狐狸のことわり。

 恵次けいじははくはく、と声が出ないまま口を動かした。

 そんなことがあってたまるか。妖怪など恐ろしいことこの上ないのに。


「じゃ、じゃあ狸親父って、和尚おしょうは……」

「あいつはこの山で有名な化け狸だよ」


 恵次はここでもう一度気絶をしてもいいか、と思った。

 今目の前にいる数多の生き物が妖怪である、それだけでも卒倒ものなのに、自身が身を置いていた寺の和尚が化け狸? 狸に育てられ、食われそうになった人間になりかけたと思うと、これはさて笑い事ではない。


 蓮白れんはくはつむじ風を収めて手を差し伸べてきた。恵次は恐れて手を取らず、自力で立ち上がる。尻もちのせいで白の羽織が土に汚れてしまっていた。


「狸は謙虚であるべきだ。少なくとも、僕がいるこの山ではね」


 蓮白は恵次の行動をどう受け取ったのか、山奥の寺がある方角を見据みすえ、怒りをあらわにして尻尾を逆立てた。

 こうして見ると、感情がすべて尾に反映されるので少し面白い。


「ましてや人間に手を出そうなど法度はっと中の法度。められては困る」

「じゃあ、願掛けでたぬきそばを食わされたのは」

「少年、察しがいいね。君は寺育ちだから、獣臭いたぬき汁は避けたんだ。……もっと感謝してくれてもいいよ」


 あと少しで触れてしまいそうなほどに迫られて、恵次は顔を逸らした。


 蓮白は恵次はの拒絶に少し残念そうな顔をして姿勢を戻すと、提灯を掲げて尻尾を収めた。そして出会った時とさして変わらない格好に戻る。


「ではあの寺百年ぶりの代替わりといこう」






 そしてたどり着いたのは、因縁いんねんの寺。

 恵次は背筋を這うような寒気に腕をさすった。またあの坊主に顔を合わせなくてはいけないと思うとぞっとする。

 蓮白は真っ向勝負、と言って玄関に立つと声を張った。こんな夜分に誰が何のようだ、とあまが数人束になってやってくる。

 どういった策なのか、恵次は知らされていない。側で立って見ているだけだ。


 門のかんぬきは外され蓮白は作戦通りと目を細めた。中からは女性たちがいぶかに二人の訪問者を見上げる。

 そうすると蓮白は彼女らの頬に手を添えてじっと目を見つめた。すると尼らは次々と傀儡かいらいのようにぎこちない動きを見せて、ついにはその場に倒れ込んでしまう。


「何をしたんですか?」

「ただの催眠だよ」


 かくして開いた門を潜り抜けると、蓮白は勝手知ったるかのように和尚の寝床へ足先を向けた。度々首を回しては鼻を動かしている。狐は鼻が利くのだったか、恵次は後ろをついて歩くだけだ。


 そして中へ入る場所を見つけ、外回廊そとかいろうに上がろうとした時だ。


「誰だ、泥棒か!」


 誰何すいかする声が耳に入り、恵次はまずったと思った。しかし蓮白は飄々ひょうひょうとしてちょうどよかった、と冷静につぶやく。

 夜、山の暗さは人間にとっては、闇でしかない。しかし九尾の目にははっきりと映っていたようだ。そして狸も夜行性。夜目が効く。

 ここから恵次が見えなかったのだ、おそらく向こう側にも見えないはず。では声の主は──。


 そう推測したころには、蓮白は声のもとへ迫っていた。


「久々だ、古狸こり。元気にやっていたようだね。……元気すぎて物足りなくなってしまったかな?」


 蓮白が呼びかける、それは和尚だった。和尚は、あの日寝床へ誘われたときと同じ格好をしていて、恵次は顔をしかめた。嫌なことを思い出してしまいそうだ。


 しかし和尚は恵次を見つけるなり、まなじりを妙に垂れ下げてちょいちょいと手招きをした。恵次は肝を冷やして首を振り、蓮白が腕でかばう。


「悪いようだけど、彼に催眠は効かない。幸運にもこの少年は妖怪に腕を食われていたんだ。そして僕が腕を治してあげた。九つある尻尾の内に一つでね」


 蓮白が挑発するように、和尚を見下ろした。和尚はしばらく恵次の左腕を見つめて、今度は眦を吊り上げてゆく。


「ふ、ふざけるなぁっ! こいつはわしが育て上げたんだぞ!」

「文句ならつまみ食いした妖怪にどうぞ。僕はただ人助けをしただけだ」


 すると次の瞬間、怒り狂った和尚はぶくぶくと大きく丸い狸へと変貌しながら、突如とつじょとして蓮白へおそい掛かってきた。黒いとぐろを身に纏って恐ろしい。

 蓮白は、驚きに身を固めてしまっている恵次を後ろへ突き飛ばすと、爪の攻撃を身軽にあしらって、まるで手品のような手つきで人をかたどった紙切れ──式神を手にしていた。


 蓮白は恵次を呼んだ。


「提灯を投げてくれ」


 側に転がっている提灯は火を一定にともし続けている。ゆらゆら燃える炎はいつも見るものと違っていた。

 これもまた妖怪の何かだろうか。


「早く!」


 蓮白は猛攻撃を軽やかにかわすが、羽織は風にあおられて大きな狸の爪に引き裂かれた。催促の声に、恵次は震える手で提灯を掴み、放り投げる。

 九つの尾を顕現けんげんさせた蓮白は提灯を受け取ると、帯の隙間から珍しい装飾の煙管きせるを取り出した。そして先の金属部に提灯の火をかざす。煙管は少し火を上げて燃えたが、すぐに煙を立ち昇らせる。


「そうはさせんぞ! 九尾だか知らんが、ただの人間に釣り上げられた負け狐が」


 蓮白はそれまで弓なりにしていた口許くちもとを、瞬間真一文字にした。瞳も見開いて爛爛らんらんと光らせている。


太公望たいこうぼうが何だと……? 好き勝手言うじゃないか」


 そして容赦はせんと、鋭い目つきで狸を捕らえると、口に含んだ煙管の煙で式神を吹き飛ばした。

 和尚狸はささやかな吐息が大きな風を巻き起こすのに目をみはって、その大きな爪でしのごうとした。しかしそれは無意味で、巻き込むように吹き飛ばされた挙句あげく、張り付いた式神で小さく小さくしぼんでいく。


 蓮白はにんまりと再び表情に笑みを取り戻して、指人形ほどになってしまった狸をまみ上げた。小さなそれは何やら訴えているが、羽音のようにしか聞こえない。


「大口を叩くからこうなるんだ。ではまた来世でね、次はもう少し賢く産んでもらうように」


 そして、すべない狸坊主を丸のみにしたのだった。

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