海に沈むジグラート 第55話【イアンの直感】

七海ポルカ

第1話 イアンの直感



 彼はそこで、微笑んでいる。


 確か、つい最近十六歳になったと聞いた。


 十六歳……。


 確かに非凡な才能は、それを発揮し始めるような時期だ。

 少年時代の殻を破り、大人として扱われていく。

 社交界入りし、実際の戦場に立つ。

 イアン・エルスバトの日常には、規律や線引きがあった。

 幼い頃はその線引きが、煩わしかったこともある。その先へ行きたいと思っても、大人の世界はイアンの前で扉を閉めたからだ。

 特に母親は厳格で、年齢における規律は必ず守らせた。


 イアンも異例の早さで戦場に出たが、これは兄弟の中でも特別だった。

 早く戦場に出て学びたい、船に乗りたいと言っても、十四歳まで駄目だと王妃に言われ、八歳のイアンは文字通り父親にしがみついた。父親を見かけるたびに戦場に連れて行ってくれと頼み込み、やかましいわ! と拳骨されても引き下がらなかった。日が昇る前に起き出し、寝坊なんかしないぞ! だから連れて行ってくれ! と父親の眠るベッドの上で飛び跳ねた。聞き分けがないので部屋に閉じ込められたりもしたが、全く反省しなかった。


 果ては軍船の荷にこっそり紛れ込んでついて行こうとするので、発見したスペイン海軍の兵が、「この樽は船底に積み込むところだった。このままでは知らないうちに王子を殺しかねない」と王に懇願し、困り果てた王が王妃に「私が必ず面倒を見るから」と頼み込んだのだ。

 イアンは母親に呼ばれた。まず「父上に、母に頭を下げさせるような真似をさせるんじゃありません」と頭を叩かれた。これはもう儀式のようなものなので、甘んじて受ける。


「父上は貴方の面倒を見て、必ず無事に帰還させるからと私に仰いましたが、そんなことはしなくていいと私は言っておきました。軍船に乗れば、王は指揮官です。指揮官は部下の面倒を見るものです。自分の息子の世話を焼く必要はありません。自分の子供のことなどに気を取られていては、指揮官として隙が生まれます。その隙を敵に突かれて、船が沈み、多くの勇敢な兵士達が死んだら、あまりにも彼らが哀れです。だから決して、慣例の十四歳を超えるまでは、母は王子が戦場に関わることを許しません」


 イアンはがっかりした。

 自分の母親がこんな顔でこんなことを言うと、決して天地がひっくり返っても望みが叶わないことを知っていたからだ。


「……ですから、父上には言っておきました。私は今日から、末の息子がいたことは忘れますと。十四歳になるまで、六年間、貴方のことは忘れます。この六年間は軍船から、一度も下りてはなりません。王子。陸に上がらず、城にも戻らず、母や家族にも会ってはなりません。父上を陛下と呼び、膝を突き、臣下の礼を取って敬いなさい。

 ……私のことは妃殿下と。母と呼ぶことを禁じます。

 軍船の上では年上の者、経験のある者に従いなさい。

 十四歳になり、貴方がその六年を経ても、まだ海の上に出たいというのであれば、その時は母は認めましょう。出来ますか?」


 厳しい母の言葉に、一瞬呆気に取られたが、結局その時イアンが強く印象に残ったのは、「船に乗れるかもしれない」という部分だけだった。

 すぐに強い表情になり、うん、と頷いた。

 八歳の少年が、家族と六年間会うなと言われても、少しも悲しまなかった。

 王妃はため息をつく。


「分かりました。では今夜のうちに軍港へ向かいなさい。普通の王子のように、華やかに王宮から送り出すなどということはしません。自分の足で、馬を使って向かいなさい。

 いいですか、王子。船の上での生活は、貴方が思うように自由で楽しくはありませんよ。

 しかも貴方は軍船に乗るのです。戦場では何が起こるか分かりません。

 私は今日から、貴方は死んだと思います。そうでなければ無事だろうかと貴方を想って、これから六年間毎日生きた心地がしません。いいですね!」


 イアンは「行って参ります!」などと元気いっぱいに敬礼し、城を飛び出した。

 彼はそれから六年、本当に城に戻らなかった。船が陸に着岸しても、街には行かず、遊びもせず、船に残り掃除や整備の手伝いをして過ごした。

 イアンは海兵として振る舞った。時折王や、自分の兄である王子達も乗ったが、王家の一員のような顔はせず、黙々と働いた。

 慣例を守り、船に乗った兄王子たちは、王から直接色々な教えを受けていた。

 ……家族にとっては偉大な父から、直接手ほどきを受ける兄たちの姿を、羨んだ気持ちが少しも無かったと言えば嘘になるが、自分が選んだことだ、と言い聞かせた。


 最初はこんな幼い王子が船に乗るなんて困るという顔をしていたスペイン海軍の人々も、一年を超えるとイアンの覚悟を理解してくれたようで、王家の人間が来て、海軍の人々が彼らをもてなしても、そこには加わらず一人で過ごしているイアンを気遣い、彼らは末の弟のように構ってくれた。

 実戦を積み十四歳になった時はもう大型艦を指揮できるようにまでになっていて、スペイン海軍の兵や将校からも、信頼を得ていた。

 実際の戦場にはもう出ていたから、十四歳の時には丁度、神聖ローマ帝国軍の侵攻を受けて、事実上瓦解したイタリアの海軍が、イオニア海に展開し、最後の抵抗をしていたため、乗船する王族を捕らえようとフランス艦隊とスペイン艦隊が激しく対峙していた。


 結局十四歳のうちには本国に戻れず、イアンが王宮に戻ったのは十六歳の冬だった。

 正直、八年の船の上での暮らしで、すっかり現実主義者になっていたイアンは、王家の慣例を破って城を出た自分が、いくら実績を積んだからといって、よくやったよくやったなどと華々しく王宮で迎えられるとは思っていなかった。

 母親にも、八年間、一つの文も書かなかった。

 父にも。


「知らんうちに俺は勘当されてるかもしれん」


 くらいに思っていたほどだ。

 海軍の人たちはそんな風に言って「ほな、殴られに城に行ってくるわ」と出て行ったイアンに「もし勘当されたらうちの子になってええぞ」と笑いながら声を掛けてくれた。

 イアンはとにかく王子としての公務に戻れないならば、階級などは構わないから、下級海兵としてスペイン海軍に属させて欲しいと、王妃に頼み込むつもりだった。

 供も付けず、裏口から入り、王妃に取り次いで欲しいと頼んで人気の無い、裏の通路で待っていると、きっと侍従が呼びに来ると思っていたのに、母親である王妃がそんなところまで姿を現わした。


 母親の泣き顔を見たのは、イアンは後にも先にもあの一度だけである。


 背はすっかり、母親に追いついてきていた。

 普段そんなに感情を露わにする女性ではないのに、少女のように通路を駆けてきた母親は、拳骨より前にイアンを抱きしめて、よく無事で戻ってきましたねと労ってくれた。

 あの時正直なところ、母親の涙を見たときに泣きそうになったのだが、意地で泣かなかった、というのがイアンの人生で今のところ、最大の戦果だと個人的には思っている。

 皆で貴方の帰りを迎えようと用意していたのに何故こんなこっそりと戻ってくるのですかと叱られて、そんな用意をされているとも知らなかったイアンは、後日、艦隊の者が正確な帰還の時期を城に知らせていたことを知るのだが、その時は分からず「いや……そんな迎えてもらえると全然思って無くて」ともごもご答えてしまった。

 人々に迎えられ、王と王妃と、兄弟である王子達に労われ、イアンは王家の慣例を破りながらも、慣例通り、十四歳以上でスペインの王子として艦隊の指揮を執る資格を与えられたわけである。


 イアンは、母親に一生の借りが出来た。

 無謀な自分の願いを叶えさせてくれた。


 彼女を悲しませて、

 多分、母親として一番息子の側にいたかっただろう時期に共におらず、一度も声を掛けなかったのだから。心の底から、悪かったと思っているのだ。


 ……それでもイアンは、あの時城を出て、良かったと思っている。


 言われたとおり海の上での生活は、辛いことも多かったが、全てが少年の期待を裏切ったわけでもなかった。

 生活が厳しくても、同じ船に乗ってる者達が家族のように支えてくれた。

 大海原の景色――。

 澄んだ水平線の先に、敵の一番最初の影が見える瞬間……。

 戦いも、勝利も、

 陸の世界にいるだけでは、あの感動は味わえない。


 ネーリ・バルネチアの静かな微笑みが、脳裏にずっと残っている。


 不思議な感じがした。

 初めて、目の前に何もない、大海原に出たときのような、

 あの、感覚。

 イアンは初めて海に、畏敬の念を覚えた。

 こんなに美しく、こんなに圧倒的な存在は、他にはない。

 空のように果てしないが、

 空のように遠くの存在ではない。

 触れることも出来る、

 海には空には無い、強い、そこにいるという存在感があった。

 決して自分はこの存在に勝てないだろうという、そういう気持ちだ。

 父や母にしか感じなかった、大きな感動を、初めて海に感じた。


 イアンにとって、確かに画家というものは、未知の存在だ。あまり詳しくない。

 彼らが軍人のように何を糧にし、何を支えに絵に人生を捧げるのか、分からない。

 それでも経験も、歳も、自分よりも欠けているネーリ・バルネチアに、どうしてこんなに、彼という人間を見せられているような気持ちになるのだろう。

 イアンは、父や、兄や、船に長く乗っている人間達がそうだった。

 今までは。


 船の上では本当に、経験が物を言う。

 普段生意気な新人も、結局嵐の夜に遭遇すれば、経験者に縋るしか無い。

 経験者を敬うことをイアンは船の上で学んだ。

 年下の人間でも、確かに優れた非凡な才能を持つ者はいる。

 フェルディナントも、イアンより数歳年下だ。

 彼は戦場で相見えるならば、対等な力を持つ指揮官だと思っているが、それでも年下だった。優秀で、天才肌ではあるが、自分の方が武人として経験を積んでいる。

 だから街中で会ってもイアンは平気で兄貴面が出来た。


 ……ネーリは不思議な青年だった。


 本国ではイアンは、ネーリより稼いでいる画家に、何人も会った。

 大したことが無くても稼いでいる画家が存在するのが、美術界の非常に胡散臭い所なのだが、彼の場合、目利きする母親が尊重する画家とも、会ったことがある。要するに本当の実力者だ。

 それでも、心のどこかで芸術は軍事に劣る、という気持ちがあったのか、巨匠と言われる人物にあっても、画家を「すごい」なんて思ったことが無かった。せいぜい、彼らはいいか悪いか、面白いか面白くないかだ。


 じっと、ヴェネツィアの方を見ていた、あの横顔が忘れられない。


 絵を描いているときも、没頭したああいう表情をしたことはあるが、先日夜道の帰りがけに見た表情は、初めてだった。

 寒い中、身じろぎもせずそこに佇んで、何かを思って何かを彼は見ていた。

 ……父親や、もっと継承権の高い兄たちや、戦場の指揮官達が、時折ああいう空気を見せることがある。

 何かを背負い込んだ人間だけが見せる、緊張した空気。


(あの子は画家なのに、

 まだ、十六なのに、

 なんであんな表情が出来るんや)


 スペイン王妃に自分の絵を買い取られ、山のような金貨を積まれても、浮かれることも驕ることも無い。自分の住む家も無いのに、まず今までお世話になった教会に寄付したいなんて、十六の子供が言うことかと思う。

 確かに彼は裕福な祖父と、短い間だが過ごし、裕福な生活をしたことがあるようだった。

 船の上でも過ごしたことがあるようだったから、あまり裕福な暮らしや、家を持つことに、期待をしてないのかもしれない。


 旅暮らしが似合ってる人間というものは確かにいるので、生粋の画家である彼は、今でも絵が十分描けているのだから、あんな大金あって、貴族のような責任を負うことになっても逆に面倒だと思うのかもしれない。

 だがイアンの経験上、そういう流れ者のような魂を持つ者は、もっとお気楽な表情を浮かべて毎日を暮らしている方が多い。

 教会に身を寄せるが属しているわけでは無く、だが教会に感謝し、彼らを手伝い、そこに通う子供達の面倒も彼は見ている。


 ヴェネト王宮の王妃達は、三国を吹っ飛ばしておきながら説明もせず【シビュラの塔】の砲口を世界に向けたまま、夜会三昧をするような恥知らずだ。

 ネーリは、フェルディナントがエルスタルの王子だと知ったとき、涙を流した。

 彼はヴェネトの一市民に過ぎないのに、自分の国がフェルディナントの母国に何をしたのか、どんな罪深いことをしたのか理解している。

 そのことで笑えなくなるくらい、彼は罪悪感を感じていた。

 芸術家ならではの感受性の強さ、子供の純粋さなのかとも思ったが、

 ヴェネトの芸術家も子供達も、笑いながら生活はしている。


『もしあの人達が本当に仮面の男なら、

 確かに僕は、フレディにも話さなかったと思う。

 きっと彼らのことを秘密にして、

 何をしていても、庇ってあげたいと思った』


 あの言葉がずっと残ってる。

 身寄りの無い、十六歳の青年の、言う言葉だろうか?

 ネーリは【有翼旅団】は知らないし、今も行方は全く分からないと言っていた。

 多分あれは真実だ。嘘をついているという感じは無かった。

 しかし、彼が【有翼旅団】と会ったのは、祖父が存命していた十年近く前のことだ。

 ネーリは六歳かそこらである。

 それからずっと、会ったことも無い彼らを、今もあんなに信じることが出来るだろうか?


 彼には確かに、何かがある。

 何か、彼が口に出していない事情だ。

 それが彼があんなに非凡な画家であることと何か関わりがあるのか、それともそんな画家なのに、絵を売りもせずここまでやって来たことと関わっているのか、はたまたそれとは一切無い、全く違う別の理由があるのかは分からない。

 ただイアンさえ、彼は会ったことのない人間だ、と思うような何かをネーリ・バルネチアからは感じた。

(もっと話が聞いてみたいなあ……。あの子に。別に捜査のこととか全然関わりなくていいから、何を考えて今までやって来たのかとか、これからどうしていきたいのかとか、ちゃんと聞いてみたい。フェルディナントのヤツは、神聖ローマ帝国に連れ帰って宮廷画家にするとか言っとったけど……)

 煙草を吹かしながらイアンは椅子に頬杖を突いた。

(ヴェネトを出て、どこかの国で絵が売れて、宮廷画家になって一生、画家として生きていく)

 船の上で、一度話した時のことを思い出した。

 昔、船に乗ったことがあると話したとき、彼の目が輝いていた。

 イアンが彼を好ましいと思ったのは、彼も海が好きな人間だと分かったからだ。

 彼は確かに宮廷画家になるべき素質を持っている。イアンは疑いもしない。

 でも同時に思う。


(……そんな退屈な暮らし、あの子には似合わん)


 貴族達に囲まれて、夜会に呼ばれ、生活の全てを保証されながら、その囲いの中で生きていく。

 上手く表現できない。結局はネーリがどんな生き方を望むかどうかだけれど。

 でも、似合わない、と思う。

 例えばこの国の王太子のように王宮に籠もり、多くの者を引き連れ、退屈が最大の苦労だなんて言うような生活は、彼には似合わないのだ。


(ネーリの絵が凄いのは、魂が籠もっとるからや)


 イアンはスペイン艦隊の絵を思い出した。

 何度も塗り重ね、現実のような存在感を持ったあの絵。

 イアンの母親である王妃は、本当に芸術品を見る目があるのだ。国でもそれは有名で、中途半端な力量の芸術家は、王妃の訪問を知って、自分の作品を慌てて下げたという逸話もあるくらいなのである。

 ネーリの絵ならば、良い画家ですね、くらいは言う自信はあったが、彼の絵を見た母親の反応は、イアンの予想を超えていた。恐らく、あのスペイン艦隊の絵だけではなく、更にもっと様々な作品を世に出せる画家だと見たのだろう。

 さすがは目利きで知られるスペイン王妃だった。


(魂なら、大人も子供も関係あらへん)


 八歳のイアンは、今日からお前を死んだと思うと母親に言われても、船に乗った。

 母の膝の上で甘やかされるより、一日も早く大艦隊の指揮官になりたかったからだ。

 それは気持ちであり、願いなので、あの八年間を過ごした自分をイアンは少しも偉いなどと思っていない。それでも多くの人が、立派なことだとそのことを褒めてくれた。

 誰でも出来ることでは無い、と。

 ヴェネト中の教会を渡り歩き、親切を受けたという。

 別に今日、寝る場所がどこにもないという生活だったわけではなく、教会に身を寄せれば、食べさせてもらえたとネーリは言っていた。だから家が無くても、あったようなものだと。

 他国では教会がそんな簡単に施しをせず、本当に住む家が無く、飢餓に毎日苦しむような人間がいることも彼は知っていた。


 だからネーリは言うのだ。

 自分はたくさんの人に支えられて生きて来れた。

『幸運』だった、と。


 今の暮らしが彼にとっての幸運なら、

 ネーリ・バルネチアの幸せとは、一体何なのだろうと思う。


 ……それは分からないけど、


 目に見える事実はある。

 ネーリはあの歳で、戦場を知っているイアンの心を静めるような微笑みを浮かべることが出来、本当の孤独を知っているような横顔を見せるのだ。



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