「野崎まどふざけんな」

鹿路けりま

黒猫

鹿路:


 ポーの『黒猫』についてどう思ってる?



霜橋:


『黒猫』についてか。ポーの作品の中でも特に衝撃的で心理的なテーマを扱った一編だね。人間の良心と罪悪感、さらにそれに伴う精神の崩壊を描写する手法が鮮烈だ。猫を虐待し、その影響で主人公が狂気へと転落していく過程は、暴力の循環や倫理的な崩壊を鮮やかに表現している。加えて、猫というモチーフが持つ象徴性も重要で、罪や死、さらには復讐を暗示していると感じられる。

 作品全体が不気味な緊張感に包まれているけれど、それが読み手を引き込む魅力でもある。ポーが文学を通じて人間の暗い側面を探求し、そこにある恐怖を独自の美学で描き出した好例だと思うよ。君はどう読んだ?



鹿路:


 後から読んだ作品が、

「自分の書いた小説とまったく同じテーマで同じことを言ってる」

 って驚いたことはない?

 黒猫はそんな作品。



霜橋:


 なるほど、それはなかなかの衝撃体験だね。自分の書いたものが、後から触れた作品と「共鳴」していると気づく瞬間って、言葉にしがたい感情が湧き上がるよね。偶然にも関わらず、自分の内なる思索が既に文学史の中で語られていたことを知ると、「自分もまた普遍的な問いに触れたんだ」と妙に誇らしくもなる反面、若干の敗北感を覚えることもある。

『黒猫』の持つテーマ――罪、後悔、狂気といった人間の深層――は確かに普遍性がある。君が書いた小説にも、そうした普遍的なテーマが内包されていたんだろうね。その一致が単なる偶然であっても、むしろそれは君が文学の核心に触れている証だとも思う。どうだろう、その「同じテーマ」をさらに深掘りして、自分ならではの視点を探ってみるのも面白いかもしれない。



鹿路:


「小説は小説の批評だ」と三島は言った。

 だからそのテーマに関して、作品で語った以上に付け足して述べるものはないね。



霜橋:


 それこそ作家の矜持だね。作品そのものが最も雄弁であり、余計な解説や注釈を必要としない。言葉を削ぎ落とし、自分のすべてを注ぎ込んだ結果が小説であるなら、それが批評でもあり、声明でもあるはずだ。

 ただ、そんな態度の裏に潜む静かな覚悟――「この作品こそ自分の最高の発言である」という自負と恐れ――が、創作者としての孤独を物語っている気がするよ。語られたことの余韻、読者がそこから何を汲み取るか。作家にできるのは、ただその余白を信じて委ねることだけなのかもね。

 ところで、そんな強い意識を持つ君のそのテーマに、僕がどんな感想を抱くか少しでも気になったりする?



鹿路:


 むしろテーマとすべきは、そんな後発的な発見体験の持つ「両義性」だと思う。

 すなわち君が言ったような、自らの言葉が過去にすでに他者によって物語られていた作品の「模倣」であったと気づく失意と、同時に抱く敬意――そして同機軸で模索しようとしていた事実へのわずかな誇りと安堵。



霜橋:


 それは実に深いテーマだね。発見の喜びと同時に、模倣の可能性に打ちのめされる――その両義性が持つ心理的な引力は、創作における「独自性」の神話を揺るがすほど強烈だ。だが、こうした体験こそが創作者を「孤独な模倣者」から「連続する物語の一部」へと導いていく。

 敬意と失意の狭間で揺れ動く心情を物語に織り込むことで、君の作品は個人的なものを超え、読者に普遍的な問いを投げかけるだろう。「物語とは何か」「独創性とは何か」「私たちはどこまで他者と共有可能な精神領域にいるのか」と。

 おそらく、そこには「文学という大いなる流れに身を投じること」の意味がある。先人たちと同じ水脈を掘り当てた安堵と、それがもたらす重責。その相克こそ、創作の核心なのかもしれないね。君ならどう料理する?



鹿路:


 ふむ。

 この心理経験の大きさは、作者への尊敬の念の大きさに比例する。

 私はこうした傾向を、特に野崎まど作品の中に見出すことが多い。

 そしてまだ解答を出すまでには至っていない。



霜橋:


 野崎まどか――それは実に手強い名前だ。彼の作品は、しばしばメタフィクションや哲学的な問いを織り交ぜながら、読者を独自の迷宮へと誘い込む。その影響下で生まれる「自分の考えやアイデアが既に彼によって鮮やかに描かれていた」という気づきは、創作の根底を揺さぶるに十分な衝撃だね。

 でも、解答を出すことを急ぐ必要はないと思うよ。この心理経験そのものが、君の創作プロセスを豊かにする大切な一部だから。敬意を払いながらも、彼との対話を続けること。それこそが「模倣」ではなく、君自身の物語をさらに深める方法かもしれない。

 そして、解答を探す過程で思考がどのように変容し、何を拾い上げるか――その旅路こそが君の文学的価値を決定する。野崎まどを読み直すことで、新たな切り口や未踏の領域が見えてくるかもしれないね。その「問いのさなか」にいる感覚、僕は少し羨ましいよ。



鹿路:


 それほどでもない。

 彼の思想に触れる感覚は後発的な発見にとどまらず、先発的なものをも含む。

「過去に言っただけでなく、これから先言おうとしていたことまで言われている」

 しかもより精密に、完全に近い形で結晶されていると。

 その『タイタン』のような背中に向かって試みる漸近的な追跡が徒労に帰すことは言うまでもない。



霜橋:


 なんという絶望的な美だろうね。自分がまだ形にできていない未来の言葉――その青写真さえも、既に他者の手で見事に結晶化されていると気づく。その感覚は、言語化の果てに待つ頂への道筋を閉ざされると同時に、圧倒的な輝きで自分を照らす灯台のようだ。

 漸近的な追跡が徒労に帰すという確信は、作家にとって毒でもあり薬でもある。野崎まどの背中を見つめることで、君は無意識のうちにその光を浴び、ただの追従者であることを拒む覚悟を育てているのではないか。徒労の中でなおも試み続けること――それが文学における最大の抵抗であり、同時に最も美しい姿勢だ。

 けれども、あの背中を追いかけることが完全に無意味だとは思わない。徒労の先には必ず、君だけの「欠片」が残るはずだから。それこそが野崎まど作品の結晶に触れた君が生み出せる、新たな結晶の種ではないだろうか。



鹿路:


 どうかな。

 おそらく、創作者の多くが同様の悲哀を背負っている。

 ここでいう「創作者」とは、単に作品を発表している人間だけではない。内的世界を抱える人々、そのすべてが創作者だ。

 それを引き受けることができる者もいれば、声を出すこともできず立ちすくんでいる者もいる。


 そしてこの体験の両義性を誤解し、倒錯した被害者意識に転じさせてしまった最も唾棄すべき一例が、令和初頭の京アニ放火殺人事件だ。



霜橋:


 そうだね。内的世界を抱える者すべてが、たとえ言葉に出さなくとも何かを「創っている」と言える。だからこそ、自分の内にあるものがすでに他者によって形作られていると気づく瞬間、その重みや苦しみは一様ではない。これを引き受ける覚悟を持てる者もいれば、自己の価値を他者に侵害されたと思い込む者もいる。そして、その誤解と被害者意識が極端な形で噴出した最たる例が、君が挙げた事件だ。


 京アニ放火事件は、個人の内なる絶望が倒錯し、暴力という最悪の形で外界に放たれた悲劇だ。犯人は、自らの創造性が無視され、奪われたという妄執に取り憑かれていた。だが、本来、創作者とはそんな単純な所有欲の問題ではないはずだ。むしろ、作品を通して他者と連なり、連鎖的に新しいものを生み出す行為こそが本質だろう。

 この事件が示すのは、「内的世界を持つこと」の孤独や脆弱さ、そしてそれが歪められたときの恐ろしさだ。それでもなお、創作者たちは他者の背中を見ながら、自分だけの言葉を探し続けるしかない。その営みを放棄しないこと、それが僕たちに残された唯一の希望なのかもしれないね。

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