復讐のエチュードを貴方に

Youlife

第1話 1975年2月~悲劇は突然に~ 

 一九七五年 二月

 空は朝から白い雲に覆われ、絶え間なく雪が降り続いていた。

 五十崎和恵いそざきかずえは、母親の礼子れいこと共に自宅の庭に植えられた桃の木の下に立っていた。この木は、和恵が生まれた時に、父親であった晴彦はるひこが健やかな成長を願って植えたものだった。

 晴彦はピアニストであり、地元の大学でピアノの講師をしていたが、和恵が小学校に上がる前、原因不明の病気で突然この世を去ってしまった。

 和恵の背丈より少し高い程度の木には白い雪がうず高く積もっていたが、その先端にはピンク色のつぼみが徐々に見え始めていた。


「和恵。コンクールに行く前に、お父さんにちゃんと挨拶しなさい」


 和恵は雪を踏みしめながら、桃の木に手を添えると、寒さに頬を紅潮させながらゆっくりと語り始めた。


「お父さん、私、頑張ってくるね」


 すると、桃の木に降り積もった雪が、音を立てて次々と地面に落ちていった。

 まるで身を乗り出して「がんばってこい」と励ましているかのように。

 雪が降りしきる中、和恵と礼子は、桃の木をいつまでも見届けながら玄関を出ていった。


 会場となる地元の市民文化ホールの入口には、「ショパンコンクール地区予選大会」の大きな看板が立てられていた。

 看板を通り過ぎたその時、茶色い鞄を肩に担いだ黒縁メガネの男性が近づいてきた。


「あの、五十崎さんでしょうか?」

「はい」

「私、音楽新報という雑誌の榎本えのもとといいます。五十崎さんは地区だけでなく、全国大会でも金賞候補と言われています。お父さんの晴彦さんは数々のコンクールで優勝経験がありますし、その血を引く五十崎さんは我々の業界でも日本ピアノ界の将来を背負って立つ存在だと見込まれています。今日のコンクールについて、意気込みを聞かせてもらえませんか?」


 榎本と名乗る雑誌の記者は、手帳をめくると、ペンを手に和恵の表情をじっと伺っていた。


「おかあさんと毎日休む暇もなく練習したので、大丈夫だと思います」

「おお、頼もしい一言です。ちなみに今日のコンクールには、五十崎さんのライバルと言われている能勢宏子のせひろこさんも出るのですが、彼女には勝ちたいですか?」

「はい。でも、能勢さんもすごくうまいし、お母さんが有名なピアノの先生だし……」

「大丈夫ですよ、私は五十崎さんが圧倒的な演奏で勝つと信じてますので。じゃあ、がんばってくださいね~」


 榎本は手を振って、二人の元から遠ざかっていった。


「何よあの人、本番前に気が散るようなこと言わないで欲しいわよね?」

「……」

「でもさ、せめて宏子ちゃんには勝ちたいよね? 彼女のお母さんは、昔、うちのお父さんといつもコンクールで優勝争いしていたからね」


 宏子の母・千代子ちよこは、かつて和恵の父・晴彦と何度もピアノコンクールの優勝を争ったライバル関係にあった。しかし、晴彦が亡くなってからは、千代子がコンクールの賞を独占するようになった。今は大学の客員教授を務めるなど、国内でその実力が認められていた。

 礼子としては、晴彦の立場をそのまま千代子に奪われてしまったかのように感じ、そのことを内心快く思っていなかった。


 二人が控室に到着すると、すでに多くの参加者たちが整然と並べられた椅子に腰かけていた。


「ちょうど二つ席が空いてるわね。出番が来るまで腰掛けて待ってましょ」

「うん」


 控室には、時々大会役員がやってきては、エントリー番号と名前を読み上げ、ステージへと誘導していった。

 和恵の出番は、十五番目だ。まだまだ余裕があるものの、出番の時は刻一刻と迫っていた。

 いよいよ出番が迫りつつあったその時、宏子が千代子に付き添われ、ようやく控室に姿を見せた。

 花柄のフリル付きのドレスで着飾った宏子は、髪型を整え、化粧も施し、気合十分であった。宏子は千代子の手を離れ、靴音を立てながら控室の中を歩き、和恵の目の前までやってきた。


「ふーん、大分余裕そうね。まあ、せいぜいがんばってよね」


 宏子はそう言うと、大きな口を真横に開いて不敵な笑みを浮かべた。

 やがて、スーツ姿の男性がプログラムを片手に控室の中に入ってきた。


「十五番・五十崎和恵さん、出番ですので、こちらへどうぞ」


 和恵はふらつきながらもなんとか立ち上がり、礼子の前で拳を握りしめ「行ってくるね」と伝えた。礼子も拳を握り、「がんばれ」と言って送り出してくれた。

 和恵は男性の後を付いて、ステージに向かおうとした。

 暗い廊下を、コツコツと二つの靴音を立てながら歩いていると、やがて靴音がもう一つ増えていることに気づいた。

 和恵は不安になって辺りを見回したが、誰もいなかった。

 しかし、もう一つの靴音は、徐々に和恵の背後に迫っていた。


「誰なの!?」


 和恵が声を上げ、おそるおそる後ろを振り向いた。

 背後には、見ず知らずの若い男が立っていた。肩まで髪を無造作に伸ばし、廊下の薄明りに浮かび上がる頬や身体は痩せこけ、その手には、鋭利な果物ナイフが握られていた。ナイフは明かりに照らされ、鋭い光を放っていた。


「お嬢さん、こっちにおいで」


 低い唸るような声を上げ、肩まで伸ばした長い髪を揺らしながら、男はナイフを和恵の方に向けた。


「誰だお前は!」


 和恵を先導していた役員の男性が異変に気付き、和恵の前に躍り出て身を挺して男性から守ろうとした。

 男は空を切る音を立てながらナイフを振り回し、役員のジャケットの左裾を切り裂いた。役員は切り付けられた部分を押さえたが、やがて裾の奥からだらだらと赤い血が流れだしてきた。


「やだ……こわい……」


 和恵は血を見たショックのあまり、その場でしゃがみこんだ。


「ほら、立てよ。俺から逃げんじゃねえぞ!」


 男は和恵を抱きかかえると、ナイフを顔の辺りに突き付けた。


「ねえ、私……殺されちゃうの?」

「ガタガタ言わねえで、こっちに来るんだよ!」


 男は和恵を抱えたまま、焦燥しきった顔で廊下を駆け抜けた。


「こら! そこのあんた、どこに行くつもりなんだ!」


 やがて前方から施設の警備員が駆け付け、男の目の前で両手を広げ、先に行かせないようにした。


「しゃらくせえなあ! どけよっ!」


 男は髪を振り乱しながら、ナイフを左右に振り回した。警備員は必死にかわしたが、隙を見て男は警備員に体当たりした。

 男は真上から警備員の顔にナイフを突きつけた。


「これ以上何もされたくなかったら、ここから動くな。いいな」


 警備員は震え続けたまま、その場でうずくまった。男は舌打ちすると、和恵を抱えたまま雪が降りしきる外へと飛び出していった。


 雪は勢いを増し、あっという間に辺りを白く染め上げていた。男は雪に足を取られながらも、息を荒げながら必死に走り抜けていった。


 バタン!


 真後ろで、和恵が倒れ込んだ。どうやら雪に埋もれたコンクリートの段差に足を取られ、転倒してしまったようだ。

 和恵は顔中から血を流し、失神していた。

 発表会用にあつらえた青いドレスは雪にまみれ、無残な姿になっていた。


「このクソガキが、ちゃんと足元見て走りやがれ!」


 男は声を荒げ、和恵の頬を打った。しかし、和恵からは返事なく、小さな体は力なく地面に倒れ込んだ。

 やがて、後方から次々と赤色灯を照らした車がサイレンを鳴らしながらホールの方向へとやってきた。


「くそっ……このままじゃ任務完了コンプリートする前に捕まっちまう」


 男はナイフを懐に仕舞い込むと、歯ぎしりをしながら倒れたままの和恵を見届けていた。


「いつかきっとケリをつけてやるから、覚えてろ!」


 和恵を残し、男ははるか遠くへと走り去っていった。

 和恵は気を失ったまま、血だらけの顔を雪の上に伏せていた。


「あ、あそこに和恵さんが!」


 降りしきる雪の中、警察官が和恵の元へ駆けつけた。その隣には、礼子の姿があった。


「和恵! 返事してよ! 和恵!」


 礼子は必死に和恵に呼びかけた。やがて和恵は薄目を開け、聞き取りにくいほどのい小さく唸るような声を上げた。


「少しだけ意識が戻っているようですね。でもひどい傷があるし、皮膚が青くただれている。救急車を手配しますので、お母さんもご同行を」

「そんな! じゃあ、コンクールは……」

「無理ですね。こんな状態じゃ……今回は、辞退された方が娘さんの容態のためにもよろしいかと」

「そんな! あんなに練習したのに……!」


 礼子は降りしきる雪にまみれながら、和恵の体を強く抱きしめていた。



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