第4話 あの日の思い出

「ほら、起きて、夜々。今日はお爺ちゃんに会いに行く日でしょう」


 半開きの扉の隙間からお母さんの声がした。

 犬の縫いぐるみを抱えたままリビングに行くと、窓ガラスの向こうに代々木公園の樹林が見えた。近寄って覗くと空に太陽が見えて、光が夜々を照らした。


「夜々。おはよう。今日も縫いぐるみを抱えているのかい」


 ソファーに座るお父さんが笑顔をくれた。


「うん、毎日一緒に寝ているの」


「そうか、じゃあ、夜々の一番のお友達かな」

 

 うん。


「夜々、顔を洗って来て————」

 

 母さんの語尾は優しく夜々を包んだ。


「はーい」

 洗面所に向かうと、お父さんとお母さんの会話が仄かに聞こえてきた。


「今日は、父さんが進めている計画の最終実験だ」


「ねえ、でも……大丈夫なの。お義父さんは信頼できる方だけど、須来《す

らい》家はどうも信じられない。独善的なところもあるし……」


「計画を推進している須来琴すらいことくんは、確かに野心的ではあるが、太古の技術を未来に生かすことは間違いとも言い切れない。だから今日の実験に立ち会って、もう一度その意味を確認したいと思っている。反対の立場を取る盟主、月赤斗波つきあかとなみも今日は来るはずだから、彼とも話してみるよ」


「悪いことが何も起こらなければいいけど……」


 お母さんの声はとても薄かった。


 インターフォンが鳴った。

 

 縫いぐるみは腕の中で随分と小さくなっていた。つぶらで黒い瞳はプラスチック製で、左目はとうの昔に解けてどこかにいってしまっていた。

 

 どうにか起き上がり、すんと鼻を鳴らしてから目を擦る。

 夜々の足は鈍行で、ようやく辿り着いてインターフォンを取った。

 

 だが細い指先は、白いワイヤレスの受話器を床に落としてしまった。

 

 落ちた受話口から「うわっ」と喚く声が聞こえた。

 

 夜々は拾い上げて耳と口に近づける。

 

「まつり……なの」


「もうっ! 受話器、落としたでしょう。脅かさないでよ」


 壁のモニターに映るまつりは私服で、麻のような白いシャツを着ている。


 家業が服飾の彼女らしく、電子雑誌から飛び出してきたようなスタイルだ。


 夜々はおぼつかない足元で玄関に向かい、電子ロックを解錠した。

 かちゃりと扉を開けると、怒り顔のまつりがいた。


「……ごめん。まつり……で、今日は、どうした?……の」


「どうしたのって。時間よ。わざわざ夜々のために、来てあげたんだから」


「時間……とは」


「夜々。また定期連絡、見てないでしょう。昨晩の件、報告指示が出てるんだけど」


 見る気がない……とは言えない。


「あなた、【御照(みてら)】からの連絡、確認する気がないでしょう」


「……」


「報告とか、私がすればいいと思っているでしょう。自分は戦うだけでいいと……」

 

 夜々は顔を横にぶんぶんと振った。


「……まぁ、いいわ。さっさと着替えて、準備してよ」


 一連の対応でようやく目が覚めた夜々は、すたすたと床を歩いててリビングに向かった。

 靴を脱いで後をついて来たまつりがため息をついた。


「相変わらずの、散らかり具合……」

 

 えっ、そんなに? と内心でぼやいたが、辺りを見渡すと、床には服が散乱し、部屋の角には永遠梱包のダンボールが積まれていた。


「だけど、まつり。白と戦うときの服はクローゼットに整理整頓してあるから」


 夜々はクローゼットの扉を指差した。


「当たり前でしょう。だけどそれ以前に、一六歳の女子高生でしょう、あなた」


「まぁ、そうだけど……」


「服装ぐらい気を使いなさいよ」まつりが拾い上げた青いワンピースは、長く床に放置されていたせいで埃が装飾のように付着していた。

 

「元はいいのに……。高級食材を、料理の仕方を間違えて台無しにするタイプだ」

「なに、そのたとえ……」


「まんま、よ。この前、買って来てあげた基礎化粧品は、ちゃんと使ってるの?」


「……はい」


 夜夜は洗面所に向かい、鏡の前に立った。自動でライトがついた。

 ぼんやりと自分を眺めていると、鏡にまつりが映った。


「まつり、身体は、大丈夫?」


「打撲した程度よ。あの白は強力だった……あ、夜々。あと一〇分ぐらいで出ないと遅刻」


 夜々は急いで顔を洗い、リビングへ駆け込んだ。

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