第3章:人間の集落への接近

第3章:人間の集落への接近


 近づくにつれ、建物の形がはっきりしてくる。木造の柵に囲まれた村らしき場所。畑らしきものも見えるし、牛や鶏のような家畜が小屋に繋がれている。なるほど、人間が生活している“普通の村”だ。


 村の外れには監視役のような人間が立っている。弓を持ち、見張りをしているのかもしれない。こんな小さな村でも、魔物や盗賊対策なのだろう。


 ――ここに踏み込むのはかなりリスキーだ。見つかれば一斉に狩られる可能性が高い。とはいえ、情報やさらなる経験値を得る機会でもある。どうする?


 慎重に周囲を巡回しながら村の裏手に回ると、畑が広がっており、人がぽつぽつと農作業をしているのが見える。老人や子どもも混じっているようだ。


 そのとき、一人の子どもがこちらを見て目を丸くした。どうやら好奇心旺盛のようで、不思議そうにしながら近づいてくる。


 「おーい、羊? こんなとこに一匹でどうしたんだ?」


 子どもはあどけない笑顔を浮かべている。そこに悪意は見えない。しかし、自分は思い出してしまう。人間は結局、肉としての羊を食べる存在だ。例え目の前の子どもは悪意がなくても、彼の大人たちはどう思うか分からない。


 だが、同時に思う。この子どもをここで襲うのは……あまりに罪悪感が大きすぎる。すでに自分は人を襲ったが、それでも全ての人間を無差別に殺すわけではない。自分の存在を脅かす者には容赦しないが、まだ可能性を探してもいいのではないか。


 子どもがこちらに手を伸ばしてきた。頭を撫でようとしているのか、警戒心がまるでない。


 「ほら、毛並みふわふわー。食べ物、ちゃんと食べてるか?」


 子どもは懐から何かを取り出した。小さなパンのかけらだ。羊に与えようとしている。そんな様子を見ていると、胸がぎゅっと締めつけられる。


 ――こんな小さな子どもにまで牙を剥くのか? ……いや。


 自分はそっと目を伏せ、子どもの差し出すパンくずを舐める。メェッと小さく鳴くと、子どもは「やった、食べた!」と嬉しそうに笑った。


 「ほら、もうちょっとあげるよ。母さんには内緒だぞ」


 そう言ってさらに小さなパンの欠片を口元へ持ってくる。その素直な笑顔に、どう応えていいか分からない。もう既に人を殺し、食べてしまった自分は、こんな子どもの笑顔を受け入れる資格があるのか?


 すると、畑の向こうで大人の怒号が聞こえた。


 「アルフ! 何をしている!」


 ハッとして子どもが振り返る。そこには鍬(くわ)を担いだ屈強な男が立っていた。赤い髪を短く刈ったその男は、明らかに警戒している様子でこちらを睨む。


 「父さん、この羊、怪我とかしてないかな……捨てられたのかも」


 「バカを言うな。野良の羊なんざいないはずだ。どこかの牧場から逃げ出したにしても、危険があるかもしれない。下がれ」


 男は子ども――アルフと呼ばれた少年を制止しながら、自分を鋭い目つきで観察している。まさかこの男、危険を感じ取っているのか。


 「羊ごときになにを警戒するの?」とアルフは不満げに言う。だが、男は子どもには見せないような戦慄の表情を浮かべていた。いや、正確には違う。自身が何か違和感を覚えているらしい。


 「……何か、血の匂いがする。おまえは――ただの羊じゃないのか?」


 その言葉にゾクリとする。まさか、自分の体についた血の匂いに気づいたのだろうか。昨夜、あまりにも生々しい行為をしてしまったせいで洗い流す機会もなかった。


 「アルフ、こいつから離れろ。危ない」


 父親がそう言うのを聞いて、アルフは反論しようとするが、「とにかく下がっていろ」と強く言われて泣く泣く離れる。その瞬間、男は鍬を握り直し、自分に向かって構える。


 「ヘタに近づくなよ。俺は村の用心棒も兼ねてるんだ。それなりに腕には自信がある。もしおまえが化け物なら容赦しない」


 敵意むき出しだ。やはりこうなる。自分はどうする? この場で戦うか? だが相手はそこそこ腕が立ちそうだ。レベル3の今の自分でも、鍬とはいえ武器を扱う人間は脅威だ。しかも村には他にも大勢いる。勝ち目は薄い。


 ここは退却か。だが、一瞬、目の前で憎悪を含んだ表情をする男を見て血が煮えたぎる。もし襲って倒して食べれば、経験値は手に入るかもしれない。迷いが募る。


 すると、子ども――アルフがすすり泣く声が耳に入った。


 「ごめんね、羊さん。僕が余計なことして……」


 その声を聞いた途端、腹の底からこみ上げるものがあった。どうしようもなく切なく、罪悪感とも言えない感情が湧く。


 「……メェッ」


 小さく一声鳴いた。戦意はなく、ただそこにいた自分が申し訳なくて仕方がなかった。背を向けて走りだす。後ろから男の怒声が聞こえるが、すぐには追ってこないようだ。


 息を切らしながら村から離れた場所へ逃げ込む。結局、何も得ることはできなかった。あの男のような存在がいる限り、迂闊に村に入り込めば即座に殺されるだろう。


 自分は村人にとって明らかな“危険”とみなされている。それは当然だ、人間を食った化け物なのだから。しかし、幼い子どもは純粋に接してくれた。その事実が、かえって苦しかった。


 (結局……どこへ行けばいいんだ)


 荒野を再び彷徨う自分。何者でもない、ただの転生した魔羊。生きるか死ぬか、食うか食われるか。それがこの世界の理不尽なルールだ。


 その夜も、崖下の洞穴でじっと息を潜めながら眠りにつく。気づけば自分はまた、血塗れの悪夢を繰り返していた。

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