子の手をきつく握った。
「お母さん、いたいよ」
うめくような供子の声を無視して、母は相変わらずごめんねぇ、ごめんねぇと繰り返しながら、足を速めて社に向かう。
「お母さん、いたいよ、もっとゆっくり歩いてよ、」
半ば引き摺られながら、供子の中にようやく小さな恐怖が芽生えた。
「は、はなして……」
手を振り解こうともがくが、めきりと指の骨の軋む音が答えだった。
「やだ、お母さん、やだ……」
「ごめんねえ、ごめんねえ……」
●
羽佐間信男は暗く狭い場所にいることに気が付いた。寝返りも打てないほど窮屈な箱……いや棺桶の中のようだった。
僕は、死んだのか――。
それは自明のことのように思えた。記憶があったから。黒い何かが自分の首に巻きつく瞬間の、ぞっとした冷たさの感触が。だがこの身体中の痛みは生きているとしか思えなかった。
――まさか、蘇生した?
納棺されてからの蘇生は、例が少ないながらも存在するらしい。早とちりの医者とせっかちな葬儀屋が組み合わされば、確率上は起こり得る。
急激に焦燥が発生した。とにかく体をゆすったり捻ろうとするが、狭すぎるせいかろくに身動きが取れない。
声を出そうにも喉の奥にまで何かがみっしりと詰まっていた。意識した途端、強烈な催吐感が迫り上がってきたが、絡みついているかのように食道にへばりついている。
――外に、誰もいないのか!?
人の気配は確かに、ある。囁きのような、ざわめきのような音がずっと聞こえている。
(……人、だよな?)
焦りが急激に冷却される。全ての動きを止め、耳を澄ました。
「こんわけぇしばはえくかむろさまさくぎらねばなんねぇ」
声が聞こえた。しわがれて掠れていたが、間違いなく人の物だ。だが内容が問題だった。かむろさま、と確かに言った。訛りが酷いが、どうやら自分は「くぎ」られるらしい。
区切る。釘。
――
どれほど暴れようが助けは望めないのが確定し、じわじわと吐き気に似た絶望が胸中に湧き上がってきた。
なぜ、どうして自分がこのような目に遭うのか理解が出来なかった。
……心当たりがあるとすれば、それはかむろさまについて調べた点だった。だが研究者として呪いや祟りは確かに研究してきたが、それは特定の共同体の中でのみ作用する力であって、こんな創作のホラーのような理不尽な目に遭わせる物では断じてない。
つまり今自分は呪いではなく、かむろさまを信仰する何者からによって拉致監禁されている。そう考えるのが自然だ。
――確かに自分は死んだのだ、という先ほどから抱いている確信から目を逸らせば、それは妥当で常識的な判断だった。
身体は揺すれないのではない……死体だから、動けないのだ。
その時、ガタゴトと音がして、光が差し込んだ。
見えないはずの目にまず飛び込んできたのは、髪の毛が敷き詰められた棺の中に横たわる青褪めた自分の肉体だった。
棺を開けたのは白い髪が疎に生えた老婆で、歯のない口をニタニタと歪ませて、こちらの肌に指を這わせてきた。胸を首を唇を伝い、指は信男の喉奥に突き込まれ、何かを引き摺り出した。
血と膿が飛び散り、頭皮のついた数百本の髪の束が、老婆の手にぶら下がっている。
信男は絶叫した。本人はそのつもりでいる。しかし声は出ていない。死体は声を発さない。
顎を砕き、髪の毛を毟る音だけが、辺りに響き続けた。
●
ぎぃ。ぎぃ。
何かに髪の毛を引っ張られ、目を覚ます。暗闇の中目を凝らすと、床に髪の毛が散らばっていた。一本二本どころではない。数十本、悶えるかのように捻れ、一部は縮んでいた。
切華は慌てて頭に手をやる。ずるり、と痛みも抵抗もなく髪の束が抜けた。手にした髪に、何か白い物が蠢いている。なにかの、幼虫。蛆より大きく、太く節くれ立ったそれは苦しそうに身を捩り、ぎぃ。と鳴いた。
首が、痛かった。起き上がるとぐらり、と視界が傾ぎ、一向に直らない。触れるとぐにゃりとしたゴムのような感触があった。
折れている。
「ぐ……ぶぶっ」
喉の奥には半ば固まった血が詰まっていて息が出来ない。
苦しい。苦しい。苦しい。
身体もろくに動かない。髪の毛が、大量の髪の毛が絡みついている。
何故。どうして。死んで、それで終わりではないのか。死ぬほどの罪を犯したのなら、死んで許されるべきではないのか。
歪む視界の中、霞がかった思考に応える声があった。
『ごめんねぇ』
詫びを乞うていたが、何について謝られているのか心当たりがない。
『ごめんねぇごめんねぇ』
切華の首ががくん、と更に傾き、視界が180度ぐるりと回転した。そこに、それはいた。
天井から伸びた髪の毛が、切華と同じように首に纏わりついている。切華と違うのは、全体重がかかった首が長く引き伸ばされている点だ。
女だ。
知らない顔だった。だがその顔は、憤怒と怨みに満ちていた。あの人形と同じく。
何故知らない女に理不尽にも恨まれなければならないのか。そう、理不尽だ。置かれている状況も。
「あなた……誰なの。どうしてこんなことするの」
掠れ声しか出なかったが、反応はあった。
『わたぁしぃのこぉ』
そう言って愛おしそうに腹を撫でた。異様に長い首に気を取られていたが、そこは胎児が入っている以上に膨張し――それどころか裂けて、手が股の間からはみ出していた。
その小さな手に、見覚えがあった。見間違うはずもない。
七香の、手だった。
ぎゅっと胃が収縮し、迫り上がって来たものが詰まった血に押し戻される。そんな自分の身体の反応は生きているとしか思えないが、相変わらず視界は傾いたままで、首の激痛が正常な思考を妨げる。
「どうして……やめて! その子がなにをしたの!」
『わたぁしぃのこぉ。
とらぁれたぁのぉ』
記憶の蓋がこじ開けられていく。七香が自分の娘であるために不要とした情報が、六年ぶりに海馬から取り出された。
神室。かむろ。
切華と同じ日に出産して、同じ病室にいた女性がいた。難産だったため薬で眠っていた彼女の赤子と、切華の子供が……すり替えられた。
その後、病院がスキャンダルでめちゃくちゃになったので彼女とその子供がどうなったかなど知らなかった。知ろうとも思わなかった。
――ああ。
バレちゃってたのか。お父さんも、仕事が杜撰だな。だからあんなことになったんだ。
でも。七香を育てたのは私だ。
七香の親は、私だ。
ぶちぶちと、音がした。切華の身体を戒めていた髪の毛が千切れる音だ。千切るたびに、老若男女様々な人々の絶叫が頭の中に響く。
それらを無視して、ぐらぐらと揺れる首を必死に抑えながら、切華は這って女に……七香に近づこうとした。
ぎい。
虫の鳴き声。目の前の床に、カミキリムシが一匹いて、まるでここから先へ行かせないとでもいうように鳴いていた。
払って、進もうとする。しかしカミキリムシに触れた瞬間、それは子供の手になった。手は砕けて、歪んで、青紫に変色していた。
恐る恐る、顔を上げる。
揺れる視界の中で、手と同じく砕けた顔の少女が息のかかる距離でこちらを覗き込んでいた。顔面のひびからぽたり、ぽたりと血と血以外の液体が漏れている。
知らない少女だった。年は七香と同じ頃だろうか。
「お、」
歯が折れて、赤黒く腫れ上がった舌をもつれさせながら少女が苦しげに声を上げた。
「おかあ、さん」
その髪は、毛先がくるりと巻いていた。
直後、黒い濁流が切華を飲み込んだ。
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