第3話



 ――いつか、相見えると思っていたのだ。


 その日、通常通りの飛行演習中ヴェネトから少し離れた海上、フランス艦隊とスペイン艦隊の巡回ルート外に、大型船が浮かんでいるのが見えた。

 単眼鏡を手にして、ヴェネト海上法の規定外の大きさなのに、外観にヴェネト国旗以外の所属旗を上げていない。それを確認すると、フェルディナントはこの演習の副隊長に手で合図を送った。自分は目下の大型船を見てくるので、残りの四騎で予定通りのルートの演習を続けろ、というサインである。

 了承の合図の代わりに、すっ、と一騎が前に出てきて高度を上げ、離脱していく。


 竜は本能として、一番力の強い者が集団のリーダーになる。

 竜騎兵団は編隊を組んで飛ぶので、陣形や作戦によって、実際の序列とは関わりないポジションを各竜が取れるように訓練されているが、普通力の弱い竜が力の強い竜を追い抜いてはいかない。それは、序列を確かめたり挑む行動なので、喧嘩になるからだ。

 隊長騎フェリックスは、その辺りのことはきちんと弁えて、フェルディナントの命令ならば、自由自在に飛ぶ位置を変えて保つが、彼本来の気性は非常に気位が高く激しいので、実は、作戦命令でも他の竜が自分の前に追い越すように出て行くことは嫌いなようだ。

 大きな金の瞳が、ピカピカと輝いていて、一瞬空気が変わる。

 乗っていても、これだけフェリックスとは一心同体の相棒同士になっても、毎回、こういうときは未だにフェルディナントさえ、そのフェリックスの苛立ちを感じるから、凄いと思う。

 本当は自分の前へ出てきて、鼻先を飛んで行ったあいつをどこまでも追いかけて、自分の方が強くて早いことを思い知らせてやりたいという、好戦的な空気を纏う。

 フェリックスはその本能的な怒りを、自分は隊長騎であり、フェルディナントを乗せて飛んでいる使命がある、という責任感で飼い慣らしているようだ。

 これだけ慣れても、未だに他竜が前を飛ぶときに見せるフェリックスの覇気に、フェルディナントは思わず、口の端を持ち上げて笑んでしまった。


 ヴェネトに来てからはネーリに会い、子犬のような素直さで彼の後ろをついて回っているのだが、フェリックスの本来持つ苛烈な魂は少しも変わっていなくて、ちょっと安心する。

 フェルディナントがフェリックスを愛竜として、一番気に入っているのは、実はこの気位の高さと強い闘争心を持っていたからだ。これがあるからフェリックスはどんな戦場でもどんな天候でも、他の竜がどうであれ、少しも迷いなく飛び続ける。

 他の竜との距離が開くと、フェリックスが纏っていた空気の圧が消え、いつも通りに戻った。フェルディナントはゆっくりと高度を下げ、旋回しながら海面近くまで降りていく。

 甲板に、夜会服のような衣装の男が立っている。

【有翼旅団】の船でないことは分かった。

 見張りの軍人の姿がないからだ。

 この船は砲門もない。貴族の船だ。それは一目で分かった。

 フェルディナントは尋問のために近づいたのではなかったが、あくまで、分からないふりをして近づいた。船に圧を加えないよう、少し離れた所で海面スレスレに飛び、そこから船尾に近づく。


 バサッ、とフェリックスが大きく羽ばたき、飛びながら一カ所に留まる。

 男が近づいてきた。

 フェルディナントは敬礼をした。

「神聖ローマ帝国軍竜騎兵団です。私は団長のフェルディナント・アーク。

 ヴェネト王妃セルピナ殿下の命により、近海の巡回警備中でした。

 失礼ですが、所属旗がなかったので、確認のために」

 単なる貴族の船にいる給仕なら、竜がこれだけ側に来たら、騒いで逃げていくだろう。

 だが男は、身を正した。

「存じ上げております。この船はルーファス・イングレーゼ卿の個人所有船です。こちらが紋章になります」

 掲げてない旗を見せた。

「確認しました。リド島の領主館に住まわれる方ですね。今日はどんな理由でこちらにいらっしゃったのですか?」

 旗を掲げていればしない質問だが、掲げていない以上質問する権利があった。

 恐らくこれだけの大型船で旗を掲げず航行中であれば、ヴェネトでは彼らは、こうした質問でさえ受けてきたことがないのだろう。


(だが生憎、俺はヴェネトの民じゃない)


 何も知らない他国の無礼者を装って明確な答えを聞きたく、敢えて質問をした。

 男は特に気分を害した様子も、眉を吊り上げるでもなく、すぐに快く答えた。

「妃殿下から貴方にはお話が行っていると伺っております。

 我々は本日【青のスクオーラ】の会議のため、こちらに集いました」

 望んでいた答えが聞けた。

 フェルディナントは満足した。

「そうでしたか。その旨、伺っております。失礼致しました。私はこれで」

 去ろうとした時、遠くで指笛がした。

 フェルディナントではなく、目の前の男を呼んだものだった。

「申し訳ありません、少々お待ちいただけますか?」

 男は少し歩いて行くと、別の男と何か話していた。見たところ、呼びに来た男も連絡係のようだ。すぐに、男が戻ってくる。


「失礼致しました。我々の主も、妃殿下より将軍が命令を受け、ヴェネト近海を巡回警備なさっていることは存じ上げております。妃殿下より許可をいただいて、このような形で海上におりましたが、もし可能でしたら、一度守護職の将軍に【青のスクオーラ】の主たちからご挨拶をしたいとのことですが」


 意外な申し出だった。しかしフェルディナントとしては招かれるとは思っていなかったので、この申し出を断る理由は特にない。

「お許しいただけるなら私としては全く構いません」

「そうですか、では……」

 羽ばたく竜を見る。

「私だけそちらに飛び移りましょう。少し離れていただいてもよろしいですか」

「分かりました」

 フェルディナントはそのままフェリックスに高度を上げさせた。

 ゆっくりと高度を上げながら、フェリックスは船尾の上に近づき、程よいところでフェルディナントは甲板に軽く飛び降りる。フェリックスはすぐに船から離れて高度を上げ、飛んで行った。

 さすがに男は少し目を見開いて見ていたが、身を正す。

「どうぞ、こちらへ。会議室にご案内します」

「ありがとう」


 船室に入ると外套を、と男が声を掛けたので、羽織っていた外套を脱ぎ、預ける。

 イングレーゼ家はヴェネト周辺諸島の一つリド島を長く支配してきた名門だ。

 ヴェネト六大貴族の一つであり、参謀ロシェル・グヴェンから【青のスクオーラ】にも参加しているとフェルディナントは聞いている。

 だからこの船を見つけた時、すぐに察しはついた。

 しかし実際に海上にいるのを発見したのは初めてなので、確認のために声を掛けた。

【青のスクオーラ】は今のところ、フェルディナントは何をしているのか、よく分かっていない。

 だが神聖ローマ帝国にも、貴族の集いや派閥はあるので、そういう意味では大貴族が集まっているから怪しいなどと単純には思っていなかった。

 彼らが国において怪しい立ち位置ならば、ロシェルは【青のスクオーラ】のことをフェルディナントに話さなかっただろうし、あの王妃なら「青のスクオーラには見かけても近づくな」と言ったはずだ。存在を隠されているわけではないのだとロシェル・グヴェンも言っていた。


 ――だが、完全に信用もしない。


【青のスクオーラ】のことはネーリが一番最初に口にした。

 彼らに気をつけて、と真摯に訴えてきたこと。

 大らかなネーリがああいう緊張した表情を浮かべて忠告してくることは、初めてのことだった。それに、青のスクオーラにはシャルタナ家も属している。シャルタナ家は今捜査中の、まさに王都の腐敗の大元にいるかもしれない相手だ。油断は出来ない。【青のスクオーラ】全体が悪ではないかもしれないが、この中に悪が潜んでいる可能性は大いにある。

「六大貴族が属している会合だと聞きましたが。今日は皆さんが揃っていらっしゃるのですか?」

 案内役の男が振り返る。

「お集まりの予定ですが、会合の始まりはまだあとになります。四人ご当主がお集まりですが、クトローネ卿、シャルタナ卿はまだこちらにはいらっしゃってはおりません」

 シャルタナの名が出たが、フェルディナントは一切顔には感情を出さなかった。

「そうですか」


 一歩中に入ると内装は豪奢でまるで豪邸の中のようだった。

 男が扉を開き、中へフェルディナントを招く。

 中はビリヤード台があり、娯楽室になっている。船だが、窓辺にはバルコニーがあり、小さな庭も見えた。男達はリラックスした様子で談笑しているようだった。

 二人はビリヤード台の側におり、もう二人が側のソファに座ってワインを飲んでいる。

 フェルディナントが姿を見せると、四人は手を止めて、会釈をした。


「噂の若き青年将校か」


 一人がフェルディナントを眺めて、楽しげに言った。

 三人は、五十代くらいだろうが、ヴェネトの名門貴族の当主らしい、貫禄に満ちている。

 一人はもう少し彼らよりは年上で、六十代ほどに見えた。白髪の老人だが、着こなしも優雅で、重厚感のある雰囲気だ。


「そのように言うのは失礼だよ、ラドナー。

 神聖ローマ帝国軍の竜騎兵団と言えば、皇帝の直属の軍隊だ。

 竜騎兵はあの国では【騎士の中の騎士】と賞賛された者だけがなれる、非常に高貴な守護職だ。どんなに若くとも、君の末の息子のように扱ってはいかん」


 フェルディナントが何かを言う前に、キューを持っていた一人が、やんわりだが窘めた。

 窘められた一人は肩を竦め、こちらも持っていたキューを一度台に置き、フェルディナントに対して優雅な所作で挨拶をした。


「私はサン・ミケーレ島のヴィットリオ・ラドナー。

 初めてお目に掛かる、フェルディナント将軍。

 勤務中に呼び止めて、申し訳ない。

 さすがに我々でも竜は物珍しかったので興味が湧いてしまった。

 しかし貴方には一度お目に掛かってみたかったのですよ。

 妃殿下より密命を受けておられるとか。あの方は他国の人間をあまり信用なさらないのに、珍しいことだと我々も不思議に思っていた」


「構いません。私は無骨な軍人ですので、ヴェネトの社交界にもあまり関わっておりませんが、参謀ロシェル・グヴェンより、あなた方が病床の陛下の代理たる妃殿下を補佐するためにこの会合をお作りになったことは教えていただきました。私としても、どこかで皆さんには挨拶をしておきたかったのです。お招きいただいて、光栄です」


 フェルディナントは敬礼ではなく、丁寧に一礼した。

「ではこの中では若輩の私が他の方々のご紹介を。

 こちらはジャンパオロ・ミラー。

 ジューデッカ島に邸宅がある。

 貴方の近くにいる紳士がムラーノ島の歴代領主をしてこられたマッティーア・バルバロ卿。そして対面に座っておられるのがリド島のルーファス・イングレーゼ卿。この船の所有者です」

 フェルディナントは一人一人に挨拶をした。

「今、乗ってきた竜はどうしておられるのかな?」

 ラドナー卿がまず、それを聞いた。

「空で待機しています」

「空で……」

 二人くらい、上を向いたので、フェルディナントが指で円を描く仕草をした。

 ああ! とラドナーが頷く。

「旋回して待っているわけだね」

「はい。竜は重さがありますから、甲板に直接降りると、甲板を破壊する恐れがありますので。敵船でない限り直接着陸はさせません。とはいえ、こちらほどの大型船ならば船も頑強でしょうから、大丈夫だとは思いますが」

「そうなのか。主が乗っていなくても上空で待っているとは殊勝な生き物だな。非常に知能が高いと聞いているよ」


「甲板に降りられそうかね? 多少踏み荒らしても構わないからぜひ間近で見てみたいな」


 マッティーア・バルバロが目を輝かせて、子供のようなことを言った。

「騎竜は愛玩動物ではないのだからそんなことは言っては将軍がお困りになるだろう」

「いや。困るのは所有者のルーファス殿だ。踏み荒らしても構わない許可を、まず彼にもらわないと」

「私の意見は無視かね?」

 男達が笑っている。

 竜を見せてくれというのはどの国に行っても聞く、困るお願いなのだが、ヴェネトの六大貴族といえども好奇心は例外ではなかったらしい。

 とはいえ、フェルディナントは責める気にはならなかった。

 王妃やヴェネト王宮の貴族達が神聖ローマ帝国軍を見る目は冷淡なので、ここでも同じだろうと思っていたが、存外、迎えられた空気は温かいものだった。

 興味はあるようだが、他国の軍人がと見下げるような気配は、ここにはない。


「ブラーノ島のクトローネ・ジャンバルファスとトルチェッロ島のシャルタナは少し間に合わないだろう。ここに来る前に、王立劇場で観劇すると言っていた。十時頃最終公演が終わるから、まだ彼らは王都にいる。しかし彼らも有力者だからいずれ王都で将軍にお会いすることはあるだろう。今日の所は我々だけでご容赦を。時間はありますか? どうです。一ゲームだけでも。ビリヤードはおやりになりますか?」


「演習後は駐屯地に戻るだけですので大丈夫です。

 では、一ゲームだけ」

 差し出された棒を受け取ると、ラドナーが喜んだ。

「そうでなくては」

「噂の竜騎兵殿と一勝負したと、娘に自慢出来るな」

「私たちは観戦させていただきますよ」

「どうせなら賭けて下さい。バルバロ卿。貴方がこの前競り落とした薔薇真珠の首飾りが欲しい」

「またそれか。カードで一回賭けて、負けただろミラー」

「一度くらいチャンスをくださいよ」

「フェルディナント将軍、その男と賭け事だけはしない方がいいぞ。あとが面倒くさい」

「やるのかやらないのかどっちだ」

「まったく……あれは我が愛しの公爵夫人に差し上げたものだぞ。今更他にはやれん」

 バルバロが諦めたという風にワインに手を伸ばすと、ミラーが嬉しそうに笑う。


「貴方のおかげで可能性が出てきましたよ」


 ミラーはフェルディナントにありがとう、と礼を言ってきた。

「では私はお客人に賭けよう」

 泰然と座っているイングレーゼ卿がそう言うと、ラドナーも「私も」と軽く手を上げる。

 思いの外、和やかな空気でゲームは始まった。

 ビリヤードをしながら、彼らは質問攻めにしない範囲でフェルディナントに王都での暮らしはどうか、ということを聞き、あまり王妃との関係性を探るような質問はしなかった。

 フェルディナントが困るような質問はあまりない。

 竜騎兵団がどれくらいいるのか、という規模を聞かれたが、これは公になっているので別に機密ではなかった。


「三十騎丁度です。竜騎兵も竜も」


 場をフェルディナントに譲ったラドナーが壁に寄りかかったまま、ほぉ、という顔をした。

「竜騎兵が三十騎ということは、将軍の常識から言うと、比較的標準的な小隊の規模になるのかな? 竜は単独でも砦を潰せると聞いた」

「確かに、竜騎兵が三十騎というのは、騎馬兵が三十騎とは全く違う次元の話になります。

 妃殿下から許可を頂き行っている海上上空演習では、五騎規模で行っています。

 有事の際に、偵察、戦線の維持、報告、攻撃を小隊として行える最小限の規模が五騎とされています」

「君の率いた竜騎兵団が三年前フランスのブザンソン城塞を落とした時の規模はどの程度だったんだ?」

 マッティーア・バルバロは軍事方面に興味があるようだった。


「ブザンソン城塞の折は十二騎で出撃、六騎で湾岸沿いの艦隊を押さえ、半数の六騎で城壁を攻略しに行きました」


「たった十二騎で難攻不落のブザンソン城塞を落としてしまうとは」

「しかし私から見て、竜騎兵団がそれほどの戦闘力を有していれば、瞬く間に近隣諸国を侵攻し、併合してもおかしくない。皇帝は規律を重んじる人物であると見るよ。まあ、ヴェネトは竜騎兵の侵攻を受けていないからそう思えるのかもしれんがね」

「神聖ローマ帝国では市街上空も竜が飛ぶとか」

「飛びますよ。私は子供の頃父に連れられてあの国に行ったことがあります。定期的に上空を飛んでいました」

 ミラーがショットしてから、答えた。

「そうなのか。町の人は怖がらないのかね」

「私が言うのもなんですが、神聖ローマ帝国の子供達は、竜騎兵に憧れて育ちます」

 フェルディナントが軽く笑んで答えると、側のラドナーは笑みで頷いて返した。


「人は生まれたときから見てる情景を、自分の日常と捉えるものだよ、バルバロ。

 我々だって生まれたときから【シビュラの塔】が部屋の窓から見えた。だからあれを恐れる気持ちが少しもない」


 フェルディナントは思わずミラーを見たが、彼は他意のない表情で笑ってきた。

「……【青のスクオーラ】について、少しお尋ねしても構いませんか? 政のことについて妃殿下に助言を行う、重要な集まりだと聞いたのですが」

「単なる道楽貴族の集まりでがっかりしたかね」

「……いえ、」

 ラドナーが笑っている。


「我々はそんな大層なものではないよ。元々はこうして昔からの古い領主筋の仲間が、各々の家で月に一度集まってそれぞれの島のことを話して確認し合い、あとは遊んでいた。

 こっちが元々の姿。しかし陛下が病でお倒れになったので、ヴェネト王宮に呼ばれたのだよ。妃殿下にね。助言をしてほしいと。何度かそうするうちに、陛下の病気が予想よりずっと重いことが分かり……」


「あまり城に押しかけない方がいいのではないかと思ったのだ。諸島の領主たちがあまり城に集まっていると、王都の民もなんだろうかと不安がる」

 これは理解できた。フェルディナントは頷いた。

「かといって各家に集まっても、まあ同じことだしな。それで、船で沖に出てしまえば我々の存在も民の気にならなかろうと」

「では船で沖に集まるようになったのはごく最近ですか?」

 ラドナーが頷く。

「ごく最近だ。我々は陛下と違って海の上の暮らしには驚くほど慣れてない。特にイングレーゼ卿を連れ出すのは大変だった。船になんか乗りたくないと子供のように駄々をこねるんですから」

 重い咳払いが聞こえる。

「冗談ですよ」

「私も小さい船は嫌いです。でもこれだけの大型船ならば、ほぼ陸の上と同じですしね」

「【青のスクオーラ】に行くと言えば妻が付いてこないから気楽でいい」

 当主達はこれには、全員が笑いながら頷いた。


「……今、陛下と仰ったのは、前王のユリウス・ガンディノ陛下ですか? 大半を海の上で暮らしておられたという……」


 ラドナーがおや、という顔をした。

「しまった。言い間違えてしまった。いつも間違える。

 失礼、仰るとおり、前王のユリウス陛下です」

「お気になさらず。我々の国も先代の皇帝から、今の陛下がそのまま王都を引き継がれたので、よく言い間違えます」

「名前を呼べば簡単なんだが……」

 ミラーが苦笑した。

 フェルディナントが気づいて、ラドナーを見ると彼も、何かを言おうとして首を振った。

「君の番だ、バルバロ」

 友人に発言権を譲る。


「……まあなんというか……。フェルディナント将軍、貴方は【騎士の中の騎士】であるとか。ここでの話を、余所で迂闊に漏らすようなことはなさいませんな?」


「勿論。弁えています」

「……【ユリウス】という名は……妃殿下が嫌がる」

 一瞬沈黙が落ちた。

「確か……実のお父上でしたね」

 そう、確かに色々ヴェネトに来て調べてきたが、思えばまだはっきりしていないことがあった。

「大貴族ともなれば、家族には色々ある」

 イングレーゼ卿が助け船を出した。ラドナーも頷く。

「特に子供達はな。家督を継ぐ者を決めねばならん。

 長男がおり、それが優秀ならなんの問題もない。

 父親は長男を重んじ、他の兄弟にも彼を敬うように教えればいい。

 貴方は幸運な方ですよ、ルーファス」


「ラドナーの所は少し、家督相続で揉めてる。

 まあ、二人の妻が彼を敬っているから、表立っては争わないが。

 私がラドナー家を潰したければ、今すぐラドナーに毒を盛って殺すね。

 そうしたらあっという間だぞ、母親が鬼と化して我が子を当主にと争い出すだろう」


 ラドナーは苦笑しながらだが、そっぽを向いた。

「もう君の家で出たワインは絶対飲まん」

「家督の苦労は私も同じだ。私の所には武門なのに、女しかいない。だから婿を取るしかないが、娘に言い寄ってくる男はみんな詐欺師に見えて困ってる」

 バルバロが頬杖を突いて、ため息をついた。

「貴方の番ですよ、将軍」

 呼びかけられて、フェルディナントはハッとした。

「失礼」

 身を屈めて、ショットを打つと、ミラーが今度は深く息をつく。

「いかんな……集中してきたぞ」

「そんな私から見れば、妃殿下はさすが、ユリウス殿下の御子だ。なんというか……度胸がそこらの娘とは全く違う」


「彼女は昔から、非凡な娘だったよ。私は彼女が少女の時から知っているが、少女の時から人を見る目が違った。普通子供は、あどけない。あの娘は大人の嘘を見抜こうとするような強い眼差しをしていた。睨み付けてくるんだよ。今はそんなこと無くなったがね。

 殿下が生まれて、母になり、穏やかになったんだろう。

 貴方が妃殿下との謁見でいつも苦労していることは聞き及んでいるが、今の彼女は昔より余程大人しくなった」


「度胸は父親譲りだし、あれでいて政の勘も、悪いというわけでは無い」


【シビュラの塔】を他国に対して撃っただけで、政の勘の良さも何もないと思うが……とフェルディナントは思ったが、口は閉ざした。この場は和やかで、フェルディナントに友好的ではあったが、彼らはヴェネトの人間だ。

 一番聞きたかったのは、【シビュラの塔】の発動を、彼らが各々どう思ったかだったが、後日神聖ローマ帝国の将軍が【シビュラの塔】に興味を持っていたなどと密告されるわけには決していかない。この場でその名は出さない方がいい、とフェルディナントは心に決めた。

「街で、ユリウス陛下の名をよく聞きます」


「民は未だに、ユリウス陛下を父のように慕っているからな。仕方ない。あの方は五十年もの間、海の上でヴェネトの為に戦っておられた。あの長い治世は【海の玉座】と言われたものだ。私もあの豪気な王は、好きだったよ。自分の島の港に、突如王が直接乗り付けてくるんだぞ。久しぶりに飲もう、などと私の父を訪ねてくる。あれには、やはり男でも惚れる」


「ユリウス王が豪気な方であるなら、王は妃殿下の素質を喜ばれたのでは」


 思い切って言ってみると、やはり場が重くなった。

「……フェルディナント将軍。貴方はいい方のようだから、忠告しておくが。くれぐれも妃殿下の前でユリウス王の名は出さぬようにな」

「……仲があまり良くなかったのですか?」

「仲が良くなかったというのは、控え目な表現だな」

 ラドナーは苦笑する。

「失礼。偉大な父を、慕ったのかと」


「間違いなく慕っていたよ。誤解の無いように言っておくが、セルピナ殿下は幼い頃、ユリウス王を強く慕っておられた。偉大な王にして、偉大な父。ユリウス王もセルピナ様を可愛がっておられた。初めて生まれた御子で、しかも女だ。それは可愛い。

 ヴェネトは男子継承が決まっている。王位継承にも関わらない姫なら、可愛がるだけでいいのだから」


 重鎮のイングレーゼが言うと、ミラーとバルバロも手を止めて、頷いた。

「セルピナ様がお生まれになったとき、陛下もまだお若かった。あれだけ精力的な王だったし、誰もがいずれ王子が生まれると、迷いなく思っていたからな……」

 そうだ。

 確かにユリウスには王子がいない。

「二人の姫以外に御子がいなかったのですか?」

 その時、不思議な間が落ちた。

 フェルディナントも軍人だが、貴族で、王族だ。

 今の間には、覚えがあった。


「失礼致しました。図々しく、聞き過ぎました」


 フェルディナントがまず、そう言う。

 ミラーに話しかけた。

「そろそろ勝負を決めましょうか」

「いかん。貴公ら、どんどんフェルディナント殿が集中してきてるから、そんなじゃなくもっと動揺するような質問をしてくれよ」

「私は彼に賭けてる。何故動揺させねばならないのかね」

「同感だ」

「私は孤軍奮闘か」

 ミラーがため息をついている。


「フェルディナント殿は国では皇帝陛下の覚えもめでたい方だと聞きました。まだお若いのに相当な武勲を上げられ、爵位も持っておられるとか。国にはもう奥方がいらっしゃるのかな?」


「奥方……」

 フレディー、と目を輝かせて優しく笑いかけてくるネーリの顔がはっきりと脳裏に過って、慌ててフェルディナントは首を振った。

「おりません」

「今動揺が見えたぞ。いいぞ、バルバロ。その線でいけ」


「別にミラーはちっとも応援してませんがね。貴方のことは実は、社交界で噂になっている。そういえばスペインのイアン・エルスバトのことも娘達が話していた。物珍しいのです。ヴェネトの令嬢達は、あなたたちのように軍歴華やかな若き軍人というものを間近で見たことが無いから」


「私も今日ここで貴方に会って話したことは娘への土産話にしますよ」

「奥方はいなくとも許嫁はおられるだろう」

「おりません」

 バルバロは本当に驚いた顔をした。

「本当かね?」

「ええ」


「では、ぜひ今度うちの屋敷にお越し下さい。そんな喧しくない、品の良いお茶会でも貴方のために開きましょう。いや、格好などお気遣い無く。どうですか、女の弓競いなどは貴方のような方には逆に退屈かな? 狩りでもいたしますか。うちの娘達には一通りの武芸はとりあえず教え込んでいますよ」


 マッティーア・バルバロがいきなりいっぱい喋り始めた。

「嫌な相手に捕まったな、将軍」


「【騎士の中の騎士】など、我がバルバロ家に最も相応しい称号だ。

 妃殿下は竜はお嫌いでも、将軍はこうして信頼し、飛行演習も許可なされた。

 海賊退治が成功なされば、もしかしたら王太子の聖騎士団の団長に推挙なさるかもしれん。そうなれば他国の方でもヴェネトの聖騎士だ。申し分ない」


「話を勝手に進めるなバルバロ。将軍が困っておられるだろう」

「困ることはあるまい。まだ若い独身貴族で、娘を紹介しているだけではないか。うちには五人の娘がおりますよ。もしかしたら五人もいれば一人くらい貴方のお気に召す者もいるかも」

「そこまでだ」

 イングレーゼが手を叩いてバルバロ卿を窘めた。

 さすがにバルバロは押し黙ったが、小声でもう一度囁いて来る。

「他家の皆様がたが五月蠅いので、黙りますが、ぜひ後日うちにおいで下さい。娘達は父親に似ず、みんなのんびりしてますから東西南北から貴方を取り囲んで言い寄ったりはしたないことは決してしませんよ。みんな母似です」

 フェルディナントは答えないのも非礼だと思い、苦笑しながら頷いた。

「まずは妃殿下のご依頼を進めますが、時間があればぜひ」

「やった」

 バルバロが喜んでいる。

 ラドナーもやれやれ、と苦笑した。


「まあ、気が向いたらお行きなさい。確かにバルバロは躍起になっていますがね、令嬢達はみな可愛らしいですし、いい子ですよ。あそこは武門ですが、奥方が穏やかなのでみんな人がいい。むしろなんでいい縁談が決まらないのか、不思議なくらいですが、まあ原因はあの父でしょうな。可愛い娘を貴様になどやるかと、大方、求婚者たちを影で苛めているに違いない。貴方は苛めませんよ。安心して下さい」


「娘達に竜が怖くないか聞いておきます」


 フェルディナントは、ショットを打つ瞬間言われて、一瞬たじろいだ。

 男達が笑う。

 しかし片目を細めて、一撃で決めた。

 ミラーがため息をつく。

 彼は残念そうだが、キューを台に置き、フェルディナントと握手をした。

「お見事」

 他の三人が拍手をする。

 ビリヤードが終わると、まだ三人はフェルディナントに興味があったようなので、カードをして少し飲んだ。


 竜のことを尋ねられ、その性格や、神聖ローマ帝国ではどのように扱われているのか、【王家の森】の話もした。

 竜は二年間卵の中にいてから孵化し、生まれた子竜はまた特別な保育区で大切に育て、皇帝が毎日そこを見に行くと聞くと、彼らは特に驚いたようだ。

「尊ばれる生き物なのだな」と、ラドナーが呟いた。

 バルバロは竜騎兵の竜が、騎竜に反意を示すことはないのかと尋ねて来た。

「賢い動物が、いつも自分の上に乗っている人間を、突然空から落としてやりたいと思うこともあるかも」

 フェルディナントは明言した。


「正式な竜騎兵ともなれば、竜に抵抗もなく空から振り落とされるようなことは決してありません。騎竜は竜騎兵を裏切りません。彼らは人間などより、遙かに強い生き物だからです。人間を騙し討ちして殺そうと企む必要がないのです。人間を乗せたくないのであれば、騎竜になる訓練中に、そういう性格は必ず見つかります。

 ただし、騎竜も反抗することはあります。

 でもそれは竜騎兵への敵意では無い。

 彼らの性格を見誤り、彼らがどんなことを不快に思うのか、怒りに思うのか、そういうことを把握しそれを避ける。

 私の騎竜は他の竜に前を飛ばれると、怒ります。

 でも、陣形や作戦の中で必要性があれば、それは許容してくれる。

 つまり平時、何でも無いときに他の竜の後ろを飛ばせたりし続ければ、怒りを露わにすることはあるのです。彼らを怒らせないようにすることが最も大事なことですね。

 騎竜も人間同様、一頭一頭性格が違う。

 竜騎兵は自分の騎竜の特性を、よく把握しています。

 それを無視しなければ、騎竜は竜騎兵を必ず信頼してくれる。

 信頼している友人をある時、空から振り落としたいと、あなた方は思われますか?」


 四人の男は感心したようだった。

 騎竜が飼い犬や下僕でもなく、人と人との関係に近いことを、理解してくれたらしい。


【青のスクオーラ】の四人は、悪い人間には思えなかった。


 勿論、全てが今日見えたとは思わないが、フェルディナントさえ、この四人に悪い印象は抱かなかった。彼らは王妃とフェルディナントがさほど不仲ではないと聞いてはいるようだが、他の貴族のように萎縮したり、それならば自分たちも関わらない方がいいなどと拒絶する空気は一切出さなかった。

 四人の当主が見送りに出てくれた。

 ただ帰るのもつまらないだろうと、船の中を迂回しながら船尾へ向かう。

 船の中は客間は勿論、大食堂、小さな礼拝堂もあり、ダンスホールもあった。


 途中、美術品を飾っている休憩室があったので、一通り見ることにした。

 この船の所有者はルーファス・イングレーゼ卿だったが、案内はラドナー卿がしてくれた。

 美術品の一つ一つの説明を、丁寧にしてくれる。

 四人は対等な友人関係のようだったが、中でもこの四人が揃った時は、ラドナーがとりまとめ役になっているような雰囲気がある。

 ラドナーはヴェネトの内務大臣も経験のある人物だった。

 立派な経歴だが、気さくな印象を与え、社交的な雰囲気がある。

 フェルディナントは相変わらず美術品のことはあまり分からなかったが、案内されながら、気づいた。


 ネーリならきっとこういうものでも、絵だろうが壺だろうが、書物だろうが、首飾りだろうが、目を輝かせて人からの説明を聞くのだろうな、と自分が考えていることだ。

 さすがに彼自身が、目を輝かせてラドナーの説明を聞いてやることは出来なかったが、フェルディナントはこの場にいないネーリに、今日見た美術品の話を聞かせてやりたいと思って、きちんと説明を覚えようと、自然とそんな風に思っていたのだ。

 ネーリに会うことで、「自分は美術など分からない人間」と今までただそう思っていたことが、いつの間にか変わっていることに気づいた。分かりたい人間には、なりたいと思う。ネーリとこういうものを見ても、一緒に楽しめる人間になりたかったから。

 そんな風に、熱心にラドナーの説明を聞いていたフェルディナントはあるところで、立ち止まった。


「……この絵」


「さすがは単なる軍人ではないな。立ち止まりましたね、将軍」

 後ろから付いてきていたミラー、バルバロ、イングレーゼがやって来る。

 そこに飾られていたのは、ヴェネトの、ヴェネツィアの全景を遠くから描いた絵だった。

 題材としては、凡庸だ。

 六大貴族ともなれば、物珍しい美術品にさえ、飽きているだろう。

 ここにわざわざ飾るような題材では無い。

 しかし、そこに描かれている内容は、全く凡庸では無かった。

 長く降っていた雨が晴れて、雨雲の合間から光が射し込み始めた、そういう瞬間を描いている。

 この、雲の描き方。

 現実にいたであろう、その空を見上げる人間の描写も、よく見ると描かれている。

 映り込む人間一人一人に、意味がある。

 歴史を感じさせるヴェネツィアの建造物に、光が当たる。

 尖塔の上で四枚羽の翼を勇壮に広げる、神獣――オラシオンの姿。

 長く雨に打たれた彼の額にも、射し込んだ光が優しく触れている。


(ネーリ)


 間違いなくネーリ・バルネチアの絵だ。

 フェルディナントには分かった。

「見事な絵でしょう」

 ミラーが側にやって来る。

「ヴェネツィアの絵など、題材は呆れるくらい平凡なのに、描き手が非凡なのがすぐに分かる。伝わってくるものの力が違うのですよ。

 鮮やかさ、精密さ、美しいものを美しいと感じ取り、瞬時に描き出すセンスです」

「ミラー卿は絵画の収集家なのです。彼は滅多にこんなに絵を褒めない」

「大概の絵に飽きていますからね」


「例えばあそこにある絵はヴェネトの巨匠キリオ・エンヴォールの絵ですが、さすがに確かに、素晴らしい。でも私はこの絵の方が、力を感じます。迫力が違う。将軍にも分かりますか」


「……私は、あまり美術品には詳しくありませんが……でも、これは素晴らしい絵です。確かに、伝わってくる力がある。……誰が描いた絵ですか?」

「それが分からないのですよ」

 バルバロが言った。

「この絵を見た時、私もこの画家から他の絵を買いたいとイングレーゼ卿に仲介を頼んだのですが」

「私はあまり絵は好かないのだがね、シャルタナがぜひここに飾りたいと持ち込んできた」

 フェルディナントは密かに、ドキリとした。

「いい絵ですよ」

「私もこれは気に入った。私は難解な絵は好かん。これくらい、わかりやすいのがいい」

 イングレーゼがそう言った。


「ドラクマは作者を知っているようだったが、あいつめ、我々に取られると思っていくら聞いても作者を教えてくれないんだ。オークションで競り落としたなら、情報があるかと思ったが、無いから恐らく個人的に作者から直接、買い取ったんだと思うが。

 しかしこれほどの絵を描く画家なら、他の絵だって凄いはずだ。この作者はヴェネトで、まだ見たことが無い。他国から来た画家なのかな」


 ラドナーは腕を組む。


「わたしもそれは考えたが、このヴェネツィアの描き方は精巧だ。何度も描いている人間の絵だよ。他国の作家ではないね。街の配置がなぞったように正確だよ。これは、サリバの丘辺りから描いた構図だ。私の別荘が近い。この景色を見て育ったから間違いない。店先に掲げてる小さな看板も、目で見たものを本当にそのまま写したような配置だ」


 バルバロが指摘した。

「他国の作家じゃない。若い画家だ。まだ無名かもしれん」

 ラドナーが言った。彼は美術品を批評する目も、鋭いらしかった。

「さすがシャルタナだな。ヴェネトにも若い画家は多いが、若くしてこんな絵を描くことが出来る画家は非常に稀だよ。この画家は宮廷画家級になるかも」

「今日は間に合いませんでしたが、いずれシャルタナも貴方に挨拶をするでしょうから、その時にこの画家のことを聞いてみて下さい。我々には秘密にしていますが、貴方になら教えて自慢するかも」

 フェルディナントは何も言わず、ただ頷いた。

 もう一度、絵を見る。


「この射し込む光の描き方、本当に素晴らしい。

 絶対に、ヴェネツィアを愛する者が描いた絵ですよ」


 バルバロが言った。



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