第1話・Hello World !

Hello World !


真っ白な空間に、その文字は突如出現した。

上も下も、右も左も無い世界にあるのはただその黒い文字ひとつで。


それに惹かれるように手を伸ばし、確かに掴もうとした指先は、パリンっと何かがひび割れる音を聞いた。







「ハッ!!…ッタタタ」


サーシャはガバリと飛び起きた。

それは身に沁みついた危機意識のせいだったが、あたりをそろりと見回しても特に変わった事は無かった。


いつも通りの自身の部屋で、広いワンルームの殺風景な部屋は寝る前と何一つ変わっていない。なんだ夢かとホッと一息つきかける前に、飛び起きた拍子で力んだ肩の傷に痛みが走りサーシャは呻いた。


せっかく良くなって来ていたのだが、まだ無理は禁物だ。

自己反省をしながら「はぁ」と溜息をついた所で、サーシャの指が硬いものに触れた。カチャリと金属音をさせたのは、嫌と言う程に見慣れた2つの指輪だ。


手に取った記憶は一切無かったが、いつの間にかベットの上にちょこんと2つ載っている。それ等は、それぞれがまったく別のデザインをしていた。

一方は銀色の細くスッキリとした形状で、いわゆる結婚指輪に似ている。もう一方は金色で透かし彫りのような細かの細工が入った形状は独特のデザインだ。


「あーぁ、嫌だね」


その指輪の存在をこれ以上も無く疎んでいるサーシャは、随分と不機嫌な声を漏らすとペッとそれをベットから払い落とした。恨めしい事に、どれくらいぞんざいに扱ったって、その指は傷ひとつつかないのだ。


母はコレを「運命の指輪」と言ったが、サーシャにすればまさに「呪の指輪」であり、生家を飛び出すに至った原因だった。そのせいで、すっかりサーシャは「運命」と言う言葉が嫌いになったが、世の女性はそんな「運命」に夢を見るらしい。


考えるほどに気分が落ち込みそうになって、サーシャは首を横に振った。ナーバスになるなど柄でもないと思いながら、サーシャは肩の付け根を押さえながらそろりとベットを降りた。


もうその頃には、何の夢を見ていたのかも忘れてしまった。

チラリと夜目が利く瞳でサイドボードの時計を見ればまだ深夜の3時である。


ついでに今しがた床に落としたはずの指輪がひとりでにサイドボードの上に2つ仲良く鎮座しているの眼にしてしまったが、サーシャはきっちりとその存在を無視した。


そう、サーシャが「呪い」と呼ぶ通り、その指輪はどこに捨てたって人知れずサーシャの元に戻ってくるのだ。そこに人らしい意識があるのかは定かでないが、たかだか床に落とした事ですら指輪は気に入らなかったのか、きちんとサイドボードに戻るあたりが憎たらしい。


むっとした顔のままサーシャは洗面台に立った。

顔でも洗って気分を変えようとしたのだが、思いのほか気が立っているらしい。山吹色の髪についた寝ぐせの下から覗くのはサーシャの不機嫌そうな翡翠色の瞳である。飛び跳ねた髪を整えついでにサーシャは着ていたシャツの襟首を下げて、鏡を使って肩の付け根の傷を確認した。


縫った医者の腕が相当に良かったのだろう、サーシャにすらわかるほどにその縫合痕は綺麗であり、お陰様で治りも早い。


「綺麗なこって」


ありがたい事ではあるのだが、この件についてもサーシャの心はずっと悶々としていた。そう、この傷は銃で撃たれた後であり、サーシャは2週間前の仕事で少々窮地に追い込まれたのだ。


もっともそんな事件はサーシャにすれば日常茶飯事で、表向きの職種は記者や探偵を名乗っているが、実際やっている事は「何でも屋」に近しいだろう。


ちょっとした裏の掲示板で気になった仕事を請け負う事もあれば、前回のように知人や馴染みに仕事を依頼される事もある。


そう言う自分の身と腕だけで生きていく道をサーシャは好んでいた。正直、ろくな死に方は出来ないと自負しているし、長生きしたいとも思ってはいない。


ただ、母の言う「運命」から逃れたくてサーシャは生き急ぐように、こんな生き方を選んでいた。

そうなった理由のひとつはサーシャの生い立ちと持って生まれた能力のせいなのだが、それに簡単に折り合いがつけばここまで拗れてはいないだろう。


すっかり眠気がなくなってしまったので、サーシャは顔を洗うと水でも飲むかとコップに水を注いで、ソファへと腰かけた。


カチリとシェードの明かりをつければ、ソファに投げ出したままだった雑誌が目についた。「人身売買」「売春」「汚職」「裏金」「若き政治家の裏の顔」など、デカデカと載った見出しはゴシップ紙らしい煽り文句に溢れていたが、それ等はすべて事実である。


サーシャは記事の中身をいちいち読んではいないが、何を隠そうこのネタの証拠を押さえるように依頼され、政治家の隠れ家に忍び込んだパソコンの中身を抜き取ったのはサーシャ本人なのだ。


わざわざ律儀にサーシャへ献本してくれるのは、この雑誌の売れ行きが絶好調だからだろうか。サーシャがこの仕事を受けたのは、別に義憤に駆られたからなんて正義感を振りかざすつもりは毛頭ない。

ただ依頼者が昔馴染みで、低俗なゴシップ紙であるからこそ圧力を気にせず堂々と記事が世に出される事と、多少の危険を冒すだけの報酬がもらえる事は素直にありがたかった。


これで、「誰か」が救えたのかはわからないけど。第二、第三の犠牲者が生まれない事や、既に手遅れになってしまった「誰か」の無念が少しでも晴らされればよいなと思うのは、ただのサーシャの感傷だ。


チビチビと水を飲みながら、サーシャはあの日の事を思い出した。

正確には、怪我をした事や政治家のどす黒さよりも、あの日に出会った一人の男についてサーシャの心中は複雑な感情を抱いていた。


「スミス、ねぇ」


どう考えたって偽名だろうが。

サーシャの肩の怪我を縫ってくれた医者の腕は確かである。


結局、サーシャは名前を知るどころかお礼ひとつ満足に言えてはいないのだ。

此方が警戒していた以上に相手にも警戒をさせてしまったのは確かだろうが、それにしたってあんな別れ方はあんまりだ。


棚ぼただと思って忘れてしまえば良いのだろうが、そうできないのは何故なのか。

サーシャ自身、それを上手く言葉に出来ずにいたが、もう一度会ってみたいと願う気持ちは本物だった。


「強気な美人ってのが、またズルいんだよなぁ…」


綺麗な薔薇には棘があると言うとおり、柔和な顔で毒づく姿が魅力的なせいもあるだろうか。けっこうタイプだった、と後から嚙みしめるのも歯がゆいが、してやられた事にも不満がある。


もし、もう一度逢えたら。サーシャはどうするべきか。

そう考える自身が既に彼に捕らわれている事に、サーシャはまだ気づいていなかった。

薄暗いランプシェードの明かりを受けて、サイドボードの指輪がひとつキラリと煌めいた。

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