23|『ドン・キホーテ』
「本当です」
「そして――悪魔・メフィストの居場所もわかりました」
ツキナは、静かに息を整えた。
「その場所は……このブルクサンガの街の裏側です」
部屋の空気が一瞬で凍りついた。
誰もが言葉を失い、ぽかんと口を開ける。
時計の針が、小さく時を刻む音だけが響く。
「……う、裏側?」
ノアが恐る恐る問いかける。
「そのー、危険な場所を比喩して、とかじゃなく?」
「いいえ。言葉通りの意味です。」
ツキナは、あっさりと否定した。
ノアが息をのむ。
「……待って、ツキナ。『裏側』って……どういう意味?」
ラテルベルが慎重に言葉を選ぶように問いかける。
ツキナは答えず、無言のまま、一枚の紙を広げた。
「これは、ブルクサンガが開発されたときに使われた都市設計図です」
紙の上には、
この街の道路、建物、トラムの線路――
すべてが詳細に描かれていた。
「この街の開発には、名だたる魔法使いや錬金術師たちが関わっています――」
そう言いながら、ツキナは設計図の端に指を添える。
ゆっくりと、紙の裏側へと指を滑らせる。
――紙が、静かに裏返された。
そして、現れたものは――。
もう一つの設計図だった。
それは、奇妙なものだった。
宇宙空間に浮かぶ建物。
重力の法則すら無視した、不気味な都市構造。
――人が住むためのものではない。
ラテルベルが、思わず声を上げる。
「こっ……この場所って、一体何のために?」
ツキナは少し思案した後――。
「不明です」
部屋が静まり返る。
「じゃあ、ツキナはどうして、
その……裏側? にプホラがいるって分かったんだ?」
アルミナがベッドの上で身を起こしながら尋ねる。
ツキナは、わずかに視線を落としながら、短く答えた。
「……勘です」
再び訪れる静寂。
「いやいや、さすがにそれじゃ説明にならないでしょ」
キロシュタインが苦笑しながらツッコむ。
ツキナは静かに息を整え、
ゆっくりと言葉を継ぐ。
「説明しますね」
「私は、ずっとプホラを追っていました」
「去年の夏、ソルトマグナで起きた事件の話を聞いて、すぐに向かいました」
「そこで、ある情報を得たのです」
「ソルトマグナの避難民の中に、『メフィストを見た』と証言する者がいた」
「最初はただの噂だと思いましたが――」
「道中で、偶然にも逃走中のプホラを見つけることができたのです」
部屋の全員が、息を呑む。
「気づかれないように、プホラの後を追いました」
「彼がたどり着いたのは、このブルクサンガでした」
「私は、彼が街から出ないか、ずっと見張っていました」
「じゃあ、ずっとこの街にいたってこと……?」
キロシュタインが信じられないという顔で呟く。
ツキナは静かに頷く。
「ある日、ついに接触しようとしたとき」
「突然、悪魔・メフィストが現れたのです」
部屋の空気が張り詰める。
「そして。プホラとメフィストは、裏路地の奥で――」
「空間にぽっかりと開いた裂け目へと消えていきました」
「裂け目……?」
ノアの声がかすれる。
「それで私は、この街の構造を調べました」
「そして、この都市設計図を見つけたのです」
ツキナは、再び裏面の奇妙な都市図を指さす。
「この裏面に描かれた不可解な構造を見て――」
「この街には『裏側』のようなものがあるのでは、と思いました」
「……あとは、勘です」
誰も、すぐには言葉を発せなかった。
「……まさか、この街にプホラが来ていたなんて」
キロシュタインが小さく呟く。
「でも……仮に裏側が存在するとして、どうやって行くんだろうねー?」
ノアが疑問を投げかける。
「それが分かれば苦労はしないんですけど」
ツキナが無表情で言う。
その後も、何度か議論を重ねた。
だが――。
具体的な方法は、見つからない。
沈黙の中、
アルミナが静かに提案した。
「……今日はもう遅いし、ひとまず解散しましょう」
全員が、それぞれ考え込んだまま、
ゆっくりと部屋を後にする。
ただ一人、ツキナだけが病室に残っていた――。
◇
夕暮れの光が、病室のカーテンを薄く染めていた。
窓の向こうに広がる太陽の丘は、オレンジと紫が混ざり合う空の下で静かに沈黙している。部屋の中では、ツキナがアルミナの傍らに座っていた。
「今日は、仕事のついでで来ました」
ツキナは淡々とした口調で言いながら、内ポケットから一枚の封筒を取り出した。
「これを預かっています」
アルミナの前に置かれた封筒には、ライオンの紋章が刻まれた封蝋が施されていた。そして、その表面にはたった一行の英文。
“Tilting at windmills”
――風車に突撃する。
その一文を見た瞬間、アルミナの瞳が大きく見開かれる。
震える手で封を切り、中から小さな木の枝で作られた槍と、一枚のポストカードを取り出す。ポストカードには、風車の絵が描かれていた。
アルミナの肩が、わずかに揺れた。
そして次の瞬間――。
涙が溢れ出した。
滲む視界の中で、ポストカードの風車が揺れる。
こぼれ落ちる涙は、止めようとしても止まらない。
喉の奥がひくつき、声にならない嗚咽が漏れる。
アルミナは、手で口元を覆った。
抑えようとしても、嗚咽が漏れる。
耐えられなくて、震える肩を抱きしめる。
カガルノワ。
君は、今もあの日のことを覚えていたのか。
「……その人からの伝言です」
ツキナが静かに告げた。
「お見舞いに行けなくて、ごめんなさい、だそうです」
アルミナは何も言えなかった。
その言葉が胸の奥に沈み込んでいく。
ポストカードの風車に、涙が一滴、二滴と落ちる。
滲んだインクが、夕陽の光に淡く溶けていく。
ツキナは、ぽつりと零した。
「……泣くの?」
言ってから、自分で驚いたように瞬きをする。
まるで、涙というものを初めて目にしたような、そんな顔だった。
「……泣くよ」
アルミナは嗚咽混じりに、かすれた声で答えた。
ツキナは、少し考えるように視線を落とし――。
そっと、自分の袖の端を掴んだ。
「……拭く?」
差し出されたのは、ツキナの黒装束の袖。
それは、ハンカチでも、タオルでもなく、ただの袖だった。
アルミナは、涙の滲んだ瞳で彼女を見つめる。
そして――。
ふっと、微かに笑った。
「……大丈夫。ありがとう」
ツキナは、こくんと小さく頷き、袖を元の位置に戻す。
…………、
……、
フラトレス地下都市「図書館の箱庭」――。
ページをめくる音だけが、静寂の中で響いていた。
アルは、本を手にしながらふと口を開いた。
「ねぇ、なんでドン・キホーテは風車に突っ込んでいったと思う?」
向かいの席で本を読んでいたクロは、視線を上げる。
「……敵だと思ったからでしょ?
ほら、槍を構えて、馬に乗って……戦ったんでしょ」
アルは、少し考えるように視線を遠くへ向け、ゆっくりと続けた。
「でも、風車は風車だったんだ。戦う相手なんて、どこにもいなかった」
「……だから?」
「ボクはね、彼がただのバカだったとは思えないんだ」
クロは、無言でアルを見つめる。
「だって、本当に敵がいなかったら、彼の戦いはなんだったんだろう? 誰のために、何と戦ってたんだろう?」
「……」
「ボクたちも、戦う相手なんて、最初からいないんじゃないかな?」
「だから、何が言いたいのよ」
「……もし僕たちが錆の魔女と戦うことになって、その正体がたとえ風車だったとしても、その戦いに信念さえあればいいんじゃないかなって。……ボクは思う」
「……、……そう」
クロの声が、どこか遠くに感じられた。
23.『ドン・キホーテ』
アルミナの涙が、一滴、ポストカードの風車に落ちた。
にじんだインクが、夕陽に淡く溶けていく。
言葉にならない想いが、胸の奥でそっと囁いていた。
風車に突撃する騎士は、どこへ向かうのだろう。
その戦いに意味があると信じる限り、進み続けるのだろうか――。
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