31 ジルベール騎士爵 アニエス その11

太陽が昇り大地を明るく照らし始めながらも夜の領域がまだ完全に明けきらぬ頃。

私はふと「騎士とは何か」という取り留めのない事を考えていた。



究極的には暴力を振るうことが本懐義務であろう。



「自分の身は自分で守れ」という考えは一見、自然の摂理であり真理に見えて、人間社会とは非常に相性の悪い考えである。

これは倫理観だとかの問題ではなく、効率から見た話なのだ。


自分を誰も守ってくれないのならば、一番最初にやらねばならぬことは何か。


防衛力を高めることだ。


身体を鍛え。

武器を扱う訓練をし。

襲われても反撃できるよう備えねばならない。


そうでなければ、例え富をなそうとも奪われるし、汗水たらした畑を荒らされる。

妻や子の前に、まず自らを守らねばならん。


さて。

人の1日の時間は皆揃って有限であるし、休息もなしに行動し続けることもできない。

人は物を食わねば生きていけない以上、自己防衛のための鍛錬とは別に食糧を用意する時間をかけねばならん。


食糧を用意するとはすなわち、農業なり漁業なり採取狩猟なりなのだが、そんな生活をしようものなら日々の生活で手一杯であり、とてもじゃあないが文化や文明など進展しようがない。


野生動物や魔物が良い例であろう。


彼らは人間よりはるかに恵まれた体躯を持ちながら、すべてを自己で完結させたが故に都市を築けず、徒党を組んだ人間に負けたのである。


そう、つまりは役割分担。


人間は徒党を組み、それぞれが仕事を専業化することで効率化を図り、それによって出来た猶予時間と体力を持って文化文明を育んだのである。


つまりは騎士とは。


農民が田畑を耕すように、悪党をブチ転がすことが仕事であり。

聖職者が祈りを捧げ法を紡ぐように、魔物を叩きのめすのが使命である。


敵を殴る。

敵を潰す。

敵を壊す。


敵を殺す。


私の筋肉は、その期待に応えてくれる。

暴力によりすべてを解決してくれるラ・フォルス・フェ・ル・ドロワ


断じて、紙に書かれた数字を読み解くことが本懐ではないのだ。



目の前に山と積まれた繊維紙や羊皮紙の束。

書き殴られた蝋板。

先を削ったばかりの羽根ペンと、黒々としたインク壺。


私は現実から逸らし続けていた目を渋々と戻す。

そろそろ手を付けんと時間がなくなる。



「——はぁ」



何度目とも知れぬ、重いため息が漏れた。

インクで汚れた指先でこめかみを押さえるが、気分が上向き浮上する気配はない。


コリン村の視察を終えた後、私はもう一つの、元はテネブルシュール騎士爵領であったラパン村へと足を運んだ。


その結果は予想通り。

想定通りに最悪だった。


コリン村と何ら変わらぬ荒廃しきった光景が広がっていただけだ。


働き手である若い男はギヨーム私戦のために根こそぎ徴兵され、残されたのは老人と女子供ばかり。

痩せた土地は耕す者もなく、ただ雑草が生い茂るだけの荒れ地と化していた。


希望の花など、どこにも見えない。

止まるんじゃないと言われても、こんなん誰しも立ち止まる。


本当にギヨームのあの野郎、勝っても負けても私を悩ませて来やがる。


現在アイツはテネブルシュール騎士爵領の最後の1つとなった、元テネブルシュール卿であるギヨームの父が保養している村……沿岸部にあるコート村に居るらしい。

こっちから私戦叩きつけて今度こそ岩盤に埋めてやろうか。


……いや、もし殺してしまえば、これ以上に負債を負うことになりかねないか。

サーモ伯爵が満面の笑みで「テネブルシュール騎士爵領の統治者がいなくなってしまったなぁ。じゃあ責任とってアニエス、君が管理してくれないかなぁ?」とか言いそうである。


最凶の護身。

意図してやっているなら褒めてやりたいところだぁ……。



さてラパン村に対し、私はコリン村の時と同じように、森への立ち入りを許可し、そして山賊働きに身を落とした者たちが罪を償うための道を示した。


これで、いくらかの労働力は回復するだろう。

回復してくれないと困る。

お願いだから回復してください。


さて次の問題。



「食料なぁ……」



当面の食料については、ソーヌ村とクリール村の不正役人どもが不正に蓄えていた穀物を融通させることで何とか凌げるだろう。

既に信頼できる部下に命じ、パトンに手配させて運搬の準備を進めている。


だがそれもまた、対症療法その場しのぎに過ぎん。


本来であればもっと潤沢に、そして大々的に支援を行いたい。

だがその食料は元々、ソーヌ村やクリール村の民から搾取されたものだ。


彼らにしてみれば、自分たちが奪われたものを、何故、よりにもよって自分たちを襲った敵の村に分け与えねばならぬのか、と憤るだろう。


特にソーヌ村はギヨームの軍勢による直接的な侵略を受けたのだ。

家を焼かれ財産を奪われ、家族や友人を傷つけられた者も少なくない。


彼らの恨みは、深い。


いくら連中が今やジルベール騎士爵領の村民になったとは言え、彼らにしてみれば預かり知らぬ話だ。


そもそもソーヌ村とクリール村ですら殆ど関係を持つことなどなかったのだ。

精々、血が濃くなりすぎないようにするため、時折交換でお見合いをしていた程度か。


彼らにとって他の村など、外国と大して変わらんのである。

自分の生活が苦しいのに、徴収された税を他国に援助され続ければ怒りも湧くし異論も出よう。


もちろん力づくで命令し、有無を言わさず食料を供出させることは可能だ。


封建制が色濃い時代である今、領主の権限は絶対的である。

私は領主であり彼らは私の民なのだから、私が白と言えば白になるのだ。


だが、それで人がついてくるはずがない。

恐怖だけで支配された関係は脆い。


いつか、必ず破綻する。


信頼を築くには時間がかかる。

だがラパン村とコリン村に残された時間は、あまりにも少ない。


やはり最終的には強硬手段に出るしかないか。



「……はぁ」



私の口から再び溜息がこぼれ落ちる。


悪徳領主めいたムーブなどしたくないしやりたくない。

だがやらねばならなん、仕方ないね。


その時執務室の扉が、控えめにノックされた。



「アニエス様、エロディでございます。今、よろしいでしょうか」


「……ああ、入れ」



静かに入ってきたエロディは、私の机の惨状を一瞥すると、少しだけ心配そうな顔をした。

だが、すぐに侍女としての表情を取り戻し、恭しく一礼する。



「お客様がお見えです。ジルベール騎士様に、ぜひお目通りを願いたい、と」


「客?私にか?」



一体、誰だ。

え、ほんと誰?


私が不在の間に、アルベール殿下からの使者でも来たのか?

いや、いきなり第二王子が尋ねてくるはずもないか。


それに、それならば、もっと仰々しい形で連絡が来るはずだ。

あるいは先触れとして早馬が来る。


それはサーモ伯爵であろうと同じ。


そうすると本当に誰だ?



「どのような者だ?」


「はい。商人だと名乗っておられました。アウグスト様、と……」


「商人?」



こんな辺鄙かつ何の特産物もない騎士領だが、そりゃあ商人もやってくる。

いかに貧乏村とはいえ、売るものもあれば買うものだってあるからな。


だが、このタイミングで商人か。


正直言って非常に助かる。

いや本当に。



「分かった。応接間へ通せ。すぐに私も向かう」


「かしこまりました」



エロディが退出していく。


私は物理的に重い腰を上げる。

執務室の隅に置かれた水差しで顔を洗うと、身なりを整える。


一人でいるときはトーガ……まあ、ようは布を体に巻き付けて服としているのだが、さすがにそんな格好で人前に出るのは憚られる。


とはいえ、農民に毛が生えた程度の布の服くらいしかない。


背丈がデカすぎて、まともに正装しようとすると常人よりもはるかに金が飛ぶ。

それ故に中々用立てられんのだ。

古着に頼ることもできないという、罰ゲーム付きである。


私は前世の成人男性としての記憶を思い出して15年になる。

女性としての生活にもいい加減慣れたし色々と受け入れることと相成っているが、服装だけは本当に面倒だ。


とはいえ、ずぼらで許されるかと言ったらそうはいかず。


筋肉モリモリマッチョマンの男なら上半身裸で出てきても許されるんだがな。

私も筋肉には多少の自慢があるとはいえ、乳を丸出しにして人前に出ようものなら教会の人間に怒られる。


やんなるね。



館の応接間は殺風景な空間だ。


ここは父ダミアンが生きていた頃から調度品はほとんど変わっていない。

客をもてなすための椅子も長年の使用で革が擦り切れたもの。


貴族の館の応接間というよりは、少し裕福な農民の家の居間と言った方がしっくりくるだろう。

騎士としては本当にギリギリ及第点、赤点にはならない程度の内装である。


これに関しては仕方ない、調度品をバカスカと揃えられるほど我が領は裕福ではないのだ。

客を良く呼ぶようなこともあれば見栄えも重要だが、気狂い騎士とその娘を尋ねる人間などそう多くはないのでな。


とはいえ度が過ぎれば舐められる要因になるので、本当に最低限は維持せねばならんのだが。



その部屋では、久方ぶりの客人である一人の男が悠然と椅子に腰かけていた。

彼がアウグストと名乗る商人か。


年の頃は五十代後半といったところ。

白髪交じりの髪は綺麗に整えられ、その身にまとっているのは、決して派手ではないが、上質であることが一目でわかる生地の服。


顔には好々爺然とした人の好さそうな笑みを浮かべているが、その奥にある瞳はまるで鷹のように鋭い。

油断なく、私の一挙手一投足を観察していた。


長年の経験によって磨かれたであろう、したたかさと抜け目のなさが、その全身から滲み出ている。


おもてなしのためにテーブルに並べるのは、黒パンライ麦パンにベーコン、豆のスープポタージュに硬めのチーズ、韮葱リーキ、そしてエール。

……まあ騎士爵が用意する食事としては及第点じゃなかろうか、これでもだいぶ頑張った方だ。


しかし、こういう商談だとか、絶対頭使う場面でアルコールは出したくないし飲みたくないんだけどなあ。


農民なり私のような下級貴族なりは自分で飲む分のアルコールは自分で醸造しているもので、質より量を重視しているものだ。

きっとこれも度数は薄いんだろうが、前世の記憶から、僅かでもアルコールを摂取すると脳の働きが鈍るような気がしてならんのだよなぁ。



「これはこれは、ジルベール騎士様。この度のご叙任、誠におめでとうございます。私、アウグストと申します。以後、お見知りおきを」



私が部屋に入るとアウグストは素早く立ち上がり、深々と頭を下げた。



「本日は、ご挨拶の印といたしまして、ささやかではございますが、こちらを……」



彼はそう言うと、傍らに置いていた革袋を恭しく私の前に差し出した。

袋の口から銀貨の鈍い輝きが覗いている。


だが、私はその革袋に手を伸ばそうとはしなかった。



「……商人というものは、無料でこのようなことをする生き物だったか?」



要はこれ、前世で言うところの「山吹色のお菓子賄賂」だからな。


金自体はそりゃあもちろん欲しい。

5,000兆円くらい欲しい。

しかし、無料より高いものはない、とは前世も今世でも通じる真理の一つである。


これを受け取ったが最後、どんな無理難題を通してくるかわからん。


さて私の問いにアウグストは僅かに目を見開き、そして先ほどよりも深い、面白いものを見つけた子供のような笑みを浮かべた。

なるほど、こっちが本性か。



「はっはっは。これは手厳しい。……左様でございますな。我々商人は、利益なくして動くことはございません。この贈り物もまた、投資とでもお考えいただければ」


「ふむ。何が狙いだ。何を企んでいる?」



私は単刀直入に尋ねた。

回りくどい探り合いは時間の無駄だ。


というより、私自身がそういう腹芸が苦手である。

下手に猿真似するよりは、いっそ真正面からストレートでぶん殴る潔さで挑んだ方が良い。


……とはいえ、嫌だ嫌だと逃げずに勉強はしないとなぁ。


アウグストは私のそのあまりにも直接的な物言いに、感心したように、そして少しだけ愉快そうに頷いた。



「実に飾り気のないお方ですな。よろしいでしょう。ならば、こちらも剣のように真っ直ぐ単刀直入に申し上げます」



彼は一度言葉を切ると、その鋭い瞳で、私を射抜くように見つめた。



「ジルベール騎士爵領に、かのテネブルシュール騎士爵領の一部が編入されたと聞き及びました。領地が広がるということは、即ち、今後の発展の余地もまた、大きく広がるということ。なればそこに投資する価値もありましょう」


「……」


「つきましては、もし、ジルベール騎士様にお抱えの御用聞きがおられぬのであれば、この私、アウグストを、その役にお加えいただけないかと。必ずや、騎士様のお力になれるものと自負しております」



御用聞き。


それは特定の貴族や領主と専属契約を結び、必要な物資の調達や、領地で生産された産物の販売などを一手に引き受ける商人のことだ。

領主にとっては安定した取引先を確保できるという利点があり、商人にとっては独占的な市場を得られるという、双方にとって利益のある関係。


前世だと利権だとか言われる関係性である。


なるほどこの男は私の領地の将来性を見込んで、今のうちに唾をつけに来た、というわけか。

まだ私が誰とも契約を結んでいない、この好機を逃すまいと。


私が領主となって、まだ日も浅いのだが。

……いや、商人であればこそ、そのあたりの情報に敏感だろう。


御用聞き自体は別に騎士爵にいてもおかしくない。

言い方としては大仰だが、ようはお得意さんみたいなものだからな。



「あいにくだが、お前が期待するほどの利益を、すぐにもたらせるとは思えんが?」


「はっはっは。商売とは、実りの秋に種を蒔くものではございません。まだ雪解け前の、これから耕す土にこそ、種を蒔く価値があるのでございますよ、騎士様」



実に商人らしい言い草である。

私は少しの間、腕を組んで考え込んだ。


御用聞きの商人がいれば、確かに助かる。

とはいえ、さすがにここですぐ「ハイ!」とはいかんだろう。


銀貨受け取らなくてよかった。



「……御用聞きの商人は、いない。だが、お前をすぐにその役に任じるつもりもない。まずはお前の実力を示してもらおうか。話はそれからだ」


「望むところでございます。して、騎士様。私に、何をお望みで?」


「私には、売りたいものが山ほどある」


「『売りたいもの』ですか、それは一体なんでしょうか?」


「これだ」



さあ本題だ。


私はパトンにあらかじめ用意させていた、数枚の羊皮紙をテーブルの上に広げた。



「これは……」



アウグストは食い入るようにその目録を検め始める。

そこに記されているのは美術品や骨董品、そして武器や鎧、そして馬。


もちろん、これらは私が国王陛下より賜った鎧だとかノワールのことではない。

そんなもん売り払おうものなら私は胴体から首を取り外さなければならなくなる。



これらは、あのギヨームから身代金の代わりとして接収したものだ。



ギヨームが収集していた武具の中には、質の良いものがいくつかあった。

馬も農耕馬などではなくしっかりと軍馬であったし、ノワールがいなければ私が自分用に確保していたかもしれない。

あとは調度品や美術品、骨董品の類を根こそぎ確保してある。


総額にするとそれなりの価格であり、着飾ってこそいたがその実態は貧乏騎士であるギヨームの身代金としては、聊か取り過ぎた感がある。


が、身代金を現物支給で支払う場合は思い切り買い叩かれるのが常なのだ。

元の価格と比べて50%オフから始まるし、なんなら90%オフで査定されることすらある。


本来は家臣団とかと交渉してお互いの妥協点を探るのだが、今回はギヨームが塩の密輸に携わっていたせいで、上司であるサーモ伯爵が出張ってきている状況であるために交渉なんかできるような状況はなかったのだ。

ついでに言えば、私が交渉に来たギヨームの遣いを持て成すため、用意した林檎ポンムを素手で握り潰して果汁をお出ししたら「買取価格は私の言い値でよい」と回答を得たのでな。


いやー、すぐに現金が手に入らないから食料がすぐに手に入らんということだけは難点であったが良い取引であった。


特にクロスボウ。

あの野郎まだ二挺持っていやがったからな、もちろん接収した。

これは今後の領地の防衛を考えれば、手元に置いておいて損はないので売るつもりはない。


他の武具や馬、そして調度品や骨とう品なんかも勿論使えるんだが。


剣は私は自前のモノがあるし、鎧は奴の体格に合わせてあるから着ることはできない。

馬はさすがにこれ以上維持できない。


調度品や骨董品は我が館に不足しているんで幾ばくかとっておこうかとも思ったが。

貧乏村を追加で2つも抱える羽目になったのだ、どうなるかわからんし、いったん金や物資に換えて、落ち着いて余裕が出たら買うようにしよう。



アウグストは、私の提示した目録を一つ一つ丹念に確認すると、やがて、ほう、と感嘆の声を漏らした。



「これはこれは、中々の品揃えでございますな。特にタペストリーと銀食器は良いですな。武具も数こそ少ないですが良い品のようで。……ですが、騎士様」



彼は、少しだけ申し訳なさそうな顔で、私を見上げた。



「これだけの量を私一人で一度に買い取るのは、正直なところ難しい。現金もさることながら、これらを運ぶための人手も荷馬車も足りませぬ」


「支払いは現物でも構わん……というより、そちらの方が好都合だな。食料、農具、種籾、薬。そのあたりと交換したい」


「なるほど……。しかし、それでも全てを一度に、というのは……。つきましては、騎士様。一つ、ご提案があるのですが」


「何だ?」


「後日改めて、私の同業者を何人かここに連れてきてもよろしいでしょうか?彼らと協力すれば、これらの品々をより高く、そして迅速に換金することが可能かと。勿論連れてくる商人の選別は、この私、アウグストが責任をもって行います」



彼の提案は、理に適っていた。


一人で抱え込むよりも複数の商人で分担した方が、より良い条件で取引できる可能性は高い。

だがそれは同時に、私が相手にすべき商人が増えるということでもある。


一人でも腹の底が読めぬというのに、その数が増えるとなれば、交渉はさらに複雑になるだろう。

というか、丸め込まれて買い叩かれそうである。


しかし今の私に、悠長に構えてられる時間などない。

一刻も早く、まとまった物資を手に入れねばならぬのだ。



「……良かろう。連れてくる商人の選別は、お前に一任する。だが、もし、質の悪い商人や、足元を見るような真似をする者を連れてきた場合は、どうなるか……分かっているな?」


「はっはっは。滅相もございません。騎士様のご期待を裏切るような真似は、決して」


「……その仕事、見事にやり遂げた暁には、お前を我がジルベール騎士爵領の御用聞きとして、正式に認めよう」


「おお!それは、ありがたき幸せ!」



アウグストは深々と頭を下げた。


まあ色々とあるが、商人が来れば領の経済は活性化するだろう。

見知らぬ土地の見知らぬ物資というのはいつの時代でも好奇の的であるし。


商人が来るということは、それに伴い様々な人や馬が来るということだ。

商人たちがよく訪れる都市では、彼ら相手の旅籠を経営しているところもあると聞く。


人の流れは金になるからな。

……ああ、そうだ。それならばいっそ。



「アウグスト」


「はっ、何でございましょうか」


「お前たち商人が、より自由に、そして安全に商いができるように、今後、当分の間、我がジルベール騎士爵領を通過する商人、および、領内で商いを行う商人から、一切の通行税、および市場税を取らないこととする」


「…………は?」



アウグストが、素っ頓狂な声を上げた。

彼の顔から、長年の商売で培ってきたであろうポーカーフェイスが、完全に剥がれ落ちている。


信じられないものを見た子供のような、間の抜けた表情だけがそこにあった。


……え、そんなにおかしいかな。



「ぜ、税を……取らない、と……?騎士様、それは、ご冗談で……?」


「いや冗談ではないんだが」


「なぜ……なぜ、そのような……?これでは、騎士様の取り分が……」


「この領地に活気を取り戻すことの方が重要だ。税をなくせば多くの商人がこの地を目指してやってくるだろう。人が集まれば物が集まる。物が集まれば金が動く。そして寂れた村々にも、新たな商機が生まれるやもしれん」



楽市楽座。


前世で第六天魔王織田信長がやったことで有名な政策である。

商売する上で課せられていた税をなくすことで、自由な経済活動を促し、市場そのものを活性化させる。



「しかし、そのために通行税を……?」



私の言葉に、アウグストは絶句した。

通行税や市場税は、領主にとって安定した重要な収入源だ。


それを自ら放棄するなど、前代未聞。

狂気の沙汰としか思えなかったのだろう。


まあ確かに。


少なくとも私は確かにそう習った。

習ったのだがなぁ。


我が領はリュミエールの果てと呼ばれる、ダンケルハイト帝国に接するような外れも外れな場所にある。

国の端っこにある貧乏な土地であり、主要な産業があるわけでもない。

そりゃあ商人が来ないわけではないが、わざわざ寄ろうとも思わない場所にあるのだ。


つまり通行税は我が領にとって、無いに等しい収入源なのである。

人が全く通らん山のがけっぷちに自動販売機を置いても売れないのと同じだ。


あってもなくても殆ど変わらんのであれば、いっそ無くしてしまえば商人がこの地を訪れてくれるのではないかという魂胆である。


あれだ、前世のアメリカの映画館の考え方と同じだ。

映画を安価に公開して飲食代で稼ぐ空いた席はポップコーンを食べない手法。




「それにだ。税を取らぬ代わりにお前たち商人には、この領地の産物を他よりも優先して、そして適正な価格で買い取ってもらわねばならん。何の制約もなく安全に商いができる土地と、重税を課せられる他の土地。どちらが、お前たちにとって『儲かる』か……言うまでもあるまい?」



無論、強制はせんがな。

貧乏村が立ち並ぶだけだからなあ、本当に立ち寄ってついでに見本市でも開いてくれると嬉しいな程度の話である。



「……騎士様。あなたは……いや、貴女様は、恐ろしいお方だ」



アウグストは驚愕冷めやらぬ様子で、私を見つめた。





【通行税】

領主や都市が道路、橋、川、市場への通行に対して課す税であり、街道などに設けられた関所を通過する際に支払う。

商人、巡礼者、農民、貴族など、誰であっても通行料を支払う必要があり、徴収された税金は領主の収入源となり、主に城の維持や軍事費に充てられた。


通行税収入は領主や都市の主要な財源の一つであり、その額は地域・時代・関所の立地によって大きく異なる。

交易の要衝で他国からの商人も多く訪れるエフェルヴェサン伯爵領の大市では、1回の市で数千人の商人が出入りすることも珍しくなかったため、年間で2万から4万リーヴルの通行税を徴収しており、この税収入だけで歳費の半分を超え、軍事費を賄っていたとされる。


一方で、関所を設けても通行税収入がほとんど期待できない、または設置自体が非現実的な領地は多数存在し、山岳部や森林地帯などの極地や、周辺から孤立した地域などはもちろん、他領に囲まれており複数の関所を潜らねばならない場所などは二重、三重に課税させられるため避けられていた。


そのような場合は関所を設けても収入はゼロに近く維持費で赤字になるため、実質的に設置されなかったか形骸化したケースが多数であり、「関所で儲けられるか否か」は領主の富の格差を決定的に分ける要因の一つであった。




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