静寂の奏でる朝(The Quiet Melody of Mornings)
湊 マチ
第1話 微睡む街と静寂の音
朝の静けさを切り裂くように、ザッザッと規則的な音が響く。アパートの前で誰かが竹箒を使い、道端を掃く音だ。平山健一はその音を耳にしながら、いつも通り目覚まし時計が鳴る前に目を覚ました。
布団を軽く整え、寝ぼけた体を伸ばしながらカーテンを開ける。薄明かりの朝が部屋に差し込み、冷たい空気が窓から流れ込む。下を見ると、アパートの住人らしき老人が静かに箒を動かしている。顔を知っているわけではないが、その動きには慣れ親しんだリズムがある。
平山は音に耳を傾けながら、そっと洗面所へ向かった。
洗面所の鏡は少し曇っており、湿気の残る空気が広がっている。平山は歯ブラシを取り、水を少しだけつけて歯磨き粉を乗せる。軽く磨き始めると、ミントの爽やかな香りが広がり、口の中に朝の目覚めが感じられる。
彼は一心不乱にブラシを動かしながら、視線は鏡に映る自分自身を捉える。年齢を感じさせる皺が浮かぶその顔に、特別な感情は抱かない。ただ静かに磨き続ける。
歯を磨き終え、口をすすぐと、少しだけ背筋が伸びたような気がした。鏡に映る自分の顔に一瞬目を留めるが、何も言葉を発することなくタオルで顔を拭く。
次に向かったのは、2階の小さな部屋。ここは平山が植物を育てる場所であり、静かな「庭」のような空間だ。窓辺には神社の境内で拾った小さな枝や苔を植えた鉢が並んでいる。彼は霧吹きを手に取り、植物に軽く水を吹きかける。
霧がふわりと漂い、小さな葉の表面に透明な粒が広がる。苔の鮮やかな緑が濡れたことで一層濃くなり、朝日を浴びて輝く様子が目に心地よい。
「今日も元気そうだな」
そう呟くと、彼は霧吹きを戻し、部屋を後にした。
玄関では、小さな金属の皿に置かれた小銭と公共トイレの清掃道具置き場の鍵を手に取る。手慣れた動きでポケットに鍵をしまい、小銭はコートの内ポケットに入れた。最後に玄関にある古びたスニーカーを履き、軽く伸びをしてドアを開ける。
冷たい空気が顔に触れ、外の音が耳に飛び込んできた。掃除を終えた竹箒が壁に立てかけられているのが目に入る。それを一瞥すると、平山は少し肩をすくめ、近くの自動販売機へと向かった。
硬貨を投入し、いつものBOSSのカフェオレを購入する。取り出し口から転がり出た缶を手に取ると、その温かさが冷えた指先にじんわりと広がる。プルタブを開けて一口含むと、ほろ苦い中にほんの少しの甘みが混じる。それは彼にとっての朝のルーティンであり、一日を始めるためのスイッチだった。
バンに乗り込むと、まず荷台の確認をする。ブラシ、モップ、洗剤、雑巾――清掃道具が整然と並んでいる。それを確認し終えると、運転席に座り、ハンドルの隣に固定されたポータブルカセットデッキに手を伸ばす。
お気に入りのカセットテープをカバンから取り出し、デッキにセットする。ラベルには手書きで「70s Rock Classics」と書かれている。再生ボタンを押すと、軽いノイズの後、ルー・リードの「Perfect Day」が流れ始める。
車内に穏やかなギターの音色と低く柔らかな歌声が満ちる。平山は静かにアクセルを踏み、車を走らせた。
街路樹がフロントガラス越しに見えてくる。木漏れ日が地面に揺れ、小さな光と影が車内を踊るように照らしている。彼はその景色をちらりと眺めながら、歌詞に耳を傾けた。
「Just a perfect day / Drink sangria in the park…」
その静かなメロディーは、まるで彼の日常を祝福するようだった。バンはゆっくりと渋谷の街を抜け、清掃現場へと向かう。
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