ピンク★トカレフ

神崎由紀都

おぼえがき

 一九〇八年六月三十日。


 場所はロシア帝国領中央シベリア。エニセイ川支流ポドカメンナヤ・ツングースカ川上流に位置するバナヴァラ地域上空で、隕石の落下によるものとされる大爆発がおこった。「ツングースカ事件」がそれである。

 破壊力はTNT火薬に換算して3~30メガトン。威力は広島型原爆(約15キロトン)の一八五倍に相当したものともいわれる。爆心地半径の約三十キロから五十キロにわたる森林が炎上、約二千百五十平方キロメートルにわたって、約八千万本の樹木がなぎ倒された。これは我が国で言えば、東京都のおよその面積に相当する。

 爆心地が居住地から離れたタイガの奥地であったため、人的被害は公式には確認されていない。ただそれも、第一回の現地調査が、事件から十三年後の一九二一年のことでもあり、前述のとおりの僻地であるため、猟師や木こりなど、発見されなかった犠牲者の可能性も、完全には否定できない。

 ソビエト連邦成立後の一九二一年、鉱物学者レオニード・クーリックを筆頭とするソ連アカデミー調査団による初の現地調査が行われた。この時なされた聞き取り調査の結果では、落下する火球の目撃例、および二十数回にわたる衝撃音を、調査団は確認した。

 六年後の一九二七年。二回目の調査行により、この爆発で起こった特異な形状をしめす倒木地帯の中心地をクーリックらは発見する。「ツングースカ・バタフライ」と呼ばれるこの現象は、周辺の木々が放射状になぎ倒され、その名の通り、さながら蝶が翅を広げるようなありさまだったようである。

 当初より、クーリックらは隕石落下説を主張していた。しかし計四回行われた現地調査では、隕石孔クレーター、隕石の破片など、調査団の主張を裏付けるものは、ついに発見されなかった。



 1998年、夏。


 奇妙なカケオチ、に誘われた。

 奇妙な、というのも、傷だらけの彼女は、「この世」と「あの世」の話から切り出したからだ。

「この世で、ほんとうは一人一人にはなんのつながりもなくて、その存在はいつも独りぼっちなの」

 思えば傷だらけの彼女、涼波レイはその頃から、もう「そっちの人間」だったのかもしれない。

「死んであの世に行くとするでしょ? 遠いむかしから、人間が生まれてから今の今まで、人があの世って呼んでいる場所には、とにかくたくさんのたましいが存在していて、それでね、場所といっても、わたしの身体はこれだけだし、地球はこれだけだし、その無数の死んだ人たちをあの世って呼ばれている場所に押し込めておくために、そのたましいはぎゅっと圧縮されたものでないといけないだって思うんだ。あの世ってそのままあの世じゃないの。天国でも地獄でもない。きっとなにか別の場所なんだよ。その別の場所にもこれだけがあって、でも生き物はたくさん死んでいくでしょ? たましいだけだったとしても、いつかはいっぱいになっちゃう」

 腕に巻かれた包帯と、左目の眼帯が痛々しい。

 また、父親に殴られたのだろうか。

 だとしたら、いよいよレイの父親が憎くなってきた。想像の中で、ブルドッグのような父親の顔を殴りつけ、跪いたところに蹴りを入れ、手足も一二本折ってやろう。レイの受けた痛みを十分に、十分以上に分らせてやる。どんなに凄んでみせたって、反対に泣きながら許しをこうてみたって、ぼくは許さない。そしてぼくは最後に……といっても、これはぼくの想像の中でしかなかった。ぼくの心の中にいる、凶暴なぼく。

 ぼくは想像をこっそり吐き出すように、深く静かに息を吐いて、言った。

「それさ……」

「うん?」

「考えて生きてくの、つらくない?」

「うん、つらいよ。だから、ね」

 レイが肩を寄せて来た。

「考えなくてもいいくらい、わたしは遠くに行きたい。ここじゃない、もっともっと遠くに……」


 包帯で真っ白な

 少女を描いた


 筋肉少女帯の「何処へでもゆける切手」が、ぼくを呪いにかけた最初の歌だった。

「つれてってくれる?」

 ぼくはなにも言えずに黙っていた。


 切手をもらって

 何処へでも行こう


 すると、くすりとレイは微笑んだ。

「冗談だよ」

「——は?」

「みんな冗談。だってあの世なんてあるかどうかわかんないし。本で読んだの。全部その受け売り」

「ウケウリ?」

「そう、受け売り」

「ホンデ?」

「そう、本で」

 あぁ、そうか。とぼくは合点がいった。みんな本に書いてあることだ。書いてあるんだからしかたがない。本に書いてないことなんか、この世にはないんだから。

 あの日、ぼくはレイを、この世界から連れ出すべきだった。

 そのための武器も、ぼくはちゃんと持っていた。

 それなのに。

「息をしてるぞ!」

 その声に周囲からどよめきが上がった。

 助け出されたレイを一目見ようと、火事場見物に来た人の波が、ぼくのそばを流れていった。

 ぼくは足がすくんで、動けなかった。

 火事のなかからレイは助け出された。

 それで駐在の父さんが言うには、レイのガイコツみたいな母親とブルドッグみたいな父親は、黒焦げになって死んだのだそうだ。

 それでレイは自由になったんだろうか。

 その日、つまり火事のなかから助け出され、救急車のサイレンと赤色灯の光が、この町の夜の闇に吸い込まれるようにして消えてゆくのを最後に、レイはぼくの前から姿を消した。

 それでぼくは、あの日レイが話してくれたことを……つまりたましいや、あの世や、あの世にはそのまま持っては行けないこの身体のこと、レイの身体のことを、これまでずっと考えていた。

 考えているうちに、ぼくの十二回目の夏休みが始まった。

 それはぼくの最後の夏休みであり、人類の最後の夏休みだった。




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