白雪姫は7人の小人の夢を見るのか
無人(ナハト)
プロローグ・ある男の願い
「エリー…」
その男の声音は、痛恨に満ちていた。
瞼を閉じれば、いつだって思い出すのは彼女の穏やかな微笑みだ。それから、彼女が熱心に庭で育てていた薔薇と紅茶の香りに、優しい声音が思考の端を掠める。
けれど、目を開けば彼女はもう何処にもいない。その瞼の裏に焼き付いた記憶だけを頼りに。それが、どれほど愛しく苦痛なことか。
男はもう満足に眠ることすらできなくなったが、それでも構わなかった。何かしらの苦痛が少しでも彼女への贖罪になるのなら。
それでも、日が経つ事に少しずつ男の中の大切な何が欠けていく気がして、男は一心不乱に手を動かし、数々の文言を書き付けた。
締め切った窓にかけられたカーテンの奥、薄暗いランプだけが僅かな明かりを灯している。部屋中に散らばる無数の紙片や書籍。壁一面に貼られた紙にまで描かれた奇妙な記号や線。それは文字なのか絵なのか、判別すらつかない。
知人が今の男を見たなら、狂ってしまったと思うだろう。しかし男は悲しいことに正気だった。泣きすぎた身体からは、もはや一滴の水分すら出ない。それでも涙の代わりに男の口から漏れるのは、ただの悲しみの吐息だった。
机に座る男の前には古びた文献がうず高く積まれ、指先でページをめくるたび乾いた音が響く。書き込まれた内容は既に何度も読み返したはずなのに、それでも少しでもヒントを見つけようと何度も目を走らせた。
机の端に伏せられた写真立てを起こす勇気はない。欲しいのはそんな虚像ではないのだ。
「もう一度…必ず…」
男の呟きは空気に溶けるように消えた。
彼の目は、自身の手の甲に刻まれた歪な痣を見つめている。気のせいか、その痣は以前よりも形を歪に崩しているように見えた。しかし男が縋るものは、もはやこれしかなかった。
「頼む…どうか」
男が祈るのは神か、それとも悪魔か。
例えそれが何であったとしても、彼は構わなかった。
再度、男は自身の手でその痣に触れた。
その途端、痣は鈍い光を放った。
ガタガタと数秒の振動が机と窓を揺らしたが、男は微動だにしなかった。彼の意識は既にここにはなく、遠い彼方にあった。カチカチと耳に届くのは時を刻む音。幾千もの幾何学模様が空間に浮かび上がり、消失する不思議な光景。
もしかすると立ったまま見ている白昼夢かもしれない。しかし光の中で彼はひとつの選択を前にしていた。その選択がどれだけの代償を伴うかも知らずに。
「君を取り戻すためなら…」
男はそう囁くような声で、ソレに触れた。
刹那、空間が揺れる。デジタル時計が壊れたかのように一瞬時を止め、パタパタと逆行を始めた。それは始まりでもあり、終わりでもあった。
「エリー、待っていてくれ」
男はその時計の逆行を見ながら、光の中で瞳を閉じた。
記憶の中の彼女へと呼びかけながら、どうかもう一度と願ったその声は、確かに誰かに届いたのかもしれない。
その瞬間、パリンっと世界が弾けた。
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