第一楽章 


 トカレフTT-33……ソ連陸軍一九三三年正式採用大型自動拳銃。正式名称「ツーラ造兵廠 トカレフ/33年式」。安全装置が存在せず、徹底した機構の簡略化が図られている。弾薬は7.62mm×25mmトカレフ弾。シングルカラムマガジン、挿弾数8発。銃口初速420m/s 有効射程距離50m。


 1


 ピンクのトカレフをかまえた。

 もちろんぼくのじゃない。ぼくの生まれる前から、このトカレフ拳銃は、人のドギモを抜くようなピンク色をしていた。

 トカレフ拳銃は、じいちゃん家の土倉で長いことほこりをかぶっていた。もともとロシアで——その頃はソビエト社会主義共和国連邦、略して「ソ連」と呼ばれていた国——の拳銃だ。ぼくはインターネットでこれを調べて、グリップの部分に星のマークと、その周りにちょっとかすれつぶれた「CCCP」の文字を発見して、銃がトカレフと呼ばれていることを知った。

 このピンクのトカレフは、第二次世界大戦(ソ連では「大祖国戦争」と言うんだそうだ)が終わって、じいちゃんの昔の友達が、シベリア抑留から引き揚げるとき、こっそり日本に持ちこんだものだった。じいちゃんは、銃を持っていることはぼくに教えてくれた。それでも生きているうちはどこにしまってあるのか、決して教えてくれなかった。小さい頃のおぼろげな記憶をたどって、それをぼくはやっと発見した。

 最初はどう見てもおもちゃにしか見えなかった。ピンクに塗りたくられたトカレフは軽そうで、そもそも本物があるような場所でもない。

 それで手に取ってみて、やっと本物なんだという実感がわいてくる。ずっしりと重くて、鉄のつるつるとした、肌にぴたりと貼りつくような、ひんやりした感触が伝わってくる。

 油紙に包まれた銃にも銃弾にも錆びついたところはない。じいちゃんはこれまでずっと、ぼくをのぞいてはだれにも打ち明けず、きれいに整備していたのかもしれない。

 でもピンクだ。

 これは「封印のおまじない」だそうだ。じいちゃんがいうには、じいちゃんの友達はなにか脳の病気にかかって、頭がおかしくなっていたらしい。帰国後にピンク色のペンキで銃を塗りたくり、じいちゃんにあずかってもらいに来たのだそうだ。

「この拳銃は呪われている」と友達はいったそうである。「このままではこのトカレフに殺される」と……。

 ほんとうにトカレフは呪われていたのだろうか。だとしたらそんなものあずかってくれなんていい迷惑だし、じいちゃんはそれを長いあいだ、律儀にも頭のおかしくなってしまった友達のために隠し持っていたのだ。じいちゃんはこのピンクのトカレフを警察に持っていくことも、壊すこともしなかった。なぜならトカレフは呪われていて、その呪いを封じるためにピンクに塗りたくられていたからだ。友達の言うことを、じいちゃんはそのまま受け入れた。

「頭がおかしかったの?」

 小さい頃、ぼくはじいちゃんにこうたずねた。じいちゃんはゆっくりと頷いた。

「そうもなる。じいちゃんもやつも、戦った。戦ったんだ。だがだれにも帰ってきて欲しいと思われない。それはとってもつらいことだな」

 じいちゃんは懐かしそうに目を細めて、ピンクのトカレフを撫でて言った。黒ずんで、いくつも血管がぷっくり浮き出ていて、ちょっとざらざらした大きな手だ。

 ぼくはこの手が好きだった。じいちゃんの手にかかれば機械は何でも直ってしまうし、板切れはいつの間にか小さな帆船になった。ひょろひょろ伸びて、まだ咲かないでいる大きなつぼみをうつむけてぼくを怖がらせるひまわりから、じいちゃんは大きな手をかざしてぼくの目から隠すことで守ってくれた。

 だから、ぼくはこの手が好きだった。

「そういうところだったんだとよ、シベリアは」

 そのじいちゃんの親友に、会ってみたくなった。

 じいちゃんの話がどこまでほんとうだったのか、ぼくには確証がない。

 いや、「ほんとう」という意味では、じいちゃんの話は全部ほんとうには違いないけれど、それはいろんなものが一緒くたになったという意味で、「ほんとう」だ。

 じいちゃんの書斎。『イワン・デニーソヴィチの一日』が、背が擦り切れて、本棚の一角に取り残されていた。ときどき本を取り出してみては、ピンク色のトカレフの、ほんとうの持ち主に、いまこうして会っているんだ、とぼくは満足することにした。

 その友達も、じいちゃんも、もうこの世にはいない。あの世、というものがほんとうにあるのだとしたら、きっとそこにいるんだろう。

 いま、ピンクのトカレフは、ぼくの手の中にある。

 最初、つまりトカレフを発見した時、ぼくはこのトカレフが、ぼくのためだけに姿を現したように思えた。ぼくはじいちゃんの友達に会ったことはなかったけど、このピンクのトカレフはじいちゃんの友達にかわって、ぼくが見つけ出すことを、長い間待っていた。そんな気がした。

 それでぼくはこのトカレフがあれば、なんでもできるような気になっていたのだ。

 でも結局、今日の今日まで使う機会を持たなかったし、自分でその機会をなかったことにしたのだ。一九九八年の夏はそれをしめすチャンスだったはずだ。

 ぼくに必要なのは、このピンクのトカレフじゃなかった。

 いつでも勇気そのものだった。

 そうだ、ぼくには勇気がなかった。


 この町、K市肥吉のことを、さきに簡単だけど、書いておいたほうがいいような気がする。つまり、この場所からぼくの最後の、というか人類最後の夏休みがはじまったわけだけれど、そんな重大なことが起こるのに、この場所は相応しくないような気がするからだ。そして、そんな相応しくない場所から人類が滅びていったことを、ぼくはその最後にして最初の人類として、何度でもみんなに思い出させる必要がある。

 肥吉はのどかな町だ。悪く言えば廃れている。いや、そもそもなにもないのだから廃れる余地がない。廃れたり寂れたり、と言うのは一度繁栄したものがその役目を終えて忘れ去られるから、廃れたり寂れたりするのだ。……ってなにかの本に書いてあった。

 戦国時代に名のある武将が生まれたわけでも、戦うのに有利な要所があったわけでもない。太平洋戦争中に空襲を受けたわけでも、高度経済成長期にその一翼を担う産業があったわけでもない。それは全て肥吉の身の丈に合ったものではなかった。……これもなにかの本に書いてあったけど、それにしてもさんざんな言われようだ。

 山のひだに押しつぶされた細長い土地に、田んぼが大きな畳のように敷き詰められている。町の中央を走っていた河北線は、隣のK市との合併と同じ時期に、採算が合わないという理由で廃線になった。残された線路や無人の駅舎のまわりには、ススキやセイタカアワダチソウやなんかが、競い合うようにして空に向かってひょろひょろ伸びている。そんな場所だ。

 たしかに肥吉にはそうした「輝かしい記憶」は似つかわしくない。

 人類滅亡が「輝かしい記憶」なわけがない、とみんなは思うだろう。だけど、ぼくにとって人類の滅亡は、その「輝かしい記憶」だ。


 一九九九年七の月

 空から恐怖の大王が降ってくる

 アンゴルモアの大王を蘇らせ

 マルスの前後に首尾よく支配するため

                         『ノストラダムスの大予言』


 けれど、そんなものはやっては来なかった。

 どこかでぼくは、そんなどうしようもない災いが、その災いのほうからやってくるのを待っていた。ぼくは一九九八年・夏の自分の勇気のなさを、そんな予言でつり合いをとろうとしていた。

 それなのに、恐怖の大王アンゴルモアは、一九九九年七月になってもやってこなかった。こっちが期待して待っているのに、アンゴルモアは、ほかのみんなはともかくとして、ぼくの期待を裏切ったのだ。

 ノストラダムスはウソつきだ。

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