第2話 静かな仕事場

平山健一はバンを静かに止め、運転席から降りた。朝日が渋谷の街路樹に影を落とし、少し冷たい風が吹き抜ける。彼の仕事場である公衆トイレは、最新デザインの建物だが、再開発が進むこのエリアでは、取り壊しが予定されている場所の一つでもある。


彼は荷台を開け、ブラシ、モップ、洗剤、雑巾などの清掃道具を一つずつ確認し、慣れた手つきで持ち運び始めた。全てが整然と並び、手になじむ道具たち。それらは彼の日常を形作る欠かせない相棒だった。


公衆トイレの鍵を取り出し、扉を開ける。中は彼が昨日掃除したままの状態だったが、それでもまず目で隅々まで確認する。床にはほとんど汚れが見当たらないが、彼は念のためにモップをかけ直す。壁には目立つ傷や落書きもなく、仕上がりに満足しているような、穏やかな表情を浮かべる。


ふと、平山は外壁に手を触れた。このトイレが取り壊されることはすでに決まっている。数週間後にはここは工事現場となり、彼が慣れ親しんだこの空間も消えてしまう。


「ここも、もうすぐなくなるんだな……」

小さな独り言が口から漏れたが、その声は誰に聞かれることもなく、空間に吸い込まれていった。手を止めることなく、彼は再び床を磨き始めた。


作業を進める中、一人のサラリーマンが入ってきた。40代後半ほどの男性で、スーツのポケットからハンカチを取り出しながら個室に向かう。平山は特に意識することもなく、自分の作業を続けた。


数分後、サラリーマンが手を洗いながらぽつりとつぶやく。

「いつもきれいにしてくれて、助かります。」


その一言に、平山はふと顔を上げた。短いが丁寧な言葉だった。彼は一瞬考えた後、小さく会釈を返した。それ以上の会話は交わされなかったが、その言葉は平山の胸の中で小さな温もりを残した。


仕事を終え、トイレの鍵を閉めると、平山は深く息をついた。道具をバンに戻し、運転席に座ると、カバンからお気に入りのカセットテープを取り出す。再生ボタンを押すと、軽いノイズの後、オーティス・レディングの「(Sittin’ On) The Dock of the Bay」が流れ始めた。


平山にとってカセットテープはただの音楽以上の存在だった。それは、かつての自分が残した「時間のかけら」でもあり、記憶と共に彼の内面を支えるものでもあった。


「Sittin’ in the mornin’ sun / I’ll be sittin’ when the evenin’ comes…」


彼は歌詞に耳を傾けながら、静かにアクセルを踏み込んだ。音楽と共に走り出す車内は、再開発や喧騒とは別の時間が流れているように感じられる。次の現場に向かう彼の心には、どこか満たされた感覚が広がっていた。


渋谷の街を進むバンの窓からは、次々と変わりゆく街並みが見える。新しいビルが建設され、昔ながらの風景が消えていく様子が、どこか遠い記憶を呼び覚ます。平山はその変化を静かに見つめながらも、自分が関わる一つ一つの空間が確かにそこに「あった」という事実に安堵を感じていた。


「一つずつ、ちゃんとやればいい」

彼の頭に浮かんだその言葉は、まるで自分自身に言い聞かせるようだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る