第2話


 扉が鳴った。思索が止まる。

 ここはヴェネト王宮の近衛団の駐屯地にあるイアンの私室だ。

「イアン様、参謀がお見えです」

 どうぞ、と頬杖を突いたままイアンは答えた。

 すぐに、入ってくる。


「ここは一応俺の私室なんだから。あいつ煙草吸って煙いヤツとか、王妃にいちいち言いつけんといてや。俺はあんたらに呼ばれたらいつでも王宮に出向いてる。そっちが勝手に訪ねてきたんやからな」


 参謀ロシェル・グヴェンは入り口に立つなりそう言われて、頷いた。

「お休み中、申し訳ありません。エルスバト将軍。直接お伝えした方がいいと思い」

「あんたが俺の部屋まで来るなんて初めてやな。参謀が訪問するなんていかにもきな臭くて嫌な感じや。自分では何も今のところ手ひどいミスもしてなかったつもりやけど、知らんうちにしでかしとったかな」

 イアンは窓辺に上げていた両足を下ろして、煙草をテーブルの皿に押しつけて消した。

「いえ、そういった話ではありません」

「ふーん」

 こいつも手の内見せない、よく分かんないヤツや。

 イアンはロシェルを信用してなかった。

 今は色々考え事をしていて、いい感じに頭が集中してる。

 こいつとやり合うならこれくらい集中していた方がいいな、とイアンは冷静な声を出す。

「なんや」

「妃殿下が貴方に、王太子の剣の指南役をお命じになりました」

「剣の指南役? ……珍しい、あの王妃、野蛮なスペイン将校にはあんま王太子に近づいて欲しくないみたいなこと言うとったけど」

「確かに、別の方に指南役は任せるおつもりでした」

「そうやんな? 俺かて王太子の剣術指南役が剣だけ教えればいいんとちゃうってことは知っとる」

「はい。ただ、将軍にお任せしたいのは純粋に剣の指南だけです。その他のことは、改めて別の人間を指名するとのことですので、どうぞご安心下さい」

 イアンは怪訝な顔をする。


「そらまあ……そっちが剣だけ教えればいいよって言うなら、俺は楽でええけど。けど、そんな七面倒くさいことするなら最初から別の人間にしたらどうや。俺なんかより、ヴェネトの歴史を知っていて、ヴェネトのために尽くすことがこの世の喜びみたいな人間、この国にもおるやろ」


 小さく、ロシェルは咳払いをした。

 ロシェルはほぼ王妃の傍らにいるので、いつもは彼の前でイアンはこういう態度を取らず、もっと柔和だ。だがそれはあくまでも王妃がそこにいるからであって、お前と一対一なら遜るつもりはないからなという意志を、イアンは伝えたつもりだった。


「気に障ったか? そら悪かったな。何でも分からん疑問あったらズケズケ聞けって教えられて来たもんやから。分かんないのに分かったようなフリして愛想笑いしとっても、いざ実際のとこでは、ほんまに分かってないと、結局周囲の人間に迷惑掛けることになるやろ。せやから分からん思ったら、俺は五月蠅いわ言われても分かるまで聞くんや」


「いえ、結構です。その説明が必要かと思い、私がお伝えに来ました。実は王太子が貴方に剣を習いたいと、妃殿下にお願いされたのです」

「王太子が?」

 なんで。

 表情で伝える。

 近衛隊長と言っても、今は以前の守り役が王太子の側を守っているので、現時点でイアンと彼はそんなに接点が無い。

「以前この駐屯地を見に来たとき、貴方が近衛隊に剣術指南をしているのを見かけたそうですよ。非常に優れた剣を使う武将だと思われたそうです」

 数秒後、そういえばそんな話をしていたなとその時初めて思い出した。

「お聞きになりませんでしたか? 貴方は指南役は、受けてもいいと仰ったと……」

「あー……いや、言ったけど。単なる世辞だと思ってたから本気にしてへんかった」


「そうですか。ジィナイース様はあまり剣術に今まで興味を示されませんでした。妃殿下も、殿下はいずれヴェネトの王になる方なのだから、さほどご自分で剣を持つ必要はないと考えておられるのですが」


 それがヴェネト王妃とスペイン王妃の考え方の違いや、とイアンは思う。

 スペインのアラゴン王家では、王子達は王子であると同時に、軍の指揮官だった。

 指揮官が武芸も出来ないなど、兵達に余計な気遣いをさせると、子供の頃から剣、弓、馬、槍など武芸一般を叩き込まれる。

 王女までもが、アラゴン家は「武門の家に嫁いだら、妻でも弓を引き馬に乗れる必要がある」という王妃の方針で、弓と馬の扱いは教えられるほどなのだ。

 貴方は高貴な人間だから剣など自ら握らなくていい、などとは絶対言われない。

「今は父上もご病気で、王家には男子が王太子一人。何か思うことがおありなのでしょう。

 自分の身を守れるくらいの剣は学びたいと、殿下がそんな風に仰るのは初めてのことで、そういうことならばと妃殿下が許可されました。よって、殿下の随行としてなら、貴方に王家の狩り場の出入りを許可します」

「王家の狩り場って……あの湿地帯か?」

「ええ」

「はあ……、それは……どうも……」

 よく分からないが、イアンは頷いた。

 別に難しい任務では無い。

「王家の狩り場は先代の王がよく城におられるときに使われましたが、今の陛下はあまり狩りを好まない方だったので」


 先代の王……。

 イアンは聞き覚えがあった。


「それって海に出とった……ユリウス陛下のことか?」

「ご存じでしたか?」

「いや街で噂は聞いた。ほぼ一年中海の上にいたって」

「そうです。狩り場をお使いになっていたのはまだ陛下が王太子の時、若い頃か、時折お戻りになったときでした」

「ふーん……」

「殿下は他の勉強もありますし、夜会などにも出席されなければなりませんので、予定は調整しながらということになりますが、よろしいでしょうか?」

「ええよ。別に俺の予定なんてあんたらの方が把握してるやろし。ああ、でも最近仕事が早く片付いたら街に出て食事したり観劇したりしとるから、予定はその日のうち早めに伝えにきてや。直前で今からやる呼び出せとか言って俺が城下に出ててそんなことで怒らんといてや」

「教育係には伝えておきましょう」

「おー。」

「剣と弓、簡単な護身術を教えて頂ければ構いませんので。狩り場に出られるときは、私も時間があるときは見に参ります」

「それは好きにしたらええよ。でもヴェネトの剣技もあるやろ? 俺が教えるとスペインの剣技に……」


「――それは、将軍にヴェネトの剣技を学んで頂きます」


 イアンは半眼になった。

「……なんで俺が今更そんな士官候補生みたいなことせなあかんのや……」

「いかにも戦歴輝かしいスペイン騎士たる将軍に、今更他国の剣を一から学べとは、私もいささか非礼とは思ったのですが、王太子たっての希望とあり仕方なくご提案……もしご不満でしたらその旨妃殿下に……」


「あ~~~~~~~~! 分かった分かった! 覚える! 覚える覚える! 楽勝や! 俺は剣の天才やからすぐ覚える! ちゃんと王太子殿下に立派なヴェネト騎士の剣技教えるから!」


「では、そのようによろしくお願い致します。後ほど、僭越ながら将軍にヴェネトの剣技を教える者を遣わしますので」

「ハイハイ……」

 もう何でも好きにしてくれよという感じである。

「将軍には近衛団団長としての任務があるのは承知しております。殿下の授業はあくまでも、その任務優先で引き受けて下されれば構いませんので」

「ハイハイ……」

「多少例外的な措置はありますが、あくまでも将軍は王太子の剣術指南役となられますので、慣例に従い、大運河沿いに屋敷をご用意致しました。勿論この駐屯地の私室も引き続き好きにお使い下さい」

「ハイハイ……」

「新しい屋敷には執事も召使いも置いておりますので、将軍がご不在の際もきちんと屋敷を管理しておりますのでお気遣いなく」

「ハイは……」

 適当に流していたイアンは突然我に返った。


「えっ⁉ 俺の屋敷⁉ 城の外で暮らしてええの⁉」


 身を乗り出して突然食いつかれ、さすがに冷静な参謀も少し身を引いた。

「それは……はい。普通は将軍位に着かれた方には王宮が屋敷を与えるのですが、他国から急遽ヴェネト入りなされたエルスバト将軍には、これまで騎士館の一室しか与える間もなく、申し訳ないことをしたと妃殿下もお詫びしておられます」


「いや全然そんなんはいいんやけど……ええっ! ホントに俺が普通で一人で住んでいい家⁉」


 彼はスペイン海軍の将軍で、しかも末とはいえスペイン王家の王子なのになんで家をもらったことにこんなに喜んでいるんだろうかという顔をロシェルは見せたが、静かに頷く。

「はい。将軍もヴェネト王宮でお過ごしになられ、社交界とも関わられるようになるでしょうし、このような場所しかないと不便かと……」


「いや社交界との関わりとかは全然ええねんけど、これで人の目気にしてコソコソ煙草吸ったりせんでええし、ちょっと街で遅くまで飲んだときにわざわざ門番に戻ってくるときあのスペイン将校夜遊びばっかりやって言いふらすんやないでとか釘ささんでええし、スペイン海軍の連中にあの親分いつまで騎士館の一室しか与えられないつもりや可哀想とか悲しそうな目で見られんでいいし、あのクソむかつくフランス艦隊総司令官に一人暮らしって優雅でいいよ~ああでも君の家もみんな家族と思えば駐屯地の騎士館で賑やかに暮らせて楽しそうだよねえとか見下されんでええし、風呂に入って歌いたい時誰か聞いてへんかなって怯えながら鼻歌歌わんでええねんな⁉ 全力で歌ってええんや!

 街で折角ヴェネトの人と仲良くなっても、どこに住んでいらっしゃるの? って聞かれたらいちいち気まずい顔して『話せば長くなるんだが』から説明始めないでいいねんな⁉」


「……。……はい……それは……。今まで、多大なご不便をおかけしていたことを、ヴェネトを代表しお詫び致します……」

 こいつそんなに色々我慢してたのか……という感じで呆気に取られてロシェルは頷いた。


「おわ~~~~~~~~! メッチャ嬉しい! やるやる! そんなもん頂けるならどんだけでも一生懸命殿下に剣をお教えします! って妃殿下に伝えといてや!

 もう屋敷用意出来てんの⁉ 今日、今この瞬間から行ってもいいんかな⁉」


「……はい、あの……では、すぐに場所を案内する者を……」

「あ~~! そんなんわざわざしてもらんでええ! 場所教えてくれ! 勝手に一人で行く!」

 イアンが側にあった王都の地図をもぎ取ってロシェルに差し出す。

「はい、ではあの……大運河沿いにあるこのバッタジア区に、お屋敷を用意させて頂きました……この水路に張り出していて、円形の非常に美しい屋敷ですので、お分かりになるかと……以前暮らしておられたバルトラ公爵にちなんで、街ではバルトラ宮の名でも知られております」


「バルトラ宮な! わかった! 迷子になったら町の人に聞くわ! おおきにー! じゃあ行ってきまーす!」


 スペイン将校は地図を握りしめたまま、元気よく部屋を飛び出していった。


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